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苦しみの知識

作者: 鈴木美脳

 人生には、喜びもあれば苦しみもある。

 本能は苦しみよりも喜びを選ぶし、ほとんどの苦しみは努力によって避けることができるから、残念ながら、ほとんどの苦しみは回避される。

 しかし、一部の苦しみは回避できない。

 例えば、家族を殺された者の家族が生き返ることはないし、手足を切り落とされた者の手足が生え替わることはない。

 時として、拷問のように苦しみは強いられる。

 その時、人は、苦しみを厭い喜びを願う心そのものが苦しみを生んでいることを知る。


 技術発展によって人間社会が都市化していくと、人々は歴史的な良心を失い、権威主義にもとづいて思考し行動するようになる。ウルやウルク、ローマやパリ、シカゴや深圳のようにである。

 そこにおいて、権力を手にした裕福な人間は重んじられ、権力を手にしない貧しい人間は軽んじられる。生まれる環境による階級格差が固定化されると同時に、強者による情報支配によって自業自得の世界観がむしろ強まる。

 権威主義の時代に弱者は、自分達を支配する強者達に憧れ、弱者同士侮辱して連帯しない。つまり力を正義と見なすことで、倫理的正当性は合法的正当性と一致し、歴史的良心は壊滅する。

 権威主義は常識となって、何に価値があるかを定義し、どんな人生に価値があるかを定義し、どんな人間に価値があるかを定義し、反面で同時に価値のなさをも定義する。その価値観を当たり前だとする思い込みのなかで市民は暮らすようになる。


 しかし、努力した者ほど裕福になり、裕福な者達ほど社会幸福に貢献しているというのは、根っからのでっち上げである。同様に、社会的な立場の弱い人々が、努力を怠った社会的な価値のない人だという欺瞞も同じだけ生じる。

 それによって、肉体的な苦しみを与えられた者達には、精神的な苦しみも与えられる。そして多くの人が、むしろ精神的な苦しみによって殺されていく。


 例えば、病や怪我は一見、その人の価値を減少するように見える。

 実際に、権威主義世界における社会的価値としては、その人の価値が減少する。

 例えば経済的収入が減少したり、経済的収入に優れた異性との恋愛市場における価値が減少する。ひいては、健康状態と時間の対価として自分個人の幸福を得られる量が減少する。

 しかし、必ずしも努力を怠った者が病や怪我を背負うのではまったくない。不幸は時として、不運によって強いられるものだ。

 したがって、幸運だった者が幸運を自分自身の努力に言い換えて公正世界仮説に溺れ、不運だった者達を倫理的に蔑むことには、客観的な根拠がない。したがって、病や怪我そのものは、人の倫理的価値をわずかにも低下させない。


 また、他者に親切にすることは、必ずしも自分自身の利益にならない。

 もしも親切が自分自身の利益になるなら、私利私欲に生きる者達も徹底して親切に生きるから、内面的な良心に関わらずすべての人で親切さは均一で、社会は常に完全な連帯のもとに動作する。もちろんそんな現実はない。

 したがって、むしろ逆に、自分自身の利益にならないことが、親切さや利他性や人格的良心の根本的な定義である。

 この事実は、権威主義にもとづいて倫理的正当性と合法的正当性を一致させる常識的先入観への亀裂となる。

 学校で熱心に勉強し、大企業に就職して能力を発揮し、地位を得て多くの収入を得ている人ほど偉い、という世界観への亀裂となる。なぜなら、個人的な安寧によって報われる行為は、自分自身のための努力として説明できて、利他的な努力には数えられないからだ。


 現代の人類の社会に存在する大きな苦しみのほとんどは、さらなる経済成長によってこそ解決されるものではなく、幸運な強者が不運な弱者を徹底的に酷使し搾取する格差から生じているものだ。

 それは利己主義によって解決されるものではないから、人格的な共感や良心こそが社会的な価値である。しかし、権威主義に覆われた世界ではその事実は忘れ去られる。富裕が権威とされて貧困は嘲笑される。

