バスの君は、
聞きなれたチャイムと同時に、私は教室から飛び出した。早くと心が急かすのに身を任せて、自然とバスに飛び乗っている。
ホームルームが終わってすぐに走ってなんとか間に合うこのバスの定刻に、私は恋をしていた。
(1)
バスの席はがらんどう。どの席も座り放題だったが、私のバスの中で向かう場所は一つだった。バスの右側の列。一番後ろの席。いつも入ってすぐにそこをすぐに確認する。
そこにはバスの君が、いつもの澄ました顔で窓の外を眺めているから。
今日も今日とてバスの君の横の席が空いていた。その空っぽの席はまるで私が来るまで空けていたかのような偶然さ。
私は黒い制服を着た自分を窓に写して、どこもおかしくないか、と何度も確認して、手に「人」を生み出した。うねうねとした「人」の文字を飲み込んで、ごくんと唾とともに体に溶かし込む。
手には昨日バスの君が読んでいた本、『檸檬』。黄色い表紙とよく分からない表現が散りばめられた文章の本を片手に、一歩前進する。
バスは私とは反対に進む。私はバスの前進に妨げられながら、なにこのぉ、と前に進む。次第に進んで大丈夫なのかと一抹の不安がよぎるがそれでも進む。
ようやくたどり着いた目的地は、夢にも見た場所に思えなかった。心臓がバクバクして、視界は揺れて、想像した場所とはちょっと違う場所に立っている。
バスの君はいつも通り冷ややかな視線をバスの外の風景に向けていた。さらりとした冷たい目線が、私に突き刺さる。
君の白いイヤホンは黒い詰襟をバックにしたら、映えていて、印象的だった。イヤホンからはほんのかすかだけど、音楽が聞こえてくる。何を聞いているのだろうかと、ふと気になる。
スカートひらり。
私は、君の隣の隣。バスの正面から見て左の列の最後尾に座る。持っていた本を開けて、文章を追わず瞳だけで君の方を見た。
私の方を見てくれないか、見てくれて、この本を見たら会話のきっかけになるんじゃないか、なんて浅ましいことばかり考えていた。実際こっちを見たら私は喋れなくって、ドギマギするくせに。
君の見つめる先はいつだって冷めていた。窓に移る現実は、夕日が照り影を濃く伸ばしてゆく。空に黒い線を引く電柱をバスは追い越して、夜を引き連れる。そうこうしていくうちに時間は過ぎて、明日がやってくる。
ピンポン。
ーー次止まります。
ーー急な揺れに注意してください。
ーーご乗車ありがとうございます。
ーー右に曲がります。
ピンポン。
ーー次は市役所前。
ピンポン。
ーー次止まります。
赤いランプは一斉にバスの世界を彩る。
どうしようか、話しかけなければ、そうしなければまた明日だ。明日まで君を見ないなんて耐えられない。教室でずっとため息をついてしまうし、暇さえあれば群衆の中に君がいないか探してしまう。
詰襟の制服を見るに、君はきっと違う学校だ。それなら会うにも難しい。私とは同年代なのだろうか。それとも一個上、二個上なんてこともあり得る。
いつも読んでいる本は同じ文庫本の『檸檬』で、それ以外はだいたい今のように音楽を聴いている。君はいつだって付け入るスキを与えずに涼んだ顔でいて。
ーー急な停車にご注意ください。
刹那、私は揺れる車内に驚き、手に持っていた文庫本を落としてしまった。しゅるしゅると、本は滑っていき、君の足元に向かって走り出した。あっという間に文庫本は君の足元にこつんと当たった。
君は気づいて、イヤホンを片方外す。
漏れ出る音楽はどこかフラットで、どこかロックで、どこかで鳴り響く私の心臓の音ははちきれそうになりながらも音を奏でて混ざりあう。
足元の文庫本に手を伸ばす君の手は青白く不健康そうな色だった。それがまた私の不安を掻き立てて、心臓を縮めあがらせる。不健康そうだから、白いから、守ってあげたくなる。そんな母性本能をくすぐらせる。
君はゆっくりとした所作で落ちた文庫本を私に向けて差し出した。
「本、落としたよ」
凛とした君の瞳に思い出す。
あの瞬間、君に感情を揺さぶられたことを。
