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みずきの手が四宮の二の腕にかかった。いつもの温かさ、いつもの柔らかさ。
なのに。
「うそ、だろ」
ほんの一瞬、みずきの手指から質感が消えた。
皮ふの表面が細かく振動しているかのような錯覚。微細な粒子がびっしりと寄り集まり、蠢きながら『成島みずき』の形を保ち続けている。
どうして今まで気づかなかったのか、四宮はこみ上げてくる吐き気を懸命に抑え込もうと何度も生唾を呑み込んだ。
輪郭のあやふやさにいったん気づいてしまうと、その姿はあまりにも異様で、醜悪だった。
「うそだろ」
みずきの手指に力がこもる。
「いいアイディア、出してあげたし、ヒントもあげたしね」
「離せ」
「でもケイちゃん、全然覚えていなかったよね」
「離せよ」
「さんかく山で、せっかく教えてあげたのに」
「聞こえないのか?」
「ううん」
みずきの指に力がこもる。
指は四宮の腕に食い込んできた。信じられないような力だ。引きはがすことができない。
「聞いてなかったのは、ケイちゃんの方だよ。赤い花を敷いて、道を教えてあげたのに。アタシが穴に引き込まれたあの日に、やってあげたでしょ? 今度も、あのお花覚えているだろうなって思って、面白いシステムのヒントをあげたのに」
「……知らない、覚えてない」
「さっき夏目先生にくれてやっても、良かったんだ」
みずきはつぶやくように、どこか歌うように言った。
「あの場で穴に入ってもらっても、良かったんだ、でもね」
みずきは愛おしげに、四宮の腕を引き寄せた。抗えないほどの力で。
「やっぱり最後は、アタシがひとりで、ケイちゃんを穴に入れてあげたいの」
「オマエはすぐに引き上げてやるってさ、成島が」
貴船が迫る。
貴船の姿を直視できなかった。
「俺も賛成だね。俺は、本当にオマエのことが気に入ってるんだ、一緒に穴の下僕になれるのは嬉しいよ、さあ行こう」
「お、俺は、俺は……いやです」
目をそむけたまま、ようやくそう声に出せた。
「嫌だ、し、死にたくない」
あの音が、まだ耳にこびりついている、そして匂い。
あの男のような目に遭うのだけは、ぜったいに嫌だ。
「苦しいのは一瞬だよ」貴船の腕が伸びる。
「お、大声を出しますよ」
菜園のすぐ脇は校外だ。
すぐ傍に街を横切るバイパスが通っていて、のどかな夕暮れの田畑に、高架が規則正しい影をさしかけている。
バイパス上の車の通りは多いものの、人けはほとんどない。
それでも、大声で助けを呼べばもしかしたら
「なら喉を潰そうか」
貴船は園芸バサミを目の高さに構えた。刃先をこちらに向けて。
「これはかなり痛いぞ、でも声は出なくなる、どうする?」
「ケイちゃん、幼稚園の時は泣き虫だったよね」
みずきが笑っている。
「転んで泣いた時も、アタシよくやってあげたよね。いたいのいたいの」
おまじないをかけようと手を緩めた瞬間、四宮はだっ、と脇に飛びのいた。
逃げろ、とにかく、逃げろ。
態勢を立て直し、四宮はけんめいに駆け出した。
背後で、貴船とみずきとが何か叫んだ気もしたが、気にしている余裕はない。
高架下の細い車道を走り抜け向こう側に出て、少しでも学校から離れようと左に曲がったところを、いきなり真正面に待ちかまえていた人物に、がっしりと丸抱えにされた。
「シノミヤぁ」
頭を押さえられ、仰向けにされた先に夏目の温和な笑顔があった。
「夏目先生……」
四宮はまともに夏目の目を見られず、おろおろと目をさまよわせる。頭上を通り抜ける車の轟音しか耳に入らない。
どこかに隙はできないかと身をよじるが、夏目の骨ばった手は、がっちりと彼の肩を押さえつけ、地面に留めつけてしまっているようだ。
「夏目先生、た、助けてください」
うん、と夏目はうなずいた。
「が、がが学校に戻りたくない」
思考はすべて飛んでいた。本能が、彼の口を意味もなく動かしている。四宮の目じりから熱い涙が伝う。
怖い。こわい。もう帰りたいんだ。
でも、どこに?
四宮の舌足らずな命乞いに、夏目は優しい口調でゆっくりと答えた。
「わかったよ、わかった。すまない、怖がらせてすまない。大丈夫。学校には戻らないからね」
言いながら、四宮の頭をやさしく撫でる。「怖かっただろう、すまなかった」
意味を計りかね、思わず立ちすくむ四宮に夏目は続けて、こう言った。
「俺が前に使った『穴』がすぐそこにある。それを使おう」
夏目の爪が食い込む。
「このすぐ先にね。うん、穴はいくらでもあるんだよ。でもそこの穴も結構良いぞ。俺もよく使う。春には。同級会で目をつけたヤツをね。警察官だったんだ……夜中にこのあたりをパトロールで通るって聞いていてさ」
夏目はのんびりした口調を崩さない。
四宮も聞いた覚えがある。行方不明の警察官の話を。
そして少し先の公園で、確か。
歯とか、爪とか。
「青木はねえ、アイツは思ったより、使えないヤツだったからねえ」
夏目は懐かしげに目を細めて笑う。
「結局、カスしか残らなかったっけ、その前に連れ込んだ、学校のクズどもみたいに。ヤツラ、敷地の外の、高架近くでよくこっそりタバコ吸ったりヤクやったり、とんでもなかったからねえ……穴の栄養にはちょうど良かったんだ、急にいなくなっても、親すら真剣に捜そうとしないし。でもね」
急に四宮の方をみた夏目の眼は、底知れぬ暗さを湛えていた。
「だいじょうぶ、オマエは俺たちといっしょになれそうだから。
行こう、さぁ、『穴』に」