 人間社会にとっての課題は、技術発展や経済成長ではないのだ。技術発展や経済成長を主題と見なす考え方が、すでに、強者の私欲のための欺瞞である。


 他者の心の苦楽を繊細に思いやって暮らすことは、自分個人の利益を原則的に摩耗する。

 そのように、助け合い、信頼し合うことが、技術的格差の少なかった歴史的な人間社会の成り立ちであり、社会的価値の歴史的な定義であった。そこにおいて信頼とは、人格的良心に対するものであった。

 天下のためを思う正義感が私的な損失によって報われることは普通であって、もちろん病や怪我を背負う場合もある。究極的には、亡くなってしまう人もいる。優れた者ほど勝ち残る弱肉強食の競争とは異なる世界観がそこにはあって、つまりそれは権威主義ではない。

 義という価値の実在を認知した途端、現代を覆う権威主義は足場からすべて倒壊してしまう。だから、近代的な資本主義は、義の実在を地中に埋めて封印するしか道がなかった。

 このことが、現代社会ですべての弱者が人格的尊厳についても軽んじられ、肉体的苦しみ以上の精神的苦しみによって虐げられつづけている理由である。


 権威主義に覆われた世界は、権威主義に挑戦する者達によってしか救われない。

 しかし、権威主義に挑戦する者達にそそがれるのは、喜びではなく苦しみであり、称賛ではなく誹謗である。

 正義を思う者にそそがれるのは、あらゆる形の苦しみだ。


 したがって、道徳的な価値というものは、勇敢の美徳にもとづいてしか存在しない。

 そして勇敢とは、痛みから逃げ惑うのではなく、痛みを受けて立つことである。


 そのことが、尊敬されるべき人物像、尊敬すべき人物像を定義する。尊敬すべき人物像を尊敬して自分自身を近づけようとするとき、出世や昇進が定義される。

 その出世や昇進は、世俗的な権威主義世界で常識的に前提とされる思い込みとは、大きく違っている。それが、この世界の姿である。


 勇敢の気質によって道義を曲げなかったために地位を追われた者は、有史以前から数えきれない。

 少なくない者達が財産を奪われ、あるいは家族を殺され、あるいは牢獄に幽閉され、あるいは残忍な拷問によって虐げられ、侮辱される孤独の中で命を落としていった。

 彼ら彼女らは、義の道を歩んで苦しみをそそがれたぶんだけ、地位を高めた。権威主義世界での地位を低下させると同時に、真の地位を高めた。


 それが、この世界における苦しみの真実の意味である。

 したがって、道徳的な目的意識に由来する苦しみではないとしても、苦しみのもとに置かれた人々が、自分をみじめに思う必要はない。

 人が手にしている幸福を自分が手にしていないことや、人が手にする幸福を自分は決して手にできないだろうという希望の喪失によって、何もかもを失ったと思う必要はない。

 安寧な生活を与えられた者達は哀れみに値する。なぜなら、強いられる苦しみが魂を成長させる。ひどく苦しむ者達すべてはエリートとされ、最も苦しむ者達はトップとされる。


 幸福な人生よりも、幸福に値する人生を求めれば、迷いなく真実に向かって直行できる。

 尊敬される人物よりも、尊敬されるに値する人物になろうとすれば、真実のもとで出世しつづけることができる。


 人は、自ら苦しむことができない。

 苦しみを強いられることによって、世俗的な権威主義から距離を置くことができる。ひどく苦しめられて初めて、蒙昧な権威主義の暗雲から逃れ出ることができる。

 そこには、利己的な権威主義とはまるで異なる価値観が存在している。

 その価値観は、苦しみを否定しない。


 その価値観は、肥大化したプライドによって、あらゆる苦しみを受けとめる。

 恐怖することを忘れ、世俗を超越した、勇敢な人格が形成される。

 偽りの権威、偽りの財産、偽りの幸福から自由になる。

 真の権威である義のもとで、自分の内面の良心という真の財産を財産とし、社会正義に完全に合致した真の幸福を追求し、真の強者として、魂に根ざして普遍的な真の幸福を自らの手に獲得する。

 それらをもたらすものが、苦しみである。


 これが、苦しみについての知識である。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 生きるのに、少しだけ勇気をもらえた気がした。 [一言] 自分の「死」の直前に、少しでも笑うことが出来れば良いなと思っている。 権威主義、あるいは唯物論者と呼ばれる人たちは「死」というものを…
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