小さく頭を下げて、私は震える手をなんとか抑えて受け取った。
君はやっぱり優しかった。私みたいなちんちくりんでも、優しさを分けてくれる。それだけで心が温まった。
教室でほんの少し息をするだけでも私には辛かった。どこにいたって一人で、どこにも自分がいないことを思い嘆いてしまう。みんな一つや二つ悪戯してて私はそれが嫌で、だから息が詰まってしまう。
でも、バスのこの時間だけは辛いものも何もかも全て吹き飛ばしてくれた。君がいるだけで私は一人じゃないと感じるし、悲しくはなかった。
だから、私は君にきちんと向き合いお礼がしたい。この気持ちはなんだか分からないけど、君といるだけで安心してしまうけれど、それだけじゃダメなんだ。
私は自身の中の言い知れない衝動とともにあるこのぬくもりは君への感謝だと思っている。それを君に明示したい。
しかし、今日も今日とて喋れない。喋りかけなれない。また君は涼しい顔をして、窓へと視界を移してしまう。せっかくの機会なのに、私はまた今日も逃してしまう。
待って。
ぴくりとイヤホンを直す君の手が止まった。私の念が通じたのかと、一瞬戸惑い、君との視線がぶつかる。
恥ずかしくって、逸らしたのは私の方。
「さっきの文庫本って、『檸檬』」
君の声に私の心は泣き叫びそうなほど高鳴り、ちょっと考えて、それでも言葉にできそうになかったので私はうなづくだけうなづいた。
素っ気ない女の子なんて思われてしまっただろうか。
自分の不自由さにたじたじしていると、澄ました君の目に一筋の光が入ったのが分かった。
「俺も好きなんだ。でも最近、飲み物をこぼして汚しちゃってさ。良かったらなんだけど、今度貸してくれないかな」
そう言って、君は苦々しく「もう買うの面倒くさくって」と付け足した。
思ってもみなかった機会に私は必死に飛び乗った。どっしり深くうなづいて、君の拾った文庫本を握りしめた。
よかった。今日は他の日とは違って君に出会えた。しっかりと、君の声を聴けた。それだけで私は満足だ。
ピンポン。
灯篭のような淡いかすかな光を点し、バスは止まる。
君は「じゃ」とだけ言い残すと身軽に降りて行った。
(2)
それからはバスの席は埋め尽くされていた。だいたいは私の幸福で。
ピンポン。
誰かが触ったボタンでバスは止まって、動いてを繰り返した。ゆっくりと静かに流れてゆく時間に心臓は速まり目まぐるしく景色は移りゆく。
こくんとだけ頷いていた私の行動はいつしか大胆になっていき、静かに、しかしほんのわずかに歩みを進めていった。
ーー右に曲がります。ご注意ください。
私たちは話した。学校のあれやこれやを。
学校が違うからか君と私の学校の行事は違っていた。たまに君は、ずれたことを言ったけど、それはきっと、君と私との距離が遠いから。私が遠くでいることにじりじりと焼ける感情がを感じるから。
そう感じるなんてきっと嘘だった。
ーー急停車します。
この嘘のような感情に気づいたのは、随分昔。君を初めて見た時だったのに、今になって気づいた。感謝のはずが、全く違う痛みやぬくもりを感じていることに。
これは本当に感謝なのだろうか。君を見て痛みつけられる焼け焦げた、腐乱した、気持ちの悪い、ともすれば君の全部を得たくなる強情さ、これは私の感情なのだろうか。
バスに乗ると、この時間になると、見かける彼の姿に全ての心をやつして、写して、でも何か足りなくって、私は君にまだ近づいていない気がして、じりじりと心を炙られているような気がしてしまう。たまに欲を張り、君を全部もらいたくなる。
「じゃ」とそっけなく呼びかける別れ言葉にまだいてほしいと感じてしまう。
物足りない、物悲しい欲を欲して乾く心に、蛆がたかる脳内はなんだか気色悪い。
これは何なのだろうか。
バスに飛び乗ると、ほっとする。今日も君がバスに向かって右の列の一番後ろの席にいる。
たまにこの時間を永遠に彷徨いたくなる。この不思議な国のノスタルジーに浸る。
