29.潜む影
何事もなく保健室までたどり着いたのは良いものの、運が良いのか悪いのか、保健室の先生は不在だった。
体育祭の練習期間という都合上、いつどこで誰が怪我をするかわからない現状。保健室を空にしてしまうのはあまり良くない気もするが……俺にとっては好都合だ。
「周防、座って待っていてくれ」
空いたベッドまで誘導し、彼が腰を下ろしたのを確認して保健室内を物色する。
勝手に学校の備品を使用することは好ましくはないが、怪我人の手当という目的がある以上咎められることはないはずだ。
幸いにも俺は軽い応急手当くらいの知識は持ち合わせている。消毒液とガーゼ、絆創膏を探し出して周防の元へ戻る。
見たところ、君下に殴られたのは左頬のようだ。かなりの強さで拳が振り抜かれたらしく、頬は赤く腫れていた。出血は唇を切ったせいだろう。見ているだけで痛々しいが、歯が折れたり首を捻った様子はない。
手際よく消毒液をガーゼに浸し、傷口にそっと当てる。消毒液が染みるようで周防は少し顔を歪めた。
「痛いかもしれないが我慢してくれ。小さな怪我でも放っておくと悪化するもんだ。消毒はしておいた方がいい」
「大丈夫だよ。ありがとう、天沢君」
消毒を終えて絆創膏を張り、今度は腫れ上がった頬を冷やすために冷凍庫を漁る。
保健室の冷凍庫だ。思った通り大小様々な保冷剤が用意されていた。
頬のサイズにちょうど良いものを手に取り、タオルで包む。患部を冷やすよう伝えると、周防は素直に従い保冷剤を頬に当てる。
「随分手馴れてるんだね」
「多少知識があるだけだ。先生が戻ったらちゃんと診てもらった方がいい。養護教諭なら怪我の具合もある程度正確にわかるだろうしな」
「そうだね。でも、天沢君の手際の良さもすごいと思うよ。君は今部活動に所属してなかったよね。中学生の頃は運動とかしてたのかな?」
「部活と応急手当の知識に関係があるのか?」
「あると思うよ。僕は小学生の頃からサッカークラブに所属してたんだけど、怪我をすることも多くて自分で手当できるように色々と覚えたから」
「なるほどな。生憎だが、部活動に精を出した経験はない」
そういえば、周防はサッカー部所属だったか。見た目通りと言うか、爽やかな雰囲気がよく似合う。
人徳による信頼とバランスの取れたステータスによる人気。周防には欠点らしい欠点もない。
それでもこの学校ではSランクを取れないのだから、Sランクの生徒はそれだけで突出した能力の持ち主だとわかる。
この学校ではステータスが他者を測る指標のほとんどを担う。
当然、性格や思考といった目に見えない人間性の部分はステータスには現れにくいが、それも社交性や適応力で凡その判断ができる。
学力や運動能力はさらに顕著で、テストの成績や部活動の功績、普段の授業からほぼ正確な数値が導き出されているはずだ。
それが今回の騒動を生んだきっかけだと俺は睨んでいるが、どうにも周防と君下という2人の人間の本質が測れていないせいで答えにたどり着けずにいる。
今できる処置も終え手持ち無沙汰になった俺がこの場から立ち去る素振りを見せないせいか、周防は不思議そうに首を傾げた。
「僕はもう大丈夫だよ、ありがとう。天沢君も早く戻って練習した方がいい」
「……珍しいな」
素直に口にした感想に周防は再び首を傾げた。
「何がかな?」
「周防が人に意見を求めず、自分の意思だけを吐き出したことが、だ。普段から人の意見を求めていたお前は、自分の意見をはっきりと述べられない人間だと思っていた」
俺が周防をよく観察するようになったのは体育祭の話が始まった数日前からだが、その短期間でも彼は必ず他者に意見を求めていた。
それが今ははっきりと俺に練習に戻るよう口にした。この違和感を見逃すわけにはいかない。
「俺がここにいると困るか?」
「……そうだね、少し困るよ。できることは少ないかもしれないけど、練習できる時間は限られてる。今できることはしておかないと」
