三話
正直、不安だった。
誰一人自分のことを知らない場所を求めて、私は故郷から遠いこの学院に入学した。だけどそれは、自分自身で勝負をするということ、身分で誤魔化された今までの自分が使えないということだった。
それは新鮮でとても心地よく、それでいて不安で堪らなかった。
班を決める時、その不安は的中し、周りの人たちは私に話しかけてくれずにいた。勇気を出してこちらから声をかけても、みんな私を見ると余所余所しい態度になる。
それとは逆に、私の髪や瞳の色、服装を遠くからジロジロ観察する人たちもいた。おそらく彼らは貴族や商人の息子や娘なのだろう。あの人たちに甘えれば、この寂しさを解消することは簡単。でもそれは、結局は前と同じ。でも――
「あのー、いいですか?」
そんな時、私は一人の男の子に声をかけられる。その子の隣にはいかにも品行が悪そうな男の子もいて、私は少し怖くなった。
「え、えっと……なに?」
「まだ班とか決まってない感じ、かな?」
「……ッ! え、えぇ。そうよ」
私は自分の胸の鼓動が高くなるのを感じていた。その続き、その言葉の続きを期待していた。さっきまで感じていた不安や孤独が徐々に溶けていく、それはまるで春の温かさを知った雪のように。あの時のことは、私は今でもしっかり覚えている。
「じゃあさ、よかったらだけど……僕らと組まない?」
私が『私』として初めて歩き出した瞬間を――
休日、僕たちは学院の中庭にある大きな掲示板の前で立っていた。掲示板には無数の張り紙がピンで止められており、それを本気で物色していたのだ。
「報酬が高く、内容は簡単で、近場」
「流石にそんな好条件はねぇな」
自分たちの望んでいる募集を懸命に探しているが、そんな美味い話がゴロゴロ転がっているはずもなく、周りにいた他の人たちは次々と張り紙を引き剥がし、この場を離れていった。
「ああもう面倒くせぇ! やっぱいつもみたいに近場で安いやつを片っ端からやろうぜ。質がアレなら量で勝負よ!」
「うーん、そうだね」
この掲示板に貼られている依頼はまだ未熟な生徒である自分たちでも達成できる内容になっているが、学年によって受けれる依頼は変わってくる。1学年である僕たちが受けれる依頼は基本とても簡単で、報酬も評価もそれに見合ったモノだった。
僕とケットは辺鄙な村の出身で、家族からの援助はない。寧ろこちらが仕送りをしないといけない状況のため、食事代、仕送り代、お小遣いを稼ぐために、一日を余すことなく使える休日は大体依頼をこなしていた。ちなみに、学費はタダである。
「…………」
「アンジェ、どうしたの?」
「な、なんでもないわ!」
僕が声をかけるとアンジェは慌てて反応する。先ほどまで心ここに在らずといった状態で、あの一件から彼女は時々こうなっていた。
張り紙数枚を勢いよく剥がしているケットを横目で見つつ、僕はアンジェのために言葉を探す。
あの男――アレクサンドロスはどうやら貴族であるアンジェのことを知っているようで、ここ最近までアンジェがこの学院に入学していることを知らなかったと、いつかどこかで言っていたのを覚えていた。
「えーっとさ、アレクサンドロスくんのことなんだけど」
「……彼がどうしたの?」
「いや、ほら……彼って、アンジェの昔のことを知っているわけだよね? でもさ、僕たちはそれを知らない」
「…………
「だから――」
「おーい二人ともー! 早く行こうぜー!」
僕の言葉はケットに遮られてしまう。空気を読めよと僕はケットに目で合図を送ろうとするが、それをアンジェの背中が遮った。
「あ、アンジェ! 待って、話の続きが」
「ガルムも立ち止まってないで早く来いよー」
「ああ、もう! 分かってるよ!」
僕は少しイラつきながら返事をする。それにケットは首を傾げ、近づいてきたアンジェに問いかけた。
「なんでアイツ怒ってんの?」
「……知らないわ」
ケットの集めた張り紙の中に、学院から少し離れた森に子鬼の住処ができ、それを破壊してほしいという内容の依頼があったので、先ず僕たちはその森を訪れた。
「うぉらぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ケットが繰り出した槍の刺突が子鬼の身体を貫き絶命させる。そんな仲間の惨い死を目にしても、他の子鬼たちは臆せず手に持つ棍棒を振り回しながらケットに飛びかかった。
「キョッ!」
空中で矢を受けた子鬼たちは短く声を発して後ろに吹っ飛び、木に縫い付けられる。アンジェは凄まじい速度と精度で、次々とケットに襲いかかる子鬼を射殺していった。
その凄まじさにアンジェを一番の脅威と思ったのか、残りの子鬼たちはケットからターゲットを移し彼女に迫る。僕はそんな子鬼たちの行く手を阻み、剣を全力で横に振った。
ブンっと空気を裂く音とともに、身体と切り離された複数の頭が宙を飛ぶ。
一閃から逃れた子鬼たちに僕はもう一度攻撃しようとするが、すでにケットとアンジェの手によって全滅させられていた。
「俺に後ろを見せるとか、こいつらほんとアホだよなぁ」
「でも油断はできないわ。知能は低いけど数は多いんだから」
口を動かしながら、僕たちは子鬼の頭に生えた一本角を回収する。
子鬼とは遥か昔からいる魔物であり、元はゴブリン族だったと文献には残されている。本能が生き、子を成して今もなおこうして存在する魔物は基本弱く、その代わり数がとても多かった。
僕は子鬼の角を腰に差していたナイフで切り落とし、それを大きな皮袋の中に入れた。
「二人ともー、集まったー?」
「ええ」
「おう、今から持っていくぜ!」
両腕に大量の角を抱えたケットは小走りで僕のところまでやって来ると、ドバっと勢いよく角を中に入れる。僕はズシリと重くなる皮袋を落とさないように両手に力を込めた。
「うっし、じゃあちょっと周りを見て来るわ」
「了解」
「ガルム、これ」
「うん」
ケットほどではないがアンジェもまた沢山の角を持ってきたようだ。僕は皮袋を差し出し、入れやすいように口をできるだけ大きく開いた。
「あのさ、出発する前に話したこと覚えてる? あの話の続きなんだけどさ」
「ねぇ、ガルム」
「ん? なに?」
「ガルムはその……昔のこと、どうしても聞きたいの?」
「え」
違う、僕はそんなことを聞きたいわけじゃない。そう言おうとして、僕は息を呑んだ。アンジェの悲痛な顔が、僕を見つめる視線が、行動を妨げたのだ。
「あっちに住処が在りそうだぞ、って……どうした?」
帰ってきたケットは僕たちの様子に困惑した顔をする。
「…………なんでもないわ」
「いやいや、そんな感じじゃねぇだろ。だってお前……」
「あっちに住処が在るのね? なら、早く行きましょ」
「お、おい!」
アンジェはそう言うと、一人で森の奥に行ってしまう。ケットは短く切った茶髪の頭を掻くと、僕のほうを向いた。
「お前もアイツも今日は変だぞ。一体どうしちまったんだ?」
「…………実は」
もう自分一人だけではどうしようもないと、僕は助けを借りるために事情を話そうと口を開く。だが、その瞬間
「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「!? あの悲鳴は……ッ!」
皮袋をその場に落とした僕、そしてケットは同時に走り出す。木々が折れる音と森に木霊する叫び声、それは僕たちがよく知っている声であり、大切な仲間である
「アンジェ!!」
彼女のモノだった。