私は君の隣の隣、絶妙に距離を保ち腰を下ろす。手にはあの日から持っている文庫を常備していた。
「やあ、こんにちは」
気軽に君は話しかけてくる。その際、白いイヤホンは外して、私の方へ耳を傾ける。白いイヤホンと同じくらい白い顔をこちらに向けてくるから私は胸が高鳴る。変わらないこの胸の高鳴りに、いつもながらにドギマギする。
これって、感謝するのが恥ずかしいから高鳴っているのだろうか。それすらも、もう分からない。
外が寒くなってきて、君も詰襟にジャンバーを羽織るようになって、首にはマフラーまで巻くようになった。君は白い肌を露出させることが少なくなり、まるで旅人のように遠くへ行ってしまうのではないかというほどの分厚い様相になっていた。
スカートひらり。寒空に足はそのままに。
「こんにちは」
きちんと腰を下ろす時、スカートがくしゃくしゃになっていないか、腰を下ろした後に確認する。下ろした後で気づく。これでは遅いのだ、と。
もっとよい自分を君に見てもらいたいのに、これでは……何が悪いのだろうか。何かがダメなのだ。
ため息がこぼれてしまいそうになるのを抑えた。
「こないだ、また『檸檬』貸してくれてありがとう。やっぱり俺はこの本大好きだ」
「えっと……いえ。あ、なんなら上げてもいいですよ?」
「そう?」
君の喜んだ笑顔が胸にきて堪らなかった。君が笑うと簡素な黒と白で彩られた灰色のバスの世界に止まりますボタンの蛍が舞い散る。そしてプラネタリウムさながらに夜空に蛍が浮かぶ。
でも、途端にくしゃっと君の笑みがつぶれた。どこか遠くを見たいつもの澄ました顔を見せて悔やむ。唇からすっと息が漏れ出て、外の冷気さながらの冷ややかなため息を漏らす。
「やっぱいいや」
「私からのプレゼントみたいなものですから、遠慮しなくてもいいんですよ」
「いいんだ」
そうして私が会うまでしているように冷えた眼差しで外を見た。私から視線をわざと外しているように見えて、落ち着かなかった。私の感情に苦みが染み出し、おどろおどろしい毒が脳内に分泌された。
私以外の他の女の子が、君と話している光景がその時鮮明によぎった。『檸檬』の話を君が楽しげに語っているのだ。私は用済みなのではないか、という不安を叩きつけられた。瞬時に不安を押しつぶした。そうしなければ、逆から迫りくる恐怖に押しつぶされそうだった。
「誰かと繋がっていたいなんて思ったことない?」
君の言葉が私の想像とは百八十度回転したところで巡り合った。
「俺はさ、繋がりには疎くってね。だからこんな文庫本の貸し借りっていう小さなものでも繋がりを作っていたいなって。強情かもしれないけどね」
「私も」どもってつっかえて、のど元に押し留まった言葉を無理やりひねり出した。「分かるよ。つながり、持ちた、い……」
君の繋がりが私の繫がりに込める気持ちとはあまりにもかけ離れているけれど、小さくてもつながっていたいという気持ちは同じだった。同じ気持ちで同じ大きさではない。浅はかな考えでも共有できたことにちょっとだけ得した気分になる。
赤さびた色をした電信柱を何本か越して、照らす夕日もなびいて消えて、宵闇が襲いかかってくる。
もうすぐ君の降りるバス停だ。
嫌だ。君と離れたくない。
繫がり、私は君とこれ以上の繫がりを私は羨望している。どろどろととろけるイチジクを手にして被りつきたい衝動に駆られている。
ピンポン。
--次止まります。
この気持ちの詰まる果てに私は確信してしまった。どこへも行けず一方通行の毎日。この毎日の時間で一時停止していた。だから、いつかは持つと思っていた当たり前のものすらも、私は気づいていなかった。
この気持ちは感謝じゃない。この気持ちはもっとずっと奥深くの、気づいてはいけない物悲しい私の弱さ。
恋だった。
「じゃ」
降りていく君の背に私はいてもたってもいられず、立ち上がり始めて自分から声をかけた。
「待って」
