出稼ぎ
窓の外をぼんやり眺めていると、なにか業者の車のようなものが家の前に停まるのが見えた。
車から降りてきたのは作業服を着た眼鏡の男で、辺りを見回すようにしながら庭の前を通り過ぎていった。そして、しばらくすると家のチャイムが鳴った。
「はーい」
階下から母の声が聞こえた。どうやら応対に出たらしい。少し話をした後で、外へ出ていくような様子が聞こえてきた。
僕は心配になった。母の調子がここ最近あまり安定していなかったからだ。何か良からぬことが起こらないようにと祈りながら二階で息を潜ませていると、
「ケン、ちょっと来て!」
母の声が玄関から響いてきた。僕は不安な気持ちになりながら下へ降りた。
外にはさっきの眼鏡の男がいた。男はこちらの存在に気付くと、少々おずおずとした調子で「こんにちは」と挨拶をしてきた。
遠目から見るといかつそうに見えたが、男は案外若いのかもしれなかった。世間慣れした感じがなく、もしかすると自分とそれほど年の変わらない“見習い”の立場の人間なのかもしれない。どこか業者人としてぎこちなさが感じられる彼に、僕は同族に対する好感のようなものを抱いた。
「いま危ないところを修理してくれてるの」母が言った。
玄関の前には大きな梯子が掛かっていた。見ると、屋根に向かってもう一人の男が作業をしている。何か工事の予定でも入っていたんだろうかと思いながら、ぼーっとその様子を眺めていると、母が眼鏡の男に向かって「私も梯子に上ってみてもいいですか?」と言い出した。
僕はぎょっとした。恐れていたことが起こったのだった。
母は精神的な不調を起こすと、場にそぐわない不可解な言動を発するようになる。それは何かはしゃいでいるような、会話を上滑りしているような感じで、息子である僕は聞いていて冷や冷やする。
「あ、はい、いいですよ」やはりおずおずとした調子で、眼鏡の男は答えた。そんなあっさりと許してしまっていいのだろうかと、部外者であるはずの僕は思った。いずれにせよ、母の奇妙な言動は止める必要があった。
「だめだよ、危ないから」母に向かって強く言う。
「上からこの家を見てみたいのよ。登っちゃだめ?」
「だめだよ、危ないよ。それに仕事してるんだから、邪魔するようなことしちゃだめだよ」
「あの、奥さんが登りたいそうなんですけど」眼鏡の男は、梯子の上で作業しているもう一人の親方らしき人に声を掛けた。
「ダメだよ。絶対ダメだからね!」まるで眼鏡の男の言葉を否定するように、僕は母に向かって念押しをする。
「わかったよ……」母はしぶしぶ諦めてくれたらしかった。
そんな会話をしているうちに、梯子の上からもう一人の男が降りてきた。金髪で、年齢も眼鏡の男より少し上くらいだろうか。親方にしては若いように思われたが、相当優秀なのかもしれない。男によると、もともと近所の家の工事をしていたのだが、たまたま梯子の上からうちの屋根のネジが外れかけているのが見えたらしく、親切心からネジを新しいものに取り替えてくれたということだった。男は気さくそうな関西圏の訛りで話していて、やはり眼鏡の男と同様に印象が良かった。
「どうもありがとうございました。あの、お金はいくら払えばいいですか」大仰に頭を下げながら、母が料金を聞くと、
「三千円くらいで……」眼鏡の男が答えた。
二人の男は車に乗って引き上げていった。母はやはり大げさな調子で何度も頭を下げて車のことを見送っていた。
僕も、なかなか気持ちの良い人たちだったなと思いながら二階へ引き上げた。
しばらくして祖母が買い物から帰ってきた。母は今までの経緯を伝えた。
「あんた騙されたんだよ」
階下から祖母の声が聞こえてきた。その一言で、僕はあの二人の妙な感じの良さに合点がいったような気がした。
十年前の大震災に匹敵するんじゃないかという大きな地震が来てから、まだ一週間も経っていなかった。恐らく彼らは、関西から“出稼ぎ”に来たのだろう。




