無駄な話
あら? ジェシカじゃない。どうしたの?
まぁ、授業のレポートを?
それでわざわざこんな街の片隅にある図書館まで?
えっ、学院の図書館はもう目ぼしい資料がない……まぁそうよね。
それで? 一体どんなレポートなの?
歴史? 近年起きた事件の中で興味のあるやつ……?
あら、それはやめておいた方がいいわ。
どうして? って、その事件を扱ったレポートで今までいい成績とった人、いなかったはずだもの。
なんていうかゴシップ感が強いのよね、その事件。だから皆一度は興味を示すのだけれど。
けど真相はなんていうか……えっ? 真相知ってるのか、って?
知ってるわ。だってその事件があったの、私が学院にいた時だもの。私の同級生は皆知ってるでしょうし、下級生だって知ってるわ。だからね、結構あの事件については広まってるのよ。
ただ、醜聞である事にかわりはないから、って事であまり大っぴらに吹聴しないように言われてるだけで。
……聞きたいの? えぇ……?
困ったわ。どうしてもその事件取り扱うの? そう。あ、でも私の名前は出さないでちょうだい。情報提供者については徹底的にボカしてちょうだいね。
この事件、私の周囲では調子にライドオン事件とか呼ばれてるんだけど。
えっ? ネーミングが酷い? 知らないわよそんなの。名付けたの私じゃないもの。
モルダード男爵家が潰れる原因になった事件ね。
モルダード男爵は知ってる? そうね、知らないわけないわよね。
男爵となってからそこまで歴史のある家じゃなかったけれど、元は平民だったのよ。えぇ、初代男爵は平民だったの。当時の王族の誰かを助けたか何かで、爵位を賜ったのよ。まぁ、そこまで珍しい話でもないでしょ?
で、その次の二代目。誘拐された王族をたまたま助ける事になったみたいで、その時の褒美として領地を賜った。それまでは名ばかりの男爵家だったのが、領地を得た事でより貴族としてそれっぽくはなったわけ。
二代目男爵は商才に優れた人物で、与えられた領地をみるみる富ませていったと聞いているわ。
それで、三代目。
この時国中を揺るがす勢いで飢饉が起きたのだけれど。
その時に三代目は丁度隣国との商売をしていて、そこ経由で他国からも食料を大量に輸入して……え? 高値で売りさばいたりはしていないわ。
皆が大変だからと国中に安価で売ったの。
本来なら大儲けできる機会だったのにね。
けれど、その行いで救われたのよ、王家も。
だからか知らないけど、その褒美にと更に領地が増えたの。
元々隣接していた土地は別の貴族の領地でもあったのだけれど、そっちの貴族が不祥事起こして爵位を剥奪されてしまってね。一気に男爵領は広がったわ。
そんな感じで代々モルダード家は何らかの功績を出していたの。
そしてこれ以上領地が増えても手が回らないから、とそれ以降は何かの功績を出しても褒美を辞退していたと聞いているわ。
では、と男爵よりも上の爵位を――って話も出たらしいんだけど、いずれの代の男爵たちはそれらを辞退していたようなのよね。
奥ゆかしいといえばそうかもしれないけれど……
代々男児が生まれていたモルダード家に、女児が生まれた事で事件が起きたわ。
そうね、ジェシカ、貴女も聞いたことあるでしょ?
エリアーデ嬢。王国の中でも今まで彼女以上に美しい令嬢がいただろうか、なんて持て囃された当時の時の人よ。そうね、肖像画が残ってるわけだから、顔くらいは知ってるわよね?
え? そうよ、あの肖像画別に盛ってないわ。むしろ本物はあれ以上に美しかったわ。
ただ……広大な領地を持って、王家からの覚えもめでたい。
そんな相手の身分が男爵ってなると……えぇ、そう。
今までは功績があって王家からの信頼もあるとはいえ、男爵だった。身分が上の令嬢が婚約相手にと選ぶには、それだけではちょっと理由としては弱かったの。余程王家と縁を繋ぎたい、なんて切羽詰まった相手がいなかったわけじゃないけど、そういうのはなんだかんだやんわり躱してたみたいだし。
けれど、男爵令嬢となれば話はガラッと変わったわ。
だって、家を継げない三男だとか四男だとか、そういった令息たちからすれば何が何でも結婚したい相手じゃない。当時のモルダード家にはエリアーデ嬢しか子はいなかった。嫁入りしては家を継ぐ相手を他から探さなきゃならないけれど、エリアーデ嬢が家を継いで子に関しては婿養子を迎えれば解決、って考えればとても魅力的でしょう?