君の動きはぴたっと止まる。それはいくつも灯りがついた止まりますボタンの真ん中だった。人工プラネタリウムの真ん中に立つバスの君は青白くぼやける肌も相まってか神秘的だった。
「待って……」
萎れていく私の声をかき消して、君が苦々しく、でも冷ややかな声色で歓迎する。
「何?」
「あ、あの……」
止まります、そんなボタンがカチカチと点滅する。それが終わったらまた明日。それではこの恋心はどこへ投げたらいいのだろう。
勇気を振り絞り、私は恋慕に身を任せた。
「連絡先教えてもらえま、すか?」
君は私に首を、ゆっくりと横に振った。短い髪が少しだけ伸びている。もう、そんなに時間がたっていたんだ。
「じゃ」とだけ残して、君はバスを降りていく。私のこの永遠とも呼べる時間に、最後を告げて、バスは走り出す。
果てしない道のりをどこまでも。
この伸びきった恋の芽をどうすることもできずに。
(3)
ホームルームが終わると同時に、教室を抜け出し、バスの定刻に間に合わせる。そうして乗ったバスの中は閑散としていた。
右の列の一番後ろは、空っぽで誰も座っていない。訪れる気配もない。バスの君は、どこかへ行ってしまった。
結局残ったのは『檸檬』という文庫本だけの繫がりだった。この繋がりだけ残して先は踏みこめなかった。それでも、私はこの時間帯にいつも通り乗り、いつも通り思いを馳せている。
スカートくしゃり。
バスの君の座っていた席に腰を下ろす。君と同じように外を眺めた。そこからは私がいた席とは全く違った景色が見えた。
いくつもの電柱もそうだが、歩道を歩く人々の様子を事細かく観察できる。おばあちゃんが腰を折り曲げ、歩みを進める姿。そこに駆けよるバスの君と同じ制服の生徒。夕日が生徒の笑顔に映えていた。
真っ赤に燃えるような恋をした。だが燃えすぎて朽ち落ちてしまった恋だった。
バスの君と出会った頃は、赤い糸を小指にぐるぐるに巻き付けられた運命的な出会いだと思っていた。
膝に置き、手で抑える文庫本は何回も貸し借りをして、ボロボロになってしまっている。今も君がそこにいるように感じた。
ぬくもりに酔いしれるほど、バスの君が愛おしくなった。この文庫本は私の宝物で一方では、檸檬という大きな爆弾だった。私の上で爆発すればもう元には戻らない。それでも爆発させず持っているのは、まだ私が諦めきれないから。
私はバスの君が、次の停留所からいつもの澄ました顔をして乗って来るのを待っている。
ーー次止まります。
音声に耳を傾けて、思い出すのは、バスの君と初めて出会った時だった。
(4)
その日、私は白いマスクをしていた。早めにバスに乗る。ホームルームなんて出る気分でもなかったし、教室にいればまた一層気分が悪くなる。疲れがたまった体が重しのようで、バスの座席に腰を下ろすのも辛かった。
息苦しい咳をつき続け咳が終わると、はあと安どの息を漏らした。
こくこくと夜を告げ、走り去るバスに頭を預けて、早く目的地に着くように祈った。
意識がもうろうとしていて何も見たくない。節々の関節が悲鳴を上げていて、鳴り響くバスの音声も耳に届かなかった。唯一分かったのは頭を預けた窓が冷たかったことと、冷たさで気持ちが幾分か和らいだことだけ。
目的地に着くと、もう一度重たい体を何とか上げて、バスの前ドアへと向かった。そして、定期を見せようと、ポケットから取り出そうとするーー
「あ、れ?」
声を上げるほどに焦ってしまった。取り出そうにも定期がなかった。いつもしまっているポケットの中はもぬけの殻で定期は逃げ出してしまっていて、私はお金も持っていなくって、頭の中こんがらがって、とにかくくらくらと脳内思考がまとまらなかった。
どうしようもないから立ちすくんで、咳を何回かつくだけしかできない。
「お客さんどうしたんだい?」
車掌の声もぐわんぐわんとハウリングして、一周して戻ってくる。理解しているのに、この状況を打開できなくって逡巡する。
もう無理だ。
私は座りたい。
その場で寝たい。
でもどうしようもできない。
誰か助けて。
