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「痛い! 痛い! ああっ」
ばきばきと何かが続けて折れ、掃除機が激しく吸いこむ時に似た音に、ずぶずぶと湿った水音が混じっていた。「助けて助けてあヴヴ目が助けてイダイあが……」
骨が折れるにしては、やけに簡単なパキパキという音が教室中に響いていた、四宮はすでに後ろにいるはずのみずきの存在も忘れ、教卓を挟んですぐ前で行われている惨劇にただ心を奪われていた。目はあくまでも、画面を見つめて。
二人の足跡は相変わらず動いていない。動かない足跡のはざまでは何か彼の予想だにしなかった恐るべき事態が進行中なのに、それは一切、画面には映し出されなかった。
それでも彼は息を詰めたまま、目を離すことができない。
人間の悲鳴とは認めたくない音が、徐々に床に下がっていくようだった。
それにつれて音量もわずかずつではあったが、小さくなっていく。
臭いは逆に強くなった。生臭く、すべての汚物が混ざり合ったような匂い、四宮はできるだけ風を吸い込まないよう、息を止めて袖口に鼻を埋めた。
時間にしたら数秒だったろう、しかし、四宮には断末魔の悲鳴が永遠に続くかと思えた。耳も覆いたいくらいだ、でも、手は大事なスマホから動かせない。
最後に、大きな吸い込み口がずぞぞっと残った水を飲み干す音が続いた。それが案外長い、待っても待っても水気が切れないという感じだった。
頼む、早く止んでくれ、四宮はいつしか両手でしっかりとスマホを握りしめている。汗で手が滑り、取り落としはしないか、と更に手に力を込める。力を込めれば込めるほど、スマホは手からすり抜けそうだ。
目にも汗が入る。肩口で汗を拭いた時に、眼鏡の縁が目の端に食い込み汗がよけいに目に飛んだ。
眼鏡を外して目を拭くこともできず、彼は更に両手指に力を入れる。
これさえちゃんと持っていれば自分は助かるかも知れないと漠然と感じていた。根拠がないのは重々承知だった。
自分さえ、正気を保っていられたら、そしてスマホをしっかりと持っていられさえすれば、自分は助かる。
スマホの画面から切り離された闇に、何かの軌跡がいっしゅん、見えた。
薄く白いそれは、画面の縁に当たって軽く跳ねる。
ピンポン玉? 四宮が思う間もなく、白い玉の後ろにわずかに伸びるしっぽが、ぴちゃんと右手親指の根元をかすめる。
湿っぽい柔らかい感触とともに、径にしてもミリ単位の細かいしずくがひとつ、明るいスマホの画面に乗った。
赤く輝く、しずくがひとつ。
四宮は慌てて右手を離し、何かが触れた親指の根元をシャツの端に何度もこすりつける。震える左手でしっかとスマホを握ったまま。画面を汚したしずくには、とても触れる気にはならなかった。
何度拭っても、手には細く柔らかく湿った何かの感触が、しっかりと刻まれている。
四宮はわずかに目をそらす。
画面の外、床の上に転がる白っぽい球体が視界の端に入った。
魂の形にも見える、球体の後ろのしっぽ状のものがまた目に入り、それが何なのか理性が把握する前に、四宮はまた画面に目を戻す。画面の左端近くに飛んだ染みはすでに、黒く固まりつつあった。
「スマホさえ、」
手が固く結ばれ、頼みの機械は身体の一部のように感じられる。
「しっかりと持っていられたら」
心の中で、四宮は何度もつぶやいた。
(でも)
不気味な音はまだ続いていた。
(でも、もしも)
最後に、最後にあの吸い込む音が済んで、その後に、
ぽんっ!
と空気の鳴る音でもしたら……
どこか可笑しげな、間抜けな、呑気そうな音でもしたら……
漫画にでもありそうな音がしたら……
僕は発狂するかもしれない。
急に笑いの発作が、腹の奥からこみ上げてきた。
外に声が漏れないよう、四宮はぎゅっと前屈みになり更に体を固くする。
可笑しいぞ、吸い込んだ最後に、ぽんっ! そんなことがあるのか?
あの男が穴に落ちて、ずるずると吸われて、ぽんっ!
スタンと落ちて、ぽん!
エレンの陽気な声が頭の中に鳴り響く。
「だからすたんぽん、っていうんですねー、エレンもすたんぽんの穴、見たいです~~」
妄想に違いない。でも
可笑しいじゃないか。すたんぽん、すたんぽん、
スタンプ・オン? 違うよこれはすたんぽんの穴だ。
すたんぽんぽんぽんぽん吸い込む音が止んだら最後には
――どうしよう、俺は発狂寸前だ。
気づいた時には、静寂が訪れていた。
肩口で眼鏡を押し上げるように顔の汗をぬぐう。
ぬるぬるする手の中の端末を持ち上げ、画面をみた瞬間、夏目の声がした。
「そんな所で何やってるんだ」
「せんせい」
背後、頭の上から声が聞こえた。呆然と、消え入りそうな声で。
みずきはいつの間にか、立ちあがっていたようだ。
頼むみずき、頼む。
四宮は完全に息を止める。
俺は見つかっていないだろうか。見られたくない。頼む。
頼む、みずき……それ以上しゃべらないでくれ。
「成島か……」
夏目の足跡がわずかに動いた。
「せんせい、今の、何ですか?」