家を出た後の身の振り方に困る令息たちからは毎日のように求婚されてたようね。実際彼女の周囲には殿方が多くいたわ。
えぇ、その中に、家を本来なら継ぐべき立場の人たちも。
言ったでしょ、エリアーデ嬢はとても美しかったの。
家は親戚から養子でも迎えて是非嫁に、という家もまた多かったの。
その中には王子様もいたのよ。
やだジェシカ、そんなおめめキラキラさせたってこれそういう話じゃないのよ?
事件なんだから。
殿方からは人気だったけど、私たち令嬢からすればエリアーデ嬢はあまり……え? えぇ、仲はよくなかった、というかあまり関わる事がなかったわ。彼女の周囲にはいつも誰かしら殿方がいらしてたし。
誰がエリアーデ嬢を射止めるか、なんて陰でコソコソそんな話も流れるくらいだったけど、脈が無いと判断して去っていく方もいなかったわけじゃないの。だって時間は有限だもの。家を出るまでに彼女を射止められなかったら、最悪何の準備もなしに家を出るのよ? ロクに能力のない相手なら間違いなく路頭に迷うじゃない。
そうね、最終的に残っていたのは王子やその取り巻き……あ、言葉が悪かったかしら? 未来の側近候補たち、とでも言えば満足? 言葉がかわったとしても事実は変わらないのよね。
その時にいくつか、他の令嬢たちの間で婚約破棄をする事にもなったのよ。
えぇ、エリアーデ嬢は殿方との仲は良かったの。そして婚約者がいるのにも関わらずエリアーデ嬢に近づいた令息もいらしたのよ、困ったことに。
最初はちょっと困ってる様子だったのを手助けした、くらいの接触だったみたいなんだけど、その流れで二言三言くらい言葉を交わしたりするでしょ? で、その時に友人がいなくて、みたいな事を言ってたようなの。
殿方に囲まれてても確かに同性の友人はいなかったわね。だって常に誰かしら張り付いてるのよ、話しかけるのだって余程空気が読めない相手じゃないと無理よ。
だって皆エリアーデ嬢を囲んでちやほやしてるのよ? そこに割り込める? 無理無理。
ところがね、一部のお馬鹿さんたちはそのお友達がいない発言で何を思ったと思う?
彼女の美しさに嫉妬して虐めているんだろう、ってなったのよ。
ね? 馬鹿でしょう?
エリアーデ嬢が自分から殿方に近づいて、っていうならまだしも切っ掛けはあってもその後率先して自分から近づいたりはしていなかったわ。だから、私たちは別にエリアーデ嬢に悪意までは持ってなかったわ。むしろ怒ってたのは婚約者よ。婚約者蔑ろにして他の令嬢ちやほやしてる、ってなったらそうなるでしょ。
正直エリアーデ嬢がさっさと誰かお相手を決めてくれていれば良かった、と思わなくもなかったわ。婚約者がいないから、自分にもまだ望みがある、なんて希望を抱いた令息たちは多かったし。
けど、最終的に王子やその側近候補の方々が常にいるようになってからは、そこに割り込んで近づくわけにもいかない。彼らには婚約者がいたのにね。何考えてたのかしら。
そうよ。私の婚約者だった男もそこにいたわ。
そしてありもしない虐めをさもあったかのように言い張って婚約破棄まで突きつけられたわ。
ま、相手の有責は確定。そうでしょ、だってやってもいない虐めの証拠なんて出るはずないしあっても冤罪、でっち上げだもの。調べればすぐにはっきりしたわ。
それで済めばまだ良かったのかもしれないけれど、王子もね、やらかしたのよ婚約破棄。
馬鹿よねぇ。結果が廃嫡だもの。大体当時王子の立場にあったのは四名いたのよ? かわりがいるのだから、そうなる可能性を考えておくべきだった。いえ、無能をあぶり出したと考えればあの事件にも良いところはあったのかもしれないわ。
いえ、そういう風にでも考えないとやってられないじゃない。
え? じゃあエリアーデ嬢は悪くないのか? ですって?
