『オクリビト』4
慢性病棟へ入ると、ナースセンターの前で時田の姿を見つけた。
看護師と何やら世間話をしているようだ。
峰子が小走りで駆け寄ると、時田は開口一番
「遅かったですね。」
と宣った。
時田と世間話をしていた看護師は
「お父さん、寝てるように見えますが、耳は聞こえているので。
何か気の利いたお話されてくださいね。」
そう言って会釈し、その場を去っていった。
「・・・面会申込書書いてたんです。
時田さん、すごいですね。顔パスだなんて。」
「そういうものなんです。では、お父さんの病室へ行きましょう。」
時田はさらりと言いのけ、またさっさと一人で歩き出す。
二人は病室の前に立った。
ネームプレートに『大城 栄則』とある。
「注意事項があります。いいですか?」
武明は人差し指を立てる。
「泣くのは構いませんが、声は出さないでください。
鼻をすするのもダメ。垂れ流してください。」
はい?
峰子は困惑し、眉間にしわを寄せた。
「どういう事ですか?」
「どういう事でも、これは決め事です。
守っていただかないと成功しない可能性があります。いいですね?」
「はぁ・・・。」
では、と、時田はドアを開けた。
病室には、何も変わりはなかった。
一つの部屋に、ストレッチャーが一つ。
カーテンに仕切られ、その奥にベッドが一つ。
父は入院中ずっとテレビを付けていた。
そうでもしないと、夜の病棟の孤独、寂しさ、不安感を
紛らわせられなかったのだろう。
テレビは消えていた。
その代わりに心電図が規則的に音を鳴らす。
「・・・寝てる?」
峰子は誰に問うでもなく、呟いた。
「いいえ、違います。五感のうち四つは機能していない。
だけど耳は聞こえているんですよ。」
峰子は看護師に言われた言葉を思い出した。
『気の利いたお話されてくださいね』
「気の利いた話って、何を話せばいいか・・・」
「大丈夫です。まず見ていてください。」
二人はスツールを並べ座った。
時田は軽く深呼吸する。そして
「大城さん。大城栄則さん・・・。」
時田は目を閉じ、浅い呼吸を繰り返す父に声をかける。
その声色は随分落ち着き、優しいものだった。
「・・・今日は、9月27日。
だいぶ残暑が落ち着きました。
夜には鈴虫の声がします。
穏やかに吹く風が、気持ちいいですね・・・。」
峰子は黙ってそれを聞いていた。
「あなたの目の前、そこに何がありますか?
そう、目の前です。
白くて鳥の絵の模様の、カップがありますね・・・。
中身はなんでしょう?
コーヒーですね。良い香りです。
一口飲んでみましょうか。・・・おいしいですね。」
時田はまぶたを閉じながら続ける。
峰子は驚いた。
父の愛用のカップは、確かに白く鳥の絵が描かれているのだ。
驚いたのはそれだけではない。
父の喉が動いたのだ。
まるで何かを飲み込むように。
「では、落ち着いたところで、右斜め前を見てみましょう。
そうです・・・・そこにある椅子には誰が座っていますか?
ぼんやりと、シルエットが見えますね。
あなたを心配そうに見つめている。年配の女性・・・。」
___栄則、最近疲れてないかい?
喜子さんに先立たれて大変だろうけど、お前が体壊しちゃ元も子もないよ。
「聞こえましたか?あなたのお母さんの声。
シルエットがはっきりしてきましたね。あなたのお母さんの顔。
次は左の方向を見てみましょう。
そこにいるのは・・・」
武明は、峰子の肩をトントンと軽く叩いた。
(お父さん、って呼んであげてください。)
武明は峰子にそっと耳打ちした。
「お、お父さん。」
大根役者な峰子は棒読みになってしまったが、効果はあったようだ。
「・・・そこにいるのは、愛娘の峰子ちゃん。
来年には幼稚園を卒園し、小学生になるようです。
さぁ、お父さんの膝の上にのせてあげてください。
峰子ちゃんはお父さんの膝の上が大好きですよね。」
当たっている。
幼少期は甘えん坊で、よく父の膝の上に座っていたものだ。
峰子は自分の過去が見られているようで、少々恥ずかしく思えた。
「さぁ、そろそろ夕飯の時間です。
今日の夕飯は何でしょうか?
季節外れですが、せっかくなので皆で鍋を囲みましょうか。
すき焼きにしましょう。」
峰子は時田の言葉に、今までずっと忘れていたのに
ふと幼い頃の事を思い出した。
まだ自分が子供だった頃
家族で食卓を囲んで楽しく食事をしていた。
いつからだろうか
同じ家にいても一人で食事をするようになったのは。
「テーブルの上、卓上コンロの上。何が見えますか?
・・・すき焼きの鍋がぐつぐつと煮えていますね。
テーブルには椅子が四脚。
誰が座っていますか・・・?」
峰子は首を傾げた。
今何か聞こえた・・・?
「そう、峰子ちゃんと、あなたのお姉様。
そしてあなたのお母様。
その横には仕事から帰宅したあなたのお父様・・・。」
か・・あ・・・・ と・・・
まただ、何かが聞こえる。
時田は、瞼を閉じたまま語り続ける。
病室に入る前、何があっても黙っていろと言われた。
小さく聞こえる『声』
それに対し時田に聞くことは、今は出来ない。
「足を悪くしたお母様をいたわって、この頃は
調理、食事の用意は基本あなたがしていましたね。
皆が食事をしている時、あなたは席にはつかず、取り皿を用意したり
お茶をいれたり。
あなたはいつも気の利く優しい方だった。」
峰子の目に涙が滲んだ。
家庭が崩壊する前、優しく品行方正な父が大好きだった。
・・・今でも。
「お母様はあなたになんておっしゃっていますか?」
___お前も世話係ばっかりやってないで食べなさいよ。
いつも作ってるのはお前なのに、食べるのは一番最後なんだから。
亡き祖母のその声は、不思議と峰子にも聞こえた。
時田にも聞こえているのだろう。
「いつもお母様の隣に座るのは、お父様。
お父様の声は聞こえますか?」
走馬灯を見せるよう誘導している?
これが『オクリビト』の仕事なのだろうか?
___我々も随分年老いた。
峰子が大学に行くまで生きていたいもんだなぁ。
峰子の目からは今にも涙がこぼれそうだった。
覚えている。
祖父のこの言葉。
幼かった当時は意味がよくわからなかった。
祖父が死ぬなんて、考えもしなかった。
だからこの言葉の重さが、わからなかった。
___あなた、また変な事言って。
当たり前のことじゃないですか。
ズズッ、と、軽く鼻をすすってしまった。
時田は軽く峰子の肩を叩き、人差し指を口にあてた。
(静かにしてください。)
その目はそう言っていた。
「・・・・大城さん、皆、あなたの事が大好きです。
わかりますか。
穏やかなこの時間。感じてください。」