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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編

作者: クロねこ

 雪の降る夜。

 私はひとり、町を歩く。

 そんなわたしを見て、道を歩く人は、汚いものを見るような目で、私を見ます。

 仕方がないのです。

 私は汚れています。服もぼろぼろです。足も素足だし、なにより、首にはめられた鎖の輪が、私のすべてを物語っています。


 私は奴隷です。ここまで、逃げてきました。


 記憶が蘇る。誰かが、私に向かって言いました。

『どうして、お前なんか。お前さえ、産まなければ、あたしは幸せになれたのに……』

 これは、誰に言われたのでしょうか。もう、覚えていません。

 ああ、さむい。

 冬の夜は凍えるように冷たいです。だけど、この世には、もっと冷たいものがあるのを私は知っています。それは、人の視線です。

 身体が震え。手が凍えても。私は、この寒さに耐えることができます。ですが、私を見る、この冷たい視線には耐えられない。

 おねがいです……。どうか、私を、そんな目で見ないで下さい。

 誰かが、私に向かって近づいてきます。子供でしょうか。

「――ねえ。お姉ちゃん。どうして、お姉ちゃんは、そんな格好をしているの?」

 小さな男の子が、私に尋ねます。

 答えられませんでした。喉の奥で、何かが、つっかえて。どうしていいのか、わからなかったのです。

 男の子は、首を傾げた。

 そして、私に向かって、手袋を差し出す。

 手編みの手袋。とても温かそうです。愛情の籠もった手袋は、たとえ、どんな高価な品を出しても、私が手にすることはできないものでしょう。

「受け取れません!」

 私は、強く断った。だが、小さな男の子は、聞き入れてくれませんでした。手袋を受け取るまで、男の子は、小さな手を引っ込めようとはしなかったのです。

 困った私は、男の子のから、手袋を受け取りました。こういうのを根性負けというのでしょうか。

 小さな男の子が、無邪気な顔で、手袋をはめてと言います。

 私が手袋をはめると、男の子は、満足そうに笑いました。つられて頬が緩くなる。

 そのときでした。何かが、強く弾けるような音。男の子は驚きます。私は申し訳ない気持ちで、胸がいっぱいになりました。この子には、悪いことをしてしまった。

 私は、そっと頬を押さえた。右頬が、じりじりと痛く、徐々に熱をもち始める。

「はあ、はあ……。うちの子に、触らないで!」

 この子の母親でしょうか。剣幕な表情で私を睨みます。こうなることは、わかっていたはずなのに、また同じことを繰り返してしまった。

「ごめんなさい! その。これ……お返しします」

 差し出した手袋は、私の掌ごと母親に弾き飛ばされました。

「いらないわよ。そんなの。あんたにあげるから! うちの子に近づかないで! 穢らわしい……」

 母親は、男の子の手を掴みます。男の子は、なぜ、怒っているのか、わからず泣き出してしまう。それでも母親は、一秒でも早く、私から男の子を遠ざけようとします。

 ええ、わかってます。悪いのは、あの男の子でも、私を叩いた母親でもない。私なのです。

 私は汚れています。そして、醜いのです。

 自虐的に笑った。

 あの母親は、そんな私を見て、気分を害してしまったのです。

 手袋を拾い上げ、再び歩き出す。叩かれた手の甲が、じりじりと痛み出す。

 痛みには慣れている。あの地獄のような日々を思い出すと、こんなの、たいしたことはありません。

 ふと、昔の記憶が蘇る。

 黒い影絵が、私をいじめるのです。痛い。痛い、と何度叫んでも、黒い影絵は、機械的な動作のように、同じことを繰り返します。

 言葉は通じません。ただ、気が済むまで、私を殴り続けるのです。

 脚で蹴り、物で殴り、罵声の言葉を浴びせても、まだ満足しない。私が苦しむ姿を、とことん楽しみたいのです。それが、たとえ、血の繋がった実子であっても、いや、だからこそ、私を殴るのかもしれません。