どうかしら。彼女にも悪い部分はあったに決まってるじゃない。
そりゃ、王子様だとか身分が上の人たちに面と向かってズバッと言えない事はあるでしょうよ。でも、そうじゃない相手だって沢山いたのだから、同性の友人が欲しければ彼女は自分でそれを言って、常に周囲に侍るように、虫のように集っていた連中から距離を置く事だってできたはずよ。
高位身分の令息たちだって四六時中張り付いてたわけじゃないもの。
そうじゃなくてもお茶会だとか、機会はあったのよ。
別に、男爵令嬢に誘われたからってそれだけで行かないなんて言うような令嬢いないでしょ。それでなくたって王家の覚え目出度い男爵家の令嬢なんだから。仲良くしといて損はない、って考える人の方が多かったくらいだもの。
でも、こっちからのお茶会の誘いに来ることも、向こうからお茶会の誘いがあったこともないのよね。
いいえ。別にそれはいいのよ。こっちが仲良くしたいと思っても向こうはそうじゃないなんて事、よくある話だもの。
私の誘いも断られてしまったし。
もしかしたらエリアーデ嬢からみて私は友達になるに相応しいと思わなかった、ただそれだけの話かもしれないわ。ほら、私見ての通り本に囲まれて生活する方が好きだから。
えぇ、婚約破棄されて、その後修道院にでも行こうかと思ってたの。でもこうしてこの図書館の司書をしないか、という話をもらってね。一も二もなく飛びついたわ。えぇ、今は幸せよ。
エリアーデ嬢?
さぁ、彼女はどうかしら。婚約者が決まっていなかったのは、家のために身分が上の相手を見つけてこいと言われていたのか、それとも自分の好きな人を選びなさいと言われていたのか……今では身分が上の相手を見つけてこいと言われてた可能性が高いと思われてるわ。
えぇ、歴代の男爵家の方々は素晴らしい人たちだったようだけど、エリアーデ嬢のご両親は……彼女が生まれる前まではそれなりにいい人たちだったのかもしれないんだけど……
ほら、商家なんかでもよくあるでしょ? 一代で財をなした次の代がパッとしなくて財産食いつぶしていくだけ、なんて話。
ああいう感じだったと思うの。
もし生まれていたのが男児だったら、あぁはならなかったんじゃないかしら。でも、生まれたのはエリアーデ嬢。それもとびきりの美人に育ってしまった。
きっと目が眩んじゃったんじゃないかしら。
でもその結果が王子様をはじめとした側近候補たちの婚約破棄事件でしょう?
男性側に非があったとしても、エリアーデ嬢も一応ね、多少の罰を受ける事になったの。
何もしていないのにどうして? 何もしていなかったからよ。
せめて少しでも彼らを諫めるような様子を見せていれば良かったのだけれど、彼女は何も言わなかった。言っても無駄だと考えたのかもしれないけれど、それでも一度はポーズでも自分の意思を周囲に見せておくべきだった。
結果として王子たちの作戦に賛同したとみなされてしまったのよ。
エリアーデ嬢がいない場所で何も知らないうちに仕出かしていたらまた違ったんでしょうけれど。
結果として王子は廃嫡、他の側近候補もこんなおバカさんたちを後継者になんてしたら家が潰れたり組織にとって多大な迷惑になる、って事で彼らも縁を切られて家を追い出されたわ。
一応これでも大分言葉を濁してるけど、当時はそりゃぁ酷かったわ。
あの後すぐに出た死体、あれもしかしたら……いえ、顔もわからないくらいぐちゃぐちゃになってしまっていたから、確証はないわね。けど、中には下手に外に出すくらいならいっそこの手で始末を……なんて考えた家もあったみたいだから。
エリアーデ嬢は罰を受けたといっても精々修道院に行く事になったくらいよ。でも、あれだけの美貌でしょ? いくら醜聞として広まったとはいえ、それでも彼女自身の美しさが損なわれたわけじゃない。修道院に行って、その後であわよくばを狙った男がいないわけじゃなかったの。
エリアーデ嬢もそれを理解していたのでしょうね。
凄かったわよ。修道院に行く事が決まったその日に彼女、何したと思う?
