第1章 「点のアイダ」
第1章 ―点のアイダ―
記憶のはるか奥。
断片的にある棚の奥底。
そこは私が覚えている限り、始めて知覚した9月と10月のアイダの記憶である。
何歳だったのかは覚えていない。
いつもなら直ぐに来るママが、泣いても泣き叫んでも相手をしてくれない。
泣いて叫んで、暴れて泣いて。
そして諦めたように眠りについた。
3,4回目のアイダの日、もう4本足で歩けるようになったその日。
いつもならママとパパがいるはずの家の中には誰もいなかった。
少し探して泣き出しそうになったが、おもちゃを見つけ遊びだす。
いつまで遊んでも怒られないので、楽しかった記憶はある。
子供ながらに一人の世界を満喫していたらしい。
幼稚園に通いだして、一人で出かけることもできるようになった。
そこで初めて、この日が私しか動かないのだと知った。
布団の中にいるママとパパは微動だにせず、犬は置物のように固まっている。
外に出ると、時計は朝の7時32分を回っているのに外は真っ暗だ。
風は吹かず、寒さも感じない。
車が道路の中心で停車し、信号は青のまま点灯し続け、人は横断歩道で立ち往生している。
夢でも見ているような気分だった。
いつもは言ってはいけない川の近くを通り、買ってもらえなかった駄菓子屋へと足は進む。
昨日行ったときはぐずっても買ってくれなかった、泡水色のアイスバー。
眺めていると、奥に止まっている駄菓子屋のおばちゃんが見えた。
静止しており、私の奥の道をぼんやりと眺めていた。
「…これくださいな!!」
他の子の見様見真似で言ってみる。
おばちゃんから返事はない。
今でも視線が私を通り過ぎている。
「今度お金あげるから…!」
おばちゃんにも自分にも言い聞かせながらアイスボックスのフタを開けようとする。
いつもはパパがさっと開けてくれるのに今回はなかなか開かない。
おばちゃんを見ると視線は上をいっているのに、目の奥を睨みつけてるような、そんな気がした。
少し後ずさりして、逃げるように家に帰った。
その手には手の暑さで滴る、アイスバーが一本握りしめられていた。
ガチャ
「ママ…?」
家に帰ってママを呼ぶ。
返事はなく、無音が続く。
手には熱で袋の中で半液状になったアイスバー。
優越感と罪悪感。
その両方の間に立っていた。
咄嗟に、急に目を覚まして見つかることが怖くなった。
あのおばちゃんが意識を戻して、怒られるかもしれない。
ママが起きてきて怒るかもしれない。
グチャグチャのアイスバー。
それをサッと引き出しの一番奥に隠した。
誰にも言えない秘密。
ドロドロのアイスのような秘密。
でも彼女の初めての秘密だった。
私だけの秘密だった。
10回目のアイダ。
いつも通り道路の真ん中を歩き、アイスをひとかじり。
これは私だけの秘密の味。
9月の後半は袖が欲しくなる季節だが、彼女は白いワンピースにポニーテールで歩いていた。
夏でもこんな服は着ない。
周りは薄暗く、灰色の霧がかかっている。
家の明かりや街頭は付いておらず、月も星も空には描かれていない。
こんな風景を描いたら、観察できていないと怒られてしまう。
これは妄想だとも思ったことがあるが、次の日にお菓子があったのには驚いた。
これは現実だったらしい。
でも私しか見ていないのだから、夢なのかもしれない。
しかしそれでもいいのだ。
この日だけは、この瞬間のみは人の目を気にすることなく理想の自分、できなかった自分を作り、歩けるのだから。
リズムでも刻んでるかのように、歩きとスキップの中間のように。
そして腕に持ったレジ袋をブンブンと振り回す。
「今日は何しようかなぁ」
ポツリと呟く。
普段は独り言なんて喋らないが、今日だけは特別だ。
何をするかも一年中考えてきたのだから、もつ決まっていて当然だ。
それでもそう呟くのは、何でもできるからだろう。
予定ではまず学校に行ってテストを写す。
最近勉強が難しくなった。
いや、勉強しなくても少しやればできるのだが、この時期のテストはそれすらも億劫になるのだ。
それを気にするのすらバカバカしい。
その後、ショッピングモールに行くつもり。
この日のために新作ソフトを調べてきたのだ。
服やバックとか大きなものはママにバレてしまうが、ソフトや食べ物ならバレることはほぼ無い。
「ふふっ」
考えるだけで笑顔が零れ落ちる。
その時ー
ザッ…
音。
小さい音。
石と何かが擦れたような、そんな音。
ありふれた雑多な現象。
日常に混在する微小のノイズ。
しかしこの日だけは違った。
彼女の中でそのノイズは砂嵐のように大きくなる。
理解するよりも早く、そのノイズの源を探す。
嵐が渦巻き、脳髄の核に触れる。
思考が乱雑しだし、煙のように拡散する。
理解できない。
理解したくない。
あり得るわけがない。
だって、
彼女しか動かないのなら、他の音など存在するはずがないのだから。
っここは私だけの世界だぞ!!?
疑念、混沌、焦燥、激怒。
あらゆる感情の中で、それだけは形を保っていた。
ー独占ー。
それは、自分の部屋に入られた子供のように。
それは、自分の宝箱を取られた海賊のように。
それは、この世界を統べる神のように。
ここの角を左。
ノイズはそこから発せられていた。
ノイズは鳴り続け、今でも彼女を崩壊させる。
しかし、崩れる自分を掌のみで必死にかき集めながら、彼女は一歩づつ近づく。
その正体を知りたいのだ。
人か、動物か、機械か。
化物か、宇宙人か、はたまた神か。
思考が発散し、妄想が収束する。
声を殺し、音という音の息の根を止める。
そこにあるのは自分の心臓の音と……、
ーあぁ
角から道が見える。
ーもう…
擦れる音が鳴り続ける。
ー終わっちゃったんだ
そこに居たのは、
同い年くらいの、普通の少年だった。
ガチャ
鍵が開く音が聞こえた。