 影絵が、だんだん、女性の姿へと変わった。黄金に輝く髪、白い素肌、英国貴族のような気品のある身なり、私とおなじ、青い瞳をしていました。心のどこかで、この人が母親であると、理解しました。

 顔が、私と似ているのですから。嫌でも、わかります。皮肉ですよね。

 隠し部屋に閉じ込められていたときは、ほとんど、自由というものがありませんでした。食事は一日、一回、パンとスープが与えられます。パンは痛んでいて、スープは、水と油と塩で味付けされた、お粗末なものでした。それを大事に、よく噛んで食べます。お腹が満たされることはありません。どうしても我慢できないときは、服の袖を噛んで耐え忍びます。そんな生活も、ようやく終わりを迎えます。私の鎖が解かれたわけではありません。ここからが本当の地獄だったのです。

 風が強くなってきました。雪が舞い、視界もかなり悪いです。どこか屋根がある場所があればいいのですが。周りには、雪、風、しのげそうな場所はありません。

 閉じ込められていたときは、娯楽がなかったというわけではありません。古い絵本が、何冊かありました。その一冊に、マッチ売りの少女というものがあります。

 大晦日の晩。雪降る町の中で、少女はマッチを売り歩いていました。その途中、馬車が走ってきます。少女は間一髪のところで、九死に一生を得ました。ですが、その拍子に靴が脱げてしまい、裸足になった少女は、帽子もかぶらず、一日中、町の中を歩き続けました。それでもマッチは、一本も売れることはありませんでした。

 家に帰れば、父親に叱られてしまう。少女は、家に帰ることができなかったのです。

 あまりの寒さに、少女はこごえ、家の隅にたたずみます。そして、マッチを一本とりだし、擦ってみました。手にかざすと。そこには温かいスープが現れます。ですが、すぐに消えてなくなってしまう。マッチの火が消えたのです。

 二本目のマッチを擦りました。そこには、ガチョウの丸焼きが現れます。三本目のマッチを擦りました。次は、クリスマスツリーが現れます。次から次へと、マッチを擦ります。すると、少女の目の前に、少女を一番かわいがってくれた、死んだはずの――お婆さんが現れました。少女は、お婆さんが消えてしまわないよう。マッチの束を、全部、擦ってしまいます。

 少女は、お婆さんに抱きかかえられながら、空高く舞い上がり、消えてしまいました。そこには、お腹を空かせることもなく、寒さに震えることもない、悲しむことも、不安も全部、何一つ残らない。マッチも、少女も、灰となって燃やし尽くしてしまったのです。

 廃墟を見つけました。外観はボロボロで、中は筒抜けの状態です。中を覗くと、階段が見えます。何段かは朽ちているため、上ることができませんが。顔を上げると、大きな鐘のようなものが見えます。ここは、昔、教会だったのかもしれません。今は、見る影もありませんが。