ひしゃげた声は掠れていて、伝わらない。
「車掌さん。これ、この子の分と俺の分」
手を差し伸べてくれたのはバスの君だった。その白い手で、私と君の二人分のバスの料金を払い、さらっとバスを降りて行った。何も言わず、ただ去っていくだけ。その後ろ姿は神々しかった。
ただただ感謝して、愛おしくなった。
ピンチな時に助けてくれる、私の王子様。彼は優しくって、私にお礼を言われるのを極端に嫌い先をゆく照れくささがある、どこにでもいそうな男の子。
王様、私の君。
バスの君。
「降りないの?」
車掌がイライラしながら尋ねる。
慌てて私はその停留所に降りた。
バスの君と同じバス停へ。
『市民病院前』に。
(5)
ーー次止まります。
きらりと光るボタンに既視感を覚えた。次は、市民病院前だ。バスの君がいつも降りるバス停だった。
私がほのかに感じるのは、バスの君への不安だった。
君は言った。繋がりが欲しい、と。でも、私との連絡交換、もっと言えばお互いの名前すら私達は知らない。それなのにあの言葉はあまりにも不自然すぎた。
しかもいつも白い不健康そうな肌をしていて、死人みたいにそこにいるかいないかも判断がつかない危うさを君ははらんでいた。
どこか杞憂だろうとも思っていた。でも、一方でもしかしたらと恐怖と不安が募っていった。
もしかして、君は重い病気を持っていて、病院にいつも通っていたのではないだろうか。
降りるバス停はいつも同じ場所で、降りた途端君を見失ってしまい行き先なんて知りもしなかった。
しかも君のプライベートに踏み入るべきじゃないと勝手に思い込んで、先を見ることも避けていた。それが、私の王子様ならなおさらだ。
結局君に抱く感情が恐ろしすぎて、私は何も踏み込めなかったのだ。そこに真実が隠されていると知りながらも、別れの理由も、もう少ししたら会えなくなるんじゃないかという不安からも全部避けた。
傷つくのが怖かった。私が恋してしまったバスの君を失うのがどうしても許せなかった。
プラネタリウムが閉園を迎える。暗く閉ざされた空に何一つ写ることはなく。夕日の赤はとうに沈んでしまった。
だけど、私は待っている。この時間に、あの時と同じように。儚い期待と知りながらも、君が帰ってくるのを待ちながら。
バスは連れてくる。この時間この一瞬を。私とバスの君をめぐり合わせたあの時のままに。
私はホームルームが終わると、すぐに準備して教室を抜け出し、このバスの時間に飛び乗る。そして、一番右側の一番後ろの席を見る。
そうしていつものバスの君の幻影が映し出される。
君は笑って「こんにちは」って。白い不健康そうな肌を見せる。
「こんにちは」
スカートひらり。
また会えたね、なんて言って笑い返して、名前を尋ねてくる。今度は連絡先も添えて。
積もる話もして、あの時、マスクしていて気付かなかった? あれ私だったんだよって告白して、私が恋に身を浸す時間は過ぎていく。
「実は俺、重い病気で病院通いだったんだよ。ようやく病気が治って、こうして会いに来たんだ」
そうなんだって、私は微笑む。
君がいなくならなくって良かった。戻ってきてよかった。やっぱり病気だったんだ。私の推測はあってたんだねって。でもその推測があまりに当たってしまって、怖かったよって。
バスの君は、はははと笑いとばすんだ。
檸檬は爆弾ではなくって、分け与えるものになっていて、お互いで食べあって顔をすぼめるものになってる。檸檬に込められているものに、痛みを感じて、あの頃はそうだったねって、また一緒にバスに乗って、どこか映画でも行こうって話し合う。
こんなカフェもいいね。あそこの店も行こう。遊園地や水族館へ行って、二人して遊んだ後は、手をつないで、またバスに乗る。右の列の一番後ろの席で、寝落ちてこてんと首をお互いの肩に乗せる。
全てが過去になった時、私はようやく君に思いを告げて、君はいつもの苦笑いを向ける。でもどこか優しくって、変わらない。
バスの君は、きっとそういう人だ。