焼いたのよ、顔を。顔の半分火傷でね、酷いことになってしまったわ。学院でやったから、大勢が見てたわ。無理矢理誰かにってわけじゃなくて、本当に自分でやったのよ。
絶対痛いはずなのに、彼女なんて事のないようにしていてね、最後に周囲に向かってカーテシーして、それから出て行ったわ。
だからかしら、私たちエリアーデ嬢の事はなんとも思っていないのよ。憎いだとかそんな事は全然。
でも、こうなる前にせめていろいろなお話をしてみたかったな、とは思っているわ。
王子の婚約者だった公爵家の……そう、ステファニー様も仰っていたわ。
ここで終わっていれば、良かったのかもしれない。良かった、って言い方もどうかと思うけど。
でもこれ、男爵家が潰れるまでの事件でしょう? ここで終わらなかったのよ。
美貌の一人娘を失った男爵家はそりゃ最初は悲嘆の涙にくれたみたい。
でも、一歩間違ってたら内乱になってたかもしれないわけじゃない。エリアーデ嬢の美貌で男たちが勝手にのぼせ上っただけだとしても。
エリアーデ嬢本人は修道院へ行って生涯そこで過ごす事になったようだけど、男爵家は納得しなかったみたい。王子を誘惑し国を混乱に陥れようとした罪、なんて言い出さないだけ温情だったと思うのだけど。
そうね、実際彼女は何もしてなかったけれど、でも、何もしなかったから王子たちだってエスカレートしていった節はあったのよ。誰が彼女を射止めるか、で色んな所に誘ってたみたいだし、贈り物だってしていたようだし。
誘いに乗ったかは知らない、贈り物は半ば押し付けられてたみたいで受け取るしかなかったようだけどね。でも、誰にも靡かない彼女を振り向かせようってヒートアップしてたのは間違いないわ。それにいくつかの家は婚約破棄に至ったわけだし。
その婚約破棄した原因ってエリアーデ嬢にもあったわけじゃない?
えぇ、彼女自身が何もしてなくても。男爵家がさっさと婚約者をつくっていれば。もしくは自由恋愛させるならエリアーデ嬢はもう少し自己主張をするべきだったかもしれないし、もしエリアーデ嬢が色恋沙汰に興味がないならそれはそれで誰かに伝えておくべきだった。
婚約破棄をするに至ったいくつかの家は男爵家に慰謝料を請求したわ。
えぇ、あの男爵家なら慰謝料なんて微々たるものでしょうね。エリアーデ嬢が諸悪の根源って程でもないから、慰謝料だってそこまで高い金額じゃなかったはずよ。
でも、数が多かった。塵も積もればってやつね。
え? えぇ、男爵家はそれら慰謝料を支払ったわ。それで家が傾くとかはなかった。でも、さっきも言ったけど男爵家はこれらの出来事に納得してなかったのよ。
王子を含め数名の令息たちも家との縁を切る事になった。その原因がエリアーデ嬢にもあった、というのが男爵家からするととても不服だったらしいの。
エリアーデ嬢がどう思ってたかはわからないけど、立ち回りを失敗したといえばそうなのよ……本人に尋ねてもそこはだんまりだし。
えっ? えぇ、友人が教会で働いてるから、時々修道院の方にも足を運ぶ事があるのよ。といっても月に一度、場合によっては三か月に一度、くらいの頻度だけど。
ただ、エリアーデ嬢は家族とはもう関わらない、と言ってたみたい。ま、今となっては関わらないというより関われない、になっちゃったけど。
男爵家は王家に抗議したわ。
周囲が勝手に盛り上がってやらかした事を、その責任をこちらが追及されるのは納得がいかないとね。
……そうね、かつての男爵家の人たちは素晴らしかったかもしれないけれど、エリアーデ嬢のご両親は正直あまり……今までは悪い面が見えなかったけど、この時に徐々にって感じだったと思うわ。
どういう揉め方をしたのかはわからないけれど、国を混乱に陥れるような真似をしておいて自分は無関係だ、みたいな態度ではあったみたいね。周囲が勝手にやっただけ。
そうね、そうかもしれないわ。でもそうなりかけてた時にもエリアーデ嬢は周囲から見てる分には何もしてないようだったし。その状況を良しとしている、とみられていてもおかしくはなかったのよ。
それを陰謀だとかなんだかんだ言っちゃったようなのよね……それで、今までは王家と上手くいってたはずが、ここでその関係に亀裂が入ったわけ。
王子もねぇ……エリアーデ嬢の身分的に正妃は無理だろうから側妃にするつもりだったのか、それとも正妃にするために彼女をどこかの家の養子にして、とか考えてたかはわからないけれど。
王家も王子を一人失う事になったわけだから。
どっちかっていえば王子の方が若干悪いんじゃないかしらねぇ……って考えかしら。私はね。
ともあれ、王家と揉めてそこで一部の領地を返還する羽目になった。けれどもそれを不当だとさらなる不満を訴えて――冷静さを失っていたんでしょうね。
その後男爵は自分たちは悪くないという主張を繰り返して――えぇ、社交界からつま弾きに。その後他の家とも揉めて、それに対する慰謝料だとかが……
まぁこの辺はすっ飛ばしましょう。
とりあえず今までは周囲の貴族たちも友好的な関係を結ぼうしていたけれど、エリアーデ嬢がいなくなってからは男爵家は落ちぶれていったわ。
最終的にエリアーデ嬢のご両親は王家に反逆の疑いありと判断されて、領地は全て没収の上身分を剥奪されたわ。えぇ、結構な事よね。一体何をどうやって揉めたらそこまでいくのかしら。王様の命でも狙いにいったのかしら? いえ、私だってなんでもかんでも知ってるわけじゃないわ。流石にそこはわからないわよ。でもすぐさま処刑、なんて事になっていないわけじゃない?