 冷たい風が、頬をなでる。無感情のまま、私は、隠し持っていたナイフを取り出した。

 銀色に輝くナイフは、希望の光にも見える。

 ……私を、この世界から救ってくれる、導きの光。

 私には、マッチ売りの少女のような。私を大事に思ってくれる人は、一人も、いなかったけど。もう、いいの。教会の祭壇で、両手を重ね、祈りを捧げる。


 夢でも、幻でもいい。最後に、優しい言葉を、かけてほしかった……。

 涙が頬を伝う。構えたナイフは、ずっと、私の喉を狙っていました。

 痛みには、慣れている。だけど、内なる恐怖は、べつものです。

 手が震えて、うまく狙いが定まらない。両手で、しっかり押さえつけた。

 だいじょうぶ。怖くない。私は自由になるの。そこに痛みはないから、やっと、この苦しみから、解放される。

 ぐっと、息を止め。力一杯、自分の喉に向かって、ナイフを突き立てた。

 銀色に光るナイフは、真っ直ぐ、私の喉に向かってやってくる。それは、ほんの一瞬、だけど、とても長い時間のように感じられた。重く、閉ざした瞼を開ける。

 命が燃える瞬間は、こんなにも長かったなんて、しらなかった……。

 だけど、それは違ったようです。ナイフの先端から、血が流れ、痛々しい。はっと、顔を向けた。

「どうして邪魔をしたんですか……! やっと、やっと、自由になれると思ったのに!」

 突然、目の前に現れた男の人を、きつく睨みつけた。

「ふざけるな! お前、命を粗末にして、いいわけねぇだろう!」

 男の人に、一喝され、身体が萎縮する。そのとき記憶がフラッシュバックした。

「――ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」

 床にしゃがみ込み、両手で頭を抱え、壊れたように同じセリフを繰り返していた。目の焦点が合わない。その怯えた様子に、男の人は一瞬、たじろぐ。

「お、おい……!」

「いや。さわらないで!」

 パンと手を振り払った。

 狂ったように暴れ回り、泣き叫ぶ、その姿は、まるで小さな子供のよう。身体は成長しても、心は、ずっと、子供のまま……。

 目の前に、黒い影絵が現れた。ガタイのいい男の人。獣のような顔をして、ベッドに身体を押し倒す。こわくて、声が出ません。私の胸を触ろうとします。嫌で不快で、気持ち悪くて、でも、声が出なくて、ひたすら耐えるしかなかったのです。影絵は、私の身体を弄びます。それは、まるで玩具を扱うように。

 私にとって、男の人は、恐怖の象徴。過去の記憶は、永遠に消えることはありません。奴隷であるがゆえに。私には自由がない。生まれたときから。ずっと、誰かの奴隷なのです。この首にはめられた鎖の輪は、私が奴隷である証拠。その事実は変わりません。

 これがある限り、私は人として生きる権利がないのです。

 いつか、この鎖が外される、その日がきても、見えない手が――過去からの足音が、永遠に私を苦しめ続ける。一度、迷い込んだ袋小路の迷宮からは、決して逃れることができない運命にあるのです。

 だから、楽な方法を選んだ。袋小路から、抜け出せる、唯一の方法。それ以外に、選択肢はなかった。私は、ずっと、自分の死に場所を探していた。そして、やっと見つけた。

 ここは町から離れた場所にある教会。外観はボロボロで手入れされていなかった。人の記憶から風化され忘れ去られた場所。誰かが、やってくるような場所じゃない、そう思っていました。

 ここなら、誰にも邪魔されない。ここでなら、静かに人生を終えることができる。誰にも知られず、誰にも迷惑をかけない、私という存在を、この世から消し去ることができる。

 私は、雪になりたい。

 雪のように白く、最後は、溶けて消えて、なくなりたい……。


 動悸が速くなり。息苦しい、うまく呼吸ができない。

「だいじょうぶか!」

「――ち、近づかないでください」

 額から大粒の汗を流し、懸命に拒絶した。男の人は、立ち止まる。

「わ、わかった……!」

 私たちは、四、五メートル距離をとり。離れて会話を始める。

「少しは、落ち着いたか……?」

「はい」

 距離をとったことで、呼吸も落ち着き、何とか会話できるところまで回復した。

「どうして……。命を粗末にしようとした?」

「私が……いらない、『存在』だからです」

 男は、眉間に皺を寄せた。

「……そんなわけねぇだろう」

 男は、決して、馬鹿にしたつもりはなかった。だが、このときの私は、そう思わなかった。目つきが変わる。

「だって! 私は、ずっと、ずっと……。そう言われ続けてきたんです! 何の才能もない。頭も悪い。何をやってもできない。ただの無能。愚図で、のろまで、できの悪い子。どうして、あんたなんかが生まれてきたの? あんたさえ、産まなければ、あたしは幸せになれたのに! あんたは、あたしの子供じゃない。見ているだけで……虫唾が走る。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い」

 私は、嗚咽した。


 男は、彼女に、何があったのか知らない。だが、それでも、目の前の少女を、このまま見過ごすことができなかった。ふと、気づく。自分の手から血が流れていた。さっきナイフを掴んだときに、切ったものだった。赤くにじむ手を、ぎゅっと握りしめた。

