1. 公式案内
夫の元に新生制度の公式案内が届きました。新生制度は私が20代の頃にたいへんな問題になっていました。反対意見もたくさんあったのですが、政府が強行して私の事故の数年前に正式に始まった制度です。
その目的は破綻した年金制度をうやむやにすることです。高齢者に年金を受給する代わりに、生まれ変わらせて人生をやり直しさせてあげるという制度です。生まれ変わるのは68歳になる年度です。
夫は今年55歳。これから新生制度の適用を受けるのか、従来通り年金を受け取って天寿を全うするのか、検討を開始してくださいという案内です。夫の心の中を覗いてみましょう。
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今年度55歳になられる留浦様へ
時下ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
さて、新生制度をご検討いただく時期となりました。働き盛りの皆様にはお忙しいことと存じますが、将来についてご検討をお願いいたします。
つきましては、初めに新生庁公式サイトにて案内ビデオをご視聴いただきたくお願いいたします。下記のURLにアクセスし、PDA(Personal Digital Assistant)で認証を行ってご視聴ください。...
「うーん、ついに来たか」
念のためデジタル署名を検証して本物の案内メッセージだと確認した。情報工学を教えている身で詐欺に引っかかったら面目が立たないからな。
新生。生まれ変わり。
クローニング技術を用いて自分の体を新しく作り、その新しい脳に現在の脳のニューロンパターンを再現することで、新しい体に現在の意識とこれまでの記憶を写し込む。
新しい体の培養にはいわゆる倍速で約10年かかる。10年後に概ね18歳の体ができあがる。本当に倍ではなく、少し遅いわけだ。その18歳の体に68歳の意識を写して50歳の若返りが完了する。人生のやり直しができる。
妻を失って20年。抜け殻のような時間を過ごしてしまった。お陰で職位は未だに准教授のまま。教授には成れそうにない。学会からも忘れ去られた。クビにならない程度には授業や公開セミナーなんかの仕事はしているが。
大体、AIや量子コンピューティングに比べると俺の専門の純粋情報工学は地味だからな。ノイマン型コンピュータは数の上では圧倒的に多い。その基礎を扱っている分野なんだからとっても重要なのに、すっかり縁の下の力持ち的分野になってしまった。学生の人気も低くてうちの研究室を希望してくる学生もいない。いつも定員オーバーで他の研究室に入れなかった学生が仕方なくやってくる。ところがゼミの内容は難解だ。現代代数学が必須だというのに、うちに来る学生は代数なんて選択していない。ガロアの名前すら知らない。「既約多項式」という言葉を聞いただけで帰ろうとする。そんな学生たちに真面目に数学から指導していると自分の研究時間が作れない。誰もいない家に帰るともう何もする気が起きない。これでは研究成果なんて出るわけがない。研究成果がなければ教授になんて成れない。
この20年、悔いばかりだ。新生したら心も新しくやり直せるだろうか? やり直せるものならやり直したいというのが本音だ。とりあえず案内ビデオを見てみよう。
『55歳になられる皆さん。こんにちは。これから皆さんに新生制度についてご説明します』
『皆さん、最近、体が重いとか節々が痛いなんてことはありませんか? 夜眠れない、朝早く目が覚めてしまう、トイレが近い、そんなお悩み、ありませんか?』
『加齢。仕方が無いですよね』
『でも大丈夫。新生制度で生まれ変わればピッチピチの18歳の体に戻ることができるんです!』
通販番組か!? うさんくさい男女の掛け合いだ。こちらの関心を引きたいのだろうが、お前たちまだ40歳前後だろ? こっちの気持ちわかっているのか?
『容姿は若い頃のままです。他人になるわけではないんです』
『今までの記憶もそのまま全部持って行けます』
『写る時に痛みはありません』
『寝ている間に全部終わってしまうんです』
『目が覚めたら若返っているんですね』
『まったく心配は要らないですね』
こちらの不安には答えているのだが、言い方が嘘くさい。問題は信じて良いのか、悪いのか、と言うことだな。
『近視の方、生まれ変わったときには目が良くなっているんですよ!』
『新しい体には虫歯もありません』
『歯並びも良くなります』
『成長過程で適切な刺激を与えるのでキレイに生えそろうんですね』
『体のゆがみも、子供の頃に負った怪我の後もないんです』
『紫外線を浴びていないので、将来シミができたりや皮膚病にかかるリスクもグッと低くなります』
『さらに、新しい体を作るときにちょっとした遺伝子治療を受けることもできます』
『アレルギー体質や癌体質もある程度改善します』
『将来病気になるリスクが減るんですね!?』
そうか。子供時代がないからな。子供の頃の習慣で体に悪い影響が出ることはないんだな。これは考えたことがなかった。眼鏡のない生活は憧れだな。
それに、遺伝子治療か。俺は皮膚が弱いからな。すぐに被れる。高機能化学繊維の服が着られない。最近は天然素材の服がなかなか買えないからな。それも魅力だが、動機としては小さいな。
『皆さん、昔失敗したことありませんか?』
『失敗しても若い頃は何も怖くなかったですよね! 何度でも挑戦できた』
『でも今ではなかなか挑戦できない。気力も沸いてこないです』
『でも大丈夫!』
『体が若返るとやる気も出てくるんです!』
『何しろホルモンの分泌量が増えますからね』
『そう! ホルモン! ホルモンですよ!!』
なるほど! ホルモンの分泌量が増えれば精神にも良い影響がありそうだな。そこは考えていなかったな。
『新生すれば何でもできるようになるんです!』
『もう新生するしかないですよ!』
『...』
ビデオはまだまだ続いていたが意識に残らなかった。
どうやら若返ればやる気が出るらしい。生物学的に根拠もあり得そうだ。
「やってみるか。やらなきゃ老いぼれて死ぬだけだからな」
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夫は生まれ変わりを前提に、新生制度について詳しく調べるつもりです。結論を急がずに詳しく調べるという方針はとても夫らしいです、納得がいくまで調べて考えることになります。
『写る』は『移る』の誤りではないか、というご指摘をいただきました。
ネタバレになってしまうかもしれませんが、ここはあえて『写る』を使っています。
お含み置きください。
ご意見、ご指摘にはいつも感謝しております。どうぞ今後もよろしくお願い致します。
年齢を修正しました。