過去一族に助けられたという温情がまだあったからか、それとも命を奪うまでの罪ではなかったけれどもう権力を与えておくわけにはいかなかったのか……お城の人なら知ってるかしら?
他の貴族たちの噂も色々ありすぎて、どれが本当かなんてわからないし。勿論噂だから全部嘘って可能性もあるわ。どれか一つ、真実があるかもしれない可能性もあるけど。
平民になってしまった元男爵と元男爵夫人……あ、元ってつけるの面倒だからこの先は今までのように男爵呼びするけれどね?
流れ流れて彼らが行きついたのは、かつての領地のその隣。領地自体が広かったから、隣の領地に行くだけでも精一杯だったようね。そこで平民として細々とした暮らしをしていたのよ。最初は。
男爵の方はコツコツ真面目に働いていたようだけど、夫人がね……
エリアーデ嬢程ではないけれど、母親である夫人もお美しくいらっしゃったから……身分こそ低くてもそれなりにちやほやされて生きてきたのよ。それが今じゃ腫れもの扱い、だーれも率先して関わろうとしない。
どうなると思う?
いいえ、他の男に走ったとかそういうのはないわ。
男爵は真面目に働いていたから、収入がないわけじゃないの。他に金持ちの男がいたならどうかはわからなかったけど、そこいかにも牧歌的な領地だもの。そうあからさまに金持ちそうなのがいるわけじゃないわ。いても、平民と関わらないような所よね。
そう、関わるのはどうしたって平民だった。以前なら平民たちも男爵とはいえ貴族相手なのだから、それなりに敬ったり畏まったりしたでしょうね。けれども今は平民となれば、そういう態度をとる必要もなくなる。
夫人はね、それが我慢ならなかったのよ。
今まで何をするでもなく周囲がちやほやしてきたのに、皆手の平返したような態度になったから現実に追いつけなかったのね。
しょっちゅう揉めたみたい。
お店とか特に。
貴族だった時は平民と同じ店に入るなんて事しなかったんでしょうけれど、平民になって貴族が使うような店もロクに無い場所で生活に必要な物を買うとなれば、どうしたって平民たちが利用する店に行くしかないでしょう? でね? その時に順番に並んで会計待ちしてるところに夫人ったら順番すっ飛ばして会計しようとしたりなんてしょっちゅうだったらしいの。
でも、昔は確かに美人だったんだろうなってわかるとはいえ、今はもう貴族でも何でもないただのおばさんなんだから、お店の人もね、皆並んでるので順番にお待ちください、なんて言うわけ。貴族だった時ならもしかしたら、優先して会計させてくれたかもしれないわね。
生憎と平民が利用するお店って行った事がないから私にはわからないけど。
で、注意された夫人はそこでカーッとなって逆上して、喚き散らしたりしてたようなの。みっともないわよね。そんな事したっていい年した非常識なおばさん、程度にしか見られないのに。むしろその年になってまで常識がわからない頭のおかしい人扱いされかねないのに。
挙句に、こんな不親切なお店二度と来ないわ! とか啖呵切って去ってったみたい。
でも、生活必需品を買える店なんて限られてるでしょ?
