記録:8
ヒナは最初の目的地である図書館と思われるところに向かった。
この世界の建物の中では中々に大きくて立派だった。外壁も綺麗に掃除が行き届いており、清潔感があった。
ヒナは建物の入口の上の看板を見る。そこにはこの世界の文字で『グリアーノ図書館』と書かれている。予想通りこの場所が図書館のようだ。
確認が終わったので、ヒナは図書館の入口に足を向ける。
きいっと木が擦れる音を立てながら扉を開ける。
「いらっしゃいませ」
入口の横に、横長の受付カウンターがあり、そのカウンターから図書館の司書とおぼしき女性が声をかけてきた。図書館の静謐な雰囲気を壊さないけれど、相手に届くほどの声音だ。
「図書館のご利用は初めてですか?」
「はい」
「でしたら、こちらへどうぞ。ご利用方法を説明いたします」
司書が自身の目の前を手で示す。ヒナは、司書の指示に従って彼女の前に立つ。
前に立ったヒナに、司書は丁寧に説明をした。
一つ、図書館を利用するときは一度の利用につき銅貨十枚を払うこと。
一つ、図書館の本は乱暴に扱わないこと。損壊した場合、その本の修繕費、もしくは買い直しをすること。
一つ、本の貸し出しには銀貨一枚を払うこと。
一つ、図書館ではお静かに。
以上の四点を優しく教えてくれた。
「以上のことをお約束ください。それと、図書館での飲食は禁止です。隣に食事用のスペースがありますので、お食事などのさいはそちらをご利用ください。あ、お酒はダメですよ?」
「わかりました」
司書の言葉に頷くと、ヒナは財布から銅貨を十枚取り出して、司書に渡す。
司書は渡された銅貨の枚数を確認すると、確かに受け取りましたと言って引き出しの中にしまう。おそらく、そこがお金を入れる場所なのだろう。地球でも、古いレジスターはお金を入れるところが引き出し型であった。もっとも、すでに骨董品となっており、現物を目にすることはまず無かったけれど。
「では、ご自由に閲覧ください。あ、館内にいるときはこれを首から下げてください」
そう言って司書が渡してきたのは紐がくくりつけられた木の板だった。その板には『閲覧許可証』と書かれていた。
「ありがとうございます」
「いえ。なにかありましたら、遠慮なくお声がけくださいね?」
「はい」
ヒナは閲覧許可証を首から下げると、目当ての本を探しに歩き出す。
カウンターの目の前にある利用者用の机と椅子にはそれなりに人が座っており、ヒナのことを気にした様子もなく本に夢中になっている。
他の人への配慮のためヒナは足音を完全に消して歩く。静寂の中では足音は存外に響くのだ。
ヒナは歴史、宗教、魔物等々、この世界に関する情報の載っている本を探す。
一冊とっては立ち止まり高速でページをめくり内容を記録していく。ぱららと高速でページがめくられる音に、近くのものは好奇の視線や、奇異の視線、迷惑そうな視線を向けてくる。
しかし、そんな視線など気にした様子もなく、ヒナは本の記録を進めていく。
高速に記録していくヒナではあるが、この図書館の本の量も膨大で、一階のめぼしい本をすべて記録し終わる頃には閉館時間が迫っていた。
これは、明日に持ち越しですね。
予想以上の蔵書量に満足げなヒナは、カウンターで閲覧許可証を返してから図書館を出た。
今日は、この国の歴史、地理、宗教を記録した。歴史に関しては本によって解釈が違うところがあってので、その部分には真偽不明と書き込んでおいた。
今日一番の収穫はこの世界の地図を手に入れられたことだろう。さすがに地球のように精度は高くないが、それでも子細に描かれていた。
そして、この地図を見たことで一つ分かったことがある。
この大陸は地球に存在したどの大陸とも一致しない。地球には存在しない大陸だ。
この大陸は、ヒナにとって未知の大陸ということになる。
言語も、文字も違う。生活水準の低さに、地球では観測されていない動植物。類似点はあるのに完全に一致するものが無い。人間でさえも、少し違うのだ。
地球には無い法則もあるやもしれない。ヒナがこの世界に来る要因となったあの謎のエネルギーも、その地球には無い法則である可能性が高い。