「借り物競争は運に左右される競技だ。対処のしようがない。棒倒しだって同じだ。作戦を立てることはできるだろうが、結局は上級生と連携しなければ進まない。今できることは何もないな」
「天沢君も珍しいね。君はやるべきことはちゃんとやる人だと思ってたよ」
「そうでもない。俺は自分の興味が湧くことだけに注力している」
「それがここに残る理由かな?」
「ああ、そうだ」
そう肯定すると、周防は自嘲的に笑う。
「僕に興味、かぁ。君が言ってた珍しさがそうさせたのかな」
「それもある。が、俺が気になっているのはさっきの騒動の方だ」
「君下君の件かな?」
わかっているであろうことをわざわざ確認され、俺も「そうだ」と首肯する。
周防自身、俺がどんな人物なのか理解できてはいないだろう。
しかし、俺の言葉を全て信じて俺がこの場に居座る理由を推測していけば自ずと答えにはたどり着く。
ただ、それだけではわからない部分もあるのだろう。
「君下君と僕が喧嘩してしまうのはそんなにおかしな話かな? 体育祭の練習が始まって、僕らはすれ違いが増えてきた。ううん、元々考え方が違う僕らの対立が表面化してきたんだ。彼はとにかく量をこなして自分をレベルアップさせることを望んでる。けれど、僕はそれだけじゃ足りないと感じてる。喧嘩になっても仕方ないことだよ」
周防は捲し立てるように喧嘩の理由を述べる。考え方の相違。相容れない対立的思考。それが彼らの喧嘩の要因だと彼は言う。
確かにそれも件の一因ではあるのだろう。噂で聞いていた君下の性格を加味すれば、周防の考えに納得がいかずに手を出したと言われても簡単に飲み込めてしまえる。
しかし先の騒動に関しては、俺が聞き及んでいた君下の性格を鑑みたからこそ違和感が生まれている。
この違和感を払拭するには、俺が見ていなかった事のあらましを知る必要がある。
「まずはお前が殴られるに至った経緯を教えてくれないか?」
「君が考えてる通りだと思うよ。昨日の体育館での練習で、僕らは今後の方針について話し合ったよね。そして今日、僕が皆に共有する予定だった。最初こそ君下君の一声で解散してしまったけど、このままじゃいけないと思って君下君に声をかけたんだ。もう一度しっかり話し合おうって。そしたら……」
言わなくてもわかるよね、と言いたげに周防は軽く微笑む。
やはりわからないな。それだけで君下が周防を殴ったと言われて否定する材料はない。君下がそういうやつだったと言われればそれまでだ。
ただ、君下のことはわからなくとも、周防のことであればこの場で問い詰めることができる。
彼の話には納得しがたい点がいくつもある。彼が嘘をついているのか、自分に都合の悪い部分は切り取って話しているのか。
どちらにせよ、周防邦好という人物の内面を知るには絶好の機会だ。このまま切り崩させてもらう。
「残念だが、俺の考えは違う」
周防が俺をどう評価していたかは知らないが、俺が否定したことで彼は一瞬だけ顔を顰めた。
「……君の考えはどうなのかな?」
「そうだな……結論だけ言うなら、俺は周防が君下を挑発してわざと殴られたと思っている」
「本気で言ってるのか? そんなことをして、僕にどんなメリットが?」
「さあな。クラス内の地位か、自身のプライドか。理由はお前にしかわからない」
あまりに失礼極まりない物言いだが、周防は怒りを見せる様子もなく、むしろどこか可笑しそうに口角を上げた。
「どうやら当たっているらしいな」
「うん、君はすごいね。クラス内で最も警戒すべきは君だったかもしれない」
「君下と敵対したのもそれが原因か」
周防は隠す様子もなく軽く頷く。
予想していなかった彼の反応に俺の方が面を食らう。
「素直なんだな。もっと問答が必要かと思っていた」
「詰問して追い詰めたい趣味でもあるのかな?」
「いや。手間が省けて助かる」
結論が見えている話し合いなど無意味に等しい。いくら嘘を重ねても真実を消すことはできないんだ。
周防もそれを理解しているから、回りくどい言い訳をせずに肯定した。嫌味は軽い仕返しとでも受け取っておく。