結局何日か後にまた来る羽目になっちゃったのよ。
一度目は勢いで出た言葉なんだろうなってお店の人も大目に見たみたいだけど、何度も繰り返されたら迷惑でしょう、やっぱり。そう、繰り返したの。並ばないだとか、もっと安く融通しなさいだとか、色々と厚かましい事言ってたみたいよ。そうね、貴族だった時と比べれば生活が厳しいから、ちょっとの出費も厳しかったんじゃないかしら。今までと同じ生活水準を保ちたくてもそれはできない、家にあるお金は微々たるもの。その微々たるお金を極力使いたくはない。
そんなところじゃないかしら、夫人の考えって。
もう自分は平民なんだってさっさと諦めて受け入れればよかったのにね。
何度もお店で同じような騒ぎを起こすものだから、いよいよお店の人も二度と来ないってまた夫人が言った時に二度と来るな!! って叫んで追い出したの。
それから何日か後にまた夫人が姿を見せた時、今までは許していたけれどもう許すものかとばかりに追い返していたわ。
えぇ、生活に必要な物を売ってもらえなくなったの。
普通に困るでしょうね、そうなったら誰だって。
自給自足の暮らしができれば問題ないかもしれないけれど、それができる人って中々いないと思うわ。
畑を耕して作物を育てる事ができる人が必ずしも猟師として獲物を捕まえる事ができるか、ってなったらできない人もいるし、海や川で漁をできるかってなったら、今まで山側の土地で暮らしていたなら馴染みがなくて無理でしょう?
食料だけじゃない。生活するうえで使う道具だって自分たちで作らないといけないけれど、その材料だって自分たちで集めないといけない、なんてなったら。
正直、一日中ずっと働いたって終わらないんじゃないかしら。
一つの店を追い出されても他の店がまだ使える、っていうなら良かったわ。でもそうじゃなかった。一つの店が夫人の来店を断った後は、他の店もそれに追従するように来店をお断りするようになったの。
そこで、謝るべきだったのよ。そしたらまだ、許してくれる人もいたかもしれないのに。少なくともトニーのお店はそのつもりだったみたいよ。
え? トニー? その領地で生活雑貨を扱うお店を営んでる平民よ。一応幼馴染なの。だから、そこでの男爵たちのお話はそこから知ったってわけ。
やっぱり現地の声って大きいわよね。
あ、話がそれるところだったわ。
ともあれ、こういうのなんていうのかしら。村八分? 夫人は社交界からだけじゃない。平民たちのコミュニティからも追放されてしまったの。
そうなってからいよいよ困り果てた夫人は今更のように夫に泣きついた。家の中の灯りとして使う蝋燭も、掃除のときに使う石鹸も、服や靴を修繕するための布や皮、針と糸、それ以外の物も、食料だって売ってくれなくなってから。
男爵はその時になってようやくその事態に気付いたようよ。
彼は平民になった事に不満を抱きながらも、それでも平民として真面目に働いてはいた。けれども貴族として暮らしていた時の仕事と同じわけじゃない。慣れない仕事、力仕事だって増えた。だから毎日朝から夜まで働いてへとへとだったの。少しずつ食事が侘しくなっていった事すら気付けない程に疲れていて、だから何もかもが手遅れだった。
今からでも遅くはないからって夫人と一緒に迷惑をかけたお店に謝りに行こうとはしてたみたい。でも夫人はそれを拒否した。そこで言い争いになって、あまりにもヒステリックに喚き散らす夫人に耐えられなくなって男爵は家を出た。
そうして自分一人だけでもとにかく妻のしでかした事を謝ろうとはしたみたい。
でも、お店の人からすればそこでまた許しても夫人が反省してるわけじゃないのはわかりきった事でしょう? 男爵なら買い物をさせても、って思っても、彼にだって仕事があるもの。途中で抜けて買い物ができる余裕があるでもなし。そうなればまた夫人が買い物に来るしかないわけでしょう?
だからお店の人は男爵の謝罪はともかく、もう二度とうちには来ないでくれって言ったみたいなのよね。えぇ、トニーのお店もそう。来たら必ず揉めるってわかってる客を招き入れて他のお客さんに迷惑をかけるってなったら、私が客ならその店じゃない他の店に行くわね。
だってお店が何の対処もしないで放置するなら、いつその客がこっちに迷惑かけてくるかわかったものじゃないでしょう? いざという時になってからでは遅いのだから。
お店の人もそう考えたのね。迷惑な客一人を受け入れない事で、他の迷惑をかけないお客さんをとった。でもそれってお店からしたら当たり前の事だもの。いくら男爵や夫人がその決定に不満を抱いたところで、だったら最初から迷惑行為をしなければよかったのよ。
でも、男爵は受け入れられなかった。謝ったのに、っていう思いがあったんでしょうね。
謝って許される段階はとっくに過ぎてた。
家に戻ってもヒステリックな妻がいるだけ。
だから、男爵は家にも帰りたくなくて酒場に駆け込んだ。彼は別にお店で迷惑行為をしたわけじゃないから、酒場から追い出されたりはしていないわ。
そうして少ない稼ぎの中から今まではちびちびと安酒を舐めるようにちょっとだけ飲んでたみたいだけど、この日はそういうのを考える余裕も何もなくなってたんでしょうね。
次から次にお酒を飲んで、すっかり酔っ払ってた。
え? それは誰の話って?