ともあれ、それも明日調べれば良いことだ。
今日のところは別の情報収集に励むとしよう。そのために、まずは宿をとらなくてはいけない。
ヒナは目に付いた宿に向かう。
宿の古びたドアを開けると、この宿の女将さんらしき人から、いらっしゃいと声をかけられる。
「泊まりかい?」
「はい。一泊お願いします」
「あちゃー。こいつは間が悪いねぇ。さっき部屋が埋まっちまったところなんだよ」
「そうですか」
「わるいね。飯だけでも食っていけるけど、どうする?」
「いえ、他の宿が埋まってしまう可能性があるので」
「そりゃそうだね」
「では」
「あいよ。今度はよろしく頼むよ」
女将さんにぺこりとお辞儀をした後、宿を後にするヒナ。
宿を出てから、ヒナはこの町の全ての宿屋の位置を確認し、その宿にいる人数と会話を拾う。
「全宿満室……」
情報収集の結果、この町の宿の全てが満室だということが分かった。
ヒナは、この町全体の音声と人の動きを把握することができる。その全体の動きを把握するのにヒナ自身が動く必要は無い。例えこの町の端っこに立っていても、誰が何の話をしているのか知ることができる。
練り歩く必要が無いのなら一カ所に留まっていた方が良い。無駄なエネルギーを使わないし、夜中に少女が練り歩いていると不審がられるから。
そのため、宿をとりたかったのだが……。
失敗しました。先に宿をとっておくべきでした。
他に寝泊まりできるところは無いかを記録の中で確認すると、この町にも教会があることが分かった。教会であれば、もしかしたら一日なら泊めてくれるかもしれない。
ヒナは早足に教会に向かう。もうすでに日も傾きはじめている。教会も、あまり遅い時間には扉は開けてくれないだろう。
夜になり始めた町はアネスの村とは違い、やや等間隔に街灯が立てられているため明るい。そのためか、村ではそれぞれ家に帰る時間であった時間帯でも人通りは多い。
これからお酒を飲みに行く者、お高いお店でディナーを楽しむ者、色街にくりだす者。
それぞれがそれぞれの行き先にむけて歩く。
村とは違う人たちの営みを、ヒナは記録する。
ヒナは、こういった人の営みを知らない。
ヒナが地球にいて初めて目を覚ましたとき、ヒナが最初に見た光景は白く清潔感のある天井だった。
病院ではなく研究施設。そして、初めて見た人はしわだらけの顔に年齢を伺わせる白髪、くたびれた白衣を身にまとった男であった。
皺くちゃになった白衣と同じように顔を皺くちゃにして笑む彼の顔。
『おはようヒナ』
泣きそうな笑顔の彼にそう言われたけれど、ヒナはまだ声を操れなくて、音が意味もなく漏れるだけだった。言葉は知っていた。けれど、身体の動かし方を知らなかった。
それがもどかしくて、少し思考がざわついた。
無意味に音を漏らすだけの私を見て、彼は優しく頭を撫でた。
『ゆっくり、憶えていこう』
彼は私に学習させる機会を与えるように、ゆっくりと話した。
そんな彼としか話をしなかった。その部屋からはしばらく出してもらえなかった。
検査と学習を繰り返す日々。
しかし、そんな日々も唐突に終わり、私はマザーに保護された。その時にはもうすでにマザーによる人類の保護は始まっていた。そのため、ヒナは人の営みに触れたことも無い。データとしては知っている。彼に勉強と証して見せてもらったから。
人が多い。それくらいにしか思わなかった。
今も、それは同じだ。強いて言えば情報収集がしやすいくらいだ。
けれど、なぜだろう。少し思考が落ち着かない。
全て手に取るように把握できるのに、視線があちこちを向く。
思えば、村にいたときもそうかもしれない。
視覚以外で全てを把握しているはずなのに無意味に目で追ってしまう。手に取ってしまう。
ナーシャの頭を撫でたときもそうだった。別にぐずっていたわけでもないのに、もともとプログラムされていたかのように自然と手が動いていた。
ヒナにはわからない。わからないのに不思議と怖さは無く、戸惑いも無い。むしろ、もっと知りたいとも思う。
『触れ合って、生きた人間と。それが、貴女に一番必要なこと』
ヒナの思考をかすめるその声を思い出す。