「てっきりお前はクラス内の調和を保つために行動していると思っていた。執拗に他者に意見を求めるのも、余計な諍いを生まないためだと」
「それは間違ってないよ。僕は争いを好まない。まして、ただの学校行事なら皆の好きにすべきだと思ってる。純粋に楽しむのも努力して活躍するのも、裏でこっそり男女の交際に励むのも人それぞれで、自由であるべきだからね」
ただの学校行事なら、か。
今回騒動を起こしたのはそこに原因があると見える。
たかが体育祭が、されど体育祭になったきっかけ。思い当たる節は1つだ。
「MVPの特典目的か」
「その通りだよ。僕はこう見えて、誰よりも強かにその地位を狙ってる」
「金か名誉か……違うな。各種成績によって毎月配布される金額が異なるなら、お前が金に困っているとは思えない。数十点の点数もお前には必要ないだろうし、MVPというレッテルがなくともお前が異性関係に困ることもないしな」
「自分で言うのも恥ずかしいけど……そうだね。ありがたいことに女性には好かれるらしいんだ」
「それ、俺じゃなければ今頃もうひと騒動起こっていたな」
「天沢君は異性関係に興味がなさそうだもんね」
周防はそう言っていたずらっぽく無邪気に笑う。
俺だって機会に恵まれないだけで、興味がないわけじゃないんだが……まあいいか。今はもっと面白い相手が目の前にいる。それで充分だ。
MVPの特典が目的として候補を絞っていくと、残るは……
「外出許可か、生徒会への入会か」
「そうだね。どっちだと思う?」
「さあな。俺はどちらも興味がないし、皆目見当もつかない」
隔離空間というこの環境がむしろ好ましい俺にとって、外出許可は不必要どころか邪魔なものだ。生徒会への入会だって、周防ほどの人徳を持つ人間なら無下にされることはないはずだ。
それに、正直なところ理由はどうだっていいんだ。周防がMVPのために体育祭で勝ちを狙っている。そのために邪魔な君下と対立した。その事実がはっきりすればそれでいい。
だが、周防は俺の心情など知る由もなく、顔を伏せてぽつりと呟く。
「僕には成し遂げたいことがある。そのためには、どうしても生徒会に……」
勝手に答えを教えてくれたが、あまりに小声で独り言のようにも取れたため、俺は聞かなかったことにした。
周防ならば早かれ遅かれ生徒会への入会は叶うだろう。何も知らない俺は、楽観的にそう考えていたからだ。
顔を上げた周防は爽やかな笑顔を向けた。俺が食いつかなかったことから、掘り下げる話じゃないと判断してくれたらしい。
「お前の目的はわかった。それで、どうして君下と対立を演じたんだ?」
「君下君は本気で怒ってるだろうけどね。クラス内の方針を統一するためには、彼の存在は邪魔だったんだ」
「ああ、悪い。聞き方が悪かった」
周防が君下を邪魔に感じ、君下グループ以外で勝利を目指すために彼を排斥した。それは理解している。
首を傾げる周防に改めて俺の知りたいことを問いかける。
「君下は中学時代、有名な不良だったらしいな。怒ると何を仕出かすかわからないと喜一に聞いた。そんな君下が、周防を殴ったとはいえそれ以上食ってかからず身を引いたことが不思議なんだ」
喜一に聞いていた君下の人物像と実際に目の当たりにした彼の姿は、あまりにもかけ離れていたように思う。
周防を殴り、立ち去った彼の顔は怒りよりも苦しみや苦痛に近いそれだった。
君下にそんな顔をさせる周防の一言。君下を挑発したその言葉の内容は、実際に会話した本人たちにしかわからないことだ。
俺が聞きたいことが伝わったようで、周防は「そのことか」と納得を示す。
「天沢君は彼のことをどこまで知ってるのかな」
「ほとんど知らない。喜一に聞いただけだしな。流れている噂と同じだ」
「そっか。それならよかった」
「よかった?」
「あの噂を流したのは僕なんだ。噂じゃなくて真実なんだけどね」
周防らしからぬ発言に俺は言葉を失った。
爽やかで温和な周防の姿はどこにもなく、彼は表情が抜け落ちた顔で虚ろを見ていた。