酒場の店主よ。彼からトニー経由で聞いた話。えぇ、その場にいた当事者だもの。また聞きとはいえふわっとした噂とは違うわ。
そうして酔っ払った彼は愚痴をこぼすようになって、全部王家のせいだ、なんて言ってたみたい。
で、その時たまたまガラの悪い客もいてね。え? うーんと、悪い噂がある、って感じだったかしら。お金を払わないだとか、お店にとっての迷惑行為をするとかではなくて、あからさまに犯罪はしていないけど、でも悪い噂が絶えない人、って言えばいいかしら……直接会ったわけじゃないから私は知らないわ。
店主さんの話だと、最初は彼らも男爵の話を聞いてうんうんそうだな、って感じだったみたいなのよ。彼らが直接王家に恨みを持っているかはわからないけど、でも平民からしたら王族なんて雲の上の存在でしょう?
自分たちの生活が苦しい中で贅沢三昧、なんてのは貴族だって思いこまれてる事だもの。確かに中にはそういう人もいるけど、全部がそうってわけじゃないのにね。
なんだかすっかり意気投合して、彼らは男爵を連れて店を出て行ったようなのよ。
その後の事はわからないわ。何があったかなんて。
ただ、男爵がその後路地裏で冷たくなっていたのは確かよ。
一緒に店を出た彼らが勿論疑われた。
でも、彼らは何もしていないって言ったわ。途中で家に帰るって言って別れたって。
本当かしら? でも、直接彼らが男爵に何かをしたっていうのを見た人なんていないし、悪い噂がある彼らの事は勿論疑われたけれど、決定的な証拠なんてなかったわ。
男爵が平民にならなきゃもっと詳しく調査されたかもしれないけれど、平民同士のいざこざまで細かく介入していたらキリがないもの。
だからね、途中で別れて帰ろうとしていた男爵が道を間違って路地裏に入り込んだかして、そこで誰かと揉めたか、はたまたそこで酔いの限界がきて倒れたかしたんだろうって見解になったの。
うーん、男爵は真面目に働いていたって言うけど、でも今までとは違う仕事だったから慣れない仕事で、あまり有能って感じじゃなかったのもあったかしら。貴族として働いていた時はそれなりに、って感じだったけど、平民たちの中に交じって平民と同じ仕事をってなったら正直いてもいなくても……って感じだったらしいのよね。真面目にやってるからマシ、ってだけで。
それに元貴族でしょう? 一応周囲も扱いにちょっと困ってたみたいなのよね。夫人が夫人だったし。
だから、元貴族の男が死んだからって何かとても大きな事件として扱われたりはしなかった。男爵の元領地だったら彼を慕っていた領民もいたでしょうけれど……そこを追い出されて隣の領地に来たわけだから。
えぇそうよ。扱いに困るでしょう? 元は隣の領主さまだったお貴族様がそこ追い出されてうちにきた、っていうのが平民が知ってる情報だもの。しかももう貴族じゃない、なんて話もある。
もう平民だもの平民扱いして何も問題ないけれど、でもそれで揉めるのも面倒じゃない?
かといって同じ平民なのだから貴族扱いをするつもりもない。当たり障りなく距離をとるの、別におかしな話じゃないでしょう?
平民だって馬鹿じゃないもの、それくらいはねぇ?
流石にね、夫人と揉めていたとはいえ、夫が死んだとなれば不憫だなって思うくらいの気持ちはあったみたい。一応お葬式とかは近所の人たちも手伝ったらしいわ。夫人からすれば泣きついて喧嘩別れした後での死でしょう? ちょっとは後悔していたみたい。
でも、それだけ。
え? えぇ、そうよ。
夫が死んだ。これから夫人は一人で生きていかなきゃならない。ここで近くの修道院――って言ってもあの場所からはかなり距離があるから気軽に行ける感じじゃなかったけれど、でもそこへ行くとかそういう選択をしていたら良かったのよ。そしたら、最後の餞別に皆も馬車代くらいは寄り集めてくれたかもしれないわ。
でもね、お葬式の時に周囲の皆が流石に人が死んだってわけだし、ちょっとは優しくするじゃない。
それで許されたって思ったのかしら?
