闇に溶ける
「もういいかい」
私がそれを見たのは、小学校低学年の頃だろうか。夕暮れ時、友達とかくれんぼをしていた時の事だ。
私はそうそうに見つかり、鬼の番になって隠れた友達を探していた。
コンビニエンスストアの入った雑居ビルと、閉店した不動産会社の建物の間の細い隙間に墨汁を溶かしたような闇が広がっていた。
子供が横向きになってようやく通れるくらいの細い空間に、夕暮れ時とはいえまだ日が強い夏の日だと言うのに、そこだけ漆黒の空間が広がっているのは、子供心に異様さを感じていた。
私は何を思ったのか、足元に転がっていた空き缶を取ると闇に向かって投げた。
普通ならば、アスファルトを転がっていく派手な音がひびくはずだが闇に溶けどこか別の空間に飲み込まれたように無音だった。
そればかりか遠くの交差点の車の音も、鳥の声も駅から家路に向かうまばらな足音も一瞬で無音になる。
『まぁだだよ』
生気の無いかすれた声が聞こえて、私はあまりの恐怖でかくれんぼをしている事も忘れ一目散に家まで帰ってしまった。
もちろん、次の日に級友たちにこっぴどく叱られたのだが。
あれから二十年経って、私は仕事の関係で転勤し子供の頃に体験した不思議な出来事も遠い昔の出来事になっていた。
飲み会の帰りに人気のない住宅街でなんの脈絡もなくそれに再会した。
夜の闇よりも深い真っ黒な空間が街灯の明かりを飲み込んでる。
この当たりの戸建ては全て停電にでもなってしまったのだろうか。
日付もまだ越していないのに、人の気配を感じさせるような明かりもついておらず、生活音も聞こえない。唯一の明かりと言えば、私の背後にあるチカチカと光る心もとない街灯たちだけだった。
私は、酔いも手伝って気が大きくなり昔の記憶を頼りに、手に持っていたブラックコーヒーの缶をその闇に投げこんでみた。
それは音も無く、闇に吸い込まれるように飲み込まれ何もない空間に跡形もなく溶けていった。
『もういいよ』
今頃になって、二十年前の生気の無いかすれた声が答えると、私は慌ててその場から逃げ出そうとした。
気のせいだろうか……闇の中に無数の白いうごめく芋虫のような指先を見たような気がする。
だが、一歩踏み出した瞬間に私の前にある街灯が消え、目の前の世界は闇に包まれてしまった。
『もういいかい?』
『もういいかい?』
『もういいかい?』
――――冷たい何かにグッと服の裾を掴まれる感触がして耳元で抑揚のない問いかけの後に笑い声が聞こえた。
こんどはそれが鬼の番だ。
END