「それでも、俺は、お前に生きてほしい……」

 彼女は、首を横に振る。ちぎれた鎖の部分から、軽い金属音をたてた。

「……無理ですよ。私は、生きたいと思いません。ほっといて下さい」

 それが、彼女の本心なのだろうか……。俺には、彼女が本当のことを言っているようには思えなかった。底知れぬ絶望の顔からは、そうすることしかできない、生きることを諦めてしまった人と、同じ顔をしていた。

 彼女が首につけている、首輪が、気になった。

 奴隷である証拠。彼女を苦しめ続けるもの、俺は、そう確信した。

「なら……。俺が、その鎖を解いてやる」

 男は、彼女に近づく。

 彼女は、怯えた表情をした。落ちていたナイフに拾い上げる。

「こ、こないでください!」

 震える手でナイフを向ける。それでも男は、足を止めない。ゆったりした歩調で、彼女に近づく。

「俺は、お前に、危害を加えない」

「さ、刺しますよ……!」

「刺せよ。それで、お前の気が済むなら。刺せばいい」

 男は、目の前に立っていた。そして、そっと手を伸ばす。

 彼女は、ぎゅっと目を閉じた。

 男は、彼女の頭を優しく撫でた。優しい表情で、そこに悪意はなかった。どうして、この人は、こんな酷いことをするのだろう……。これじゃ、私は、私は……。

「お前が、どうして、こんなことをしなくちゃいけなかったのか。正直、俺には、わかんねぇよ。だけど、そこにはきっと、そうしなくちゃいない。お前なりの、理由があったんだろう。……だけどな。そこに、どんな理由があってにせよ。それだけは、けっして、やっちゃいけないんだ。なぜか、わかるか? わからないよな。だったら、教えてやる……。お前が、死ぬことによって、そこに悲しむヤツが出てくるからだ」

 彼女は、顔を上げた。

「いないですよ……。そんなひと。私には」

「そんなことないさ。それは、お前が、そう思いたいだけだ」

「綺麗事はやめてください。そんなの、聞きたくない……!」

 彼女は、両手で耳を塞いだ。そしてまた、自分の殻に閉じこもる。安全な世界へと逃げていく。重く塞いだ扉を、ノックもしないで、この男の人は、扉をこじ開けた。ほんと、自分勝手すぎます。

「離して!」

「……断る」

「どうして、どうして、あなたは……。見ず知らずの私に、関わろうとするんですか? もう、ほっといて!」

「それも、断る」

「何で? ……何で? なんで?」

 彼女は、わからない、という顔をする。

「お前に、生きてほしいから」

 彼女は、薄ら笑いを浮かべた。

「無価値な。私でもですか?」

「ああ。それでも、俺は、お前に生きてほしい」

「よごれていても……?」

「それでも」

「愚図で、のろまで、できが悪くて。何の才能もなくて。人に迷惑をかけて。生きることすら恥で。それから。それから……」

「それでもだ! お前の、その全部、ひっくるめても! 俺は、お前に、生きてほしい」

 彼女の、ぶら下がった右手から、ナイフが擦り落ちた。乾いた音が、床に響く。

「さっき、お前は、言ったよな。自分には、悲しむ人は、一人もいないって……。いるじゃねぇか、ここに一人! それでも、お前は、まだ、一人だって言い続けるのかよ!」

「私は……。一人じゃない……?」

「ああ、世界中の人が、たとえ、お前の味方になってくれなかったとしても。俺は、お前の味方でいる。だから、生きることから、逃げるな」

 彼女は、その場に膝をつき、がっくりと頭を垂れた。頬から、涙が流れる。そして、ゆっくりと顔を上げ、笑みを浮かべた。

「そても。……身勝手ですね」

「ああ、そうだ。俺たちは、身勝手なんだ。だから、そんな俺と、お前だから。仲良くしようぜ」

 彼女に手を伸ばす。彼女は、ためらいを見せながらも、ゆっくりと手を掴んだ。

 俺は、彼女の鎖を解くことができただろうか。その答えは、いずれ、彼女自身が辿り着くだろう。その答えが、いいものであるように。今は、そう願っている。



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