お葬式が終わった後は皆、今までと同じように距離を取ったわ。普段関わりが希薄だろうと冠婚葬祭に関してはちゃんとしてくれるご近所さんって、きちんとした付き合いができていたら頼りになったでしょうに。夫人はいつまでも貴族気分で周囲に迷惑かけたから……
貴族じゃなくなった時点でもしかしたら夫人の精神はとっくに壊れていたのかもしれない。
でも、心なんて目に見えるわけじゃないんだから、正常か異常かなんてわかりようがないでしょう?
そうね。貴族時代にちやほやされて、貴族じゃなくなって皆が関わろうとしなくなって、そして夫が死んで一時的にみんなが親切にしてくれた。ある意味見事な飴と鞭よね。
えぇ、夫人の心が壊れてしまったのかもしれないって私が思ったのはこの後の出来事によるものよ。
夫人はね、またお葬式になれば自分に優しくしてくれるんじゃないか、って思ったらしいの。
そんなわけないのにね。
夫が死んで、その妻が一人残された。
それに対しては可哀そうってなるでしょうよ。でも、夫人と無関係な町の人が死んだってなって、夫人に優しくする? そうでしょ、しないわよね。その死んだ人が夫人と唯一無二の親友だった、くらいの仲ならともかく関わらないようにって距離置かれてるんだから。
えぇ、夫人はお葬式をまたやろうとして、町の人を襲おうとしたわ。
結果返り討ちにあって打ちどころが悪くてね……
そうね。かつては王家から一目置かれるような存在だったのに、最期は呆気ないものね。
けど彼らも貴族である事で王家から目をかけてもらっていたから、この先もずっと安泰だと思い込んでいた部分があったのは確かよ。そしてそれがなくなれば、残されたものはあまりにも少なかった。それだけの話。
えぇ、王家の威光も自分たちの一部だと思い込んでいたようだもの。先代先々代と前の代の方々はそんな事なかったんでしょうけどね。
これが、モルダード男爵家が完全に消えるまでの一連の話よ。
……エリアーデ嬢?
彼女は今も修道院よ。生涯出るつもりはないみたい。言葉少なではあるけれど真面目にやってるって聞いたわ。
それで、この事件をレポートにするの? 本当に?
長々話しておいた私が言うのもなんだけどお勧めはしないって言ったでしょう?
本当に? そう。これだけ聞けば確かにレポート纏めるだけだものね。
健闘を祈るわ。頑張ってね、ジェシカ。
……でも、この事件に関しては完全に風化させたい派閥がいるから、レポートを出してもちゃんとした評価はつかないのよね。私の弟が去年それで不可をくらったもの。
流石に弟の恥まで言うのは可哀そうだから言葉をぼかしたけれど……やっぱり言っておくべきだったかしら。
でも話したら弟が怒りそうだし……ま、私はお勧めしないって言ったし、それでもレポートにするのを選んだのはジェシカだもの。失敗を糧に成長するのは人として当たり前の事よね。
――あら、ジェシカ。久しぶりね。
どうしたの? え? 前に出したレポートが不可で別のレポートを提出しないといけない?
そう。残念だったわね。いえ? いいのよ私については。だってただ話しただけだもの。
それで? 次のレポートは一体何をテーマに?
あら? 次はそれにするの? ふぅん?
え? いえ、正直それもお勧めしないわ。
えぇ? 本当に?
知ってはいるけれど……でも私が話したって事は内緒よ?
それじゃあ話すけど……
エリアーデ嬢について。
彼女は圧倒的勘違いされる星の下に生まれたのか、含みを持たせたわけじゃない発言も何でか勘違いと誤解をされまくってしまうため、極力話をしないようになっていました。
修道院行ってからはポツポツ周囲と話をするようになったけど、それもほとんど必要事項だけ。
何を言っても自分にとって不都合な感じに誤解されてた令嬢の時と比べると、むしろ今の方が生きやすいくらいに思っている。顔半分焼いた甲斐あったぜ、とか思う程度にポジティブ。