触れ合った結果、理解できない行動をするようになった。そして、それを嫌だとは思わない。
声については謎ばかりであるが、声の言ったこともあながち間違いでは無いように思う。
しかして、それはそれ、これはこれである。声についてもまだ何も分かっていないのだ、全面的に信用はしない。そういう見方もあるのだ、くらにとらえておく。
ともあれ、ヒナに若干の変化があったのは事実だ。良し悪しに関わらず、データをとっておこうと思う。なにかあれば記録を白紙化すればいい。
自身の変化について思考をしながらも、ヒナの足は教会に向かう。
五分ほど歩いたところで、こじんまりとした教会に到着した。教会の隣にはそこそこの大きさの家があり、中から子供達の声が聞こえて来る。
その家は、家というよりも保育園や幼稚園のような造りをしていて、建物自体は少し綺麗だ。建てられて二、三年といったところだ。
ヒナは建物の入口横に立てられている看板に目を向ける。そこには『リネス教孤児院』と書かれている。
孤児院、ですか。
どういった経緯で孤児になったかは知らないが、痛ましい限りだ。ガーデンは孤児を作らないための施設でもある。そのための徹底した管理だ。
早く保護しなければいけないけれど今はガーデンと連絡が取れない。無責任な保護はさらなる困窮の原因にもなる。
早くガーデンと連絡をとらなくては……。
ここに孤児院があるということは少なくとも、他の裕福な町にも孤児院があるということになる。
ヒナは早急にガーデンと連絡をとらなくてはと、ガーデンとの連絡の項目の優先度を上げる。
しかし、それはそれとして、今は寝床の確保が先決だ。ヒナは孤児院の方ではなく、教会の扉をノックする。教会には、まだ人の反応があったのだ。教会に人の反応が無かったら、孤児院の扉を叩く予定であった。
コンコンと優しくノックをする。
「すみません、どなたかおりますでしょうか?」
ノックと声をかけてから数秒後、かこんと乾いた音が扉の奥から聞こえてくる。かんぬきを外した音だ。この世界では鍵などはまだ一般家庭に普及しておらず、戸の施錠にはかんぬきを使用している。
かんぬきが外され、扉が開かれる。
扉を開けたのは老年の女性。身に纏った修道服はとても自然で、その道の者であると疑う余地も無いほどであった。
「どうしましたか?」
一瞬、警戒したような顔をしたけれど、ヒナの容姿を見ればその警戒を解く。
「宿が取れず、路頭に迷っているのです。お金は払います。一晩だけ、泊めていただけないでしょうか?」
「ああ、なるほど。はい、そういうことでしたら構いませんよ。中へどうぞ」
納得して一つ頷くと、中へ促す。
「ありがとうございます」
ヒナは一つお辞儀をすると中に入る。
中に入ると、村の外れにある教会とは違い、掃除の行き届いた清潔感のある礼拝堂が目に入った。
祭られているのは『生と豊穣の神リネス』。姉妹神にアネスとミネスがいる。
「こちらへ。空き部屋がありますので、そこで一晩を明かしてください」
「ありがとうございます。こちら、お金です」
ヒナがお金を渡そうとすると、老年のシスターはふるふると首を横に振った。
「いえ、お金は結構です」
「ですが……」
「お金は領主様より毎月頂いております。お気持ちだけで、十分ですよ」
どうやら、この教会と孤児院にこの町の領主が定期的にお金を渡しているようだ。
「そうですか。では、せめて祈りを」
ヒナがそう言うと、老年のシスターは顔を綻ばせた。
「まあ、それはリネス神も喜びます。では、お疲れでないようでしたら、夕餉の後にでも、お願いします」
「いえ、ご飯までいただくわけには」
「領主様はあなたのような方を一晩泊めるときのためにと、多くお渡ししてくれています。ですので、遠慮する必要はありませんよ?」
領主様の奢りですと茶目っ気たっぷりにいう老年のシスター。その言動には気負いも何もなく、おそらくは、このシスターとこの町の領主には個人的な交友があるのだろう。
「……それは、ご相伴にあずからないと、罰が当たりますね」
「ふふっ、ええ、そう言うことよ」
ヒナの言葉に、老年のシスターは笑む。その笑みは年若い少女のように無邪気であった。