十六話
「なんか眠そうだな」
「ああ、うん……ちょっとね」
僕は歩きながら何度目かになる欠伸をする。やはり、あの説教が効いたのだろう。寝坊はその張本人であるアグルカ先輩のおかげで阻止することができたが、午後の授業で寝てしまわないかとても心配だった。
現在、僕とケットはディーン先生の授業を受けるために運動場に向かっていた。朝のひんやりとした冷たさが肌を刺激するが、それだけでは睡眠欲を抑えるには不十分といえた。
「……やっぱり、昨日のことが原因で眠れなかったとかか? 実は俺もあんまり寝付けなくてよ」
「昨日のこと?」
「え、アレだよアレ。魔物が襲ってきたヤツ。……こりゃマジで重症だな」
魔物――そうか、そうだった。ケットたちは『彼』のことを魔物だと思っているんだ。ぼんやりとした意識のせいで迂闊な発言をしてしまった。
だが、そのおかげで少しだけ目が覚めた。
「あ、ああー、そうだったね。ごめん、なんか頭がぼおっとしてて」
ケットの言葉に合わせて僕は喋る。それに違和感を覚えている様子はなく、ケットはニヤリと笑った。
「おいおい、そんなんじゃ授業で寝ちまうんじゃねぇか?」
「かもね。でもそこは気合いで乗り越えてみせるよ。……そういえば、その魔物の件だけどさ。あんなことがあったのに特に騒ぎになってないよね?」
「んー、確かに。結構な事件のはずなのに、ここまで普通なのもおかしいよな……」
ケットは周りを見る。生徒や先生が己の目的地を目指して歩いている様子はいつもの光景、些細な変化はあれどそれは変わらない日常だった。
「実は、もう解決したとか?」
「……いや、流石にそれは無いと思うよ?」
「ハハッ、違いねぇ。まぁ、何にせよ、周りが平和ボケしてるからって用心を怠るべきじゃないよな。アレだろ? だから皮の手袋を着けてるんだろ?」
「まぁね」
違う、だが僕は嘘をつく。本当は『中身』を見られたくないだけ、仲間に異常だと思われたくないだけだった。
「やっぱりな。ちなみに俺もちゃんと準備をしてきてるんだぜ? とりあえず、小剣を携帯することにしたんだ。槍はほら、学院を歩き回る時に邪魔だしよ」
「…………」
「……ガルム?」
「…………え」
意識を自分に向けすぎたのか、いつの間にか目の前には心配そうに僕を見るケットがいた。
それに申し訳なさを感じる前に、僕は無意識に右手を隠していた。
「お前本当に大丈夫か? 先生には俺から言っとくから、今日はもう休んどけよ」
「ありがとう、でも心配ないから」
「けどよ――」
「ケット、急ごう。授業に遅れる」
自然と立ち止まっていた僕ら。その状態が考えているよりも長かったのだろう。あれほどいた周りの生徒たちは、ほとんどがいなくなっていた。
僕は前方にいるケットを避けて全力で走った。
「あ、おい!」
背後からケットの声が聞こえる。だがそれを無視し、僕は逃げるように走るのだった。
そして僕は、運動場に到着する。
途中で止まることもせず無我夢中で走ったおかげで、授業には遅れずに済んだようだ。他の生徒たちがガヤガヤと騒いでいることから、どうやら先生はまだ来ていないらしい。
「はぁ……はぁ……まぁ、それだけ走れたら……十分だ、な……」
運動場の様子を一通り見たあと、僕はケットに視線を移した。
僕より数分遅れてきたケットは、ぜぇぜぇと息を切らせている。
「ごめん、突然走っちゃって。えーっと、大丈夫?」
「あ、ああ……ちょっと休んだから、だいぶんマシになったぜ」
「そう、それならよかった」
僕は別の意味でもホッとする。さっきの行動で、ケットを怒らせたのではと不安になっていたからだ。
「にしてもよぉ……お前、そんなに体力あったっけ? 息も乱れてねぇじゃねぇか」
「あはは、まぁ、うん……トレーニングの成果、かな?」
「トレーニング?」
「あ、先生が来たみたいだよ!」
これ以上嘘をつきたくないと、僕は話を無理矢理終わらせる。適当に言ったことではあるが、実際にディーン先生は来たようで、ピタリと周りも静かになった。
だが、普段とは違い完全とはいかず、ヒソヒソと声が聞こえる。その原因は先生の後ろにいる人物。とてつもなく綺麗な女性のせいだろう。
「なぁ、あの美人さんは誰だ?」
「さぁ? 僕もわからないよ」
他の生徒と同じように僕らもまた小さな声で喋る。
白を基調としたローブの上に防具を装備した銀髪の女。容姿はとても魅力的であるが、僕は彼女自身よりもその腕に着けている腕章、剣を持つ女性が描かれたそれに意識が向く。
初めて見たはずなのに、僕はそれを知っているような気がする。それを思い出そうとした瞬間、ビリリと稲妻めいた痛みが頭に走った。
「……ッ!」
僕は顔を歪ませる。幸いにも、ケットはあの女性を凝視しているためか、こちらに気づいてはいなかった。
理解していたことだが……身体に、異変が起きている。
痛みの原因はわからないが、今の既視感はおそらく彼、アレクサンドロスが関係しているのだろう。だが、あの時から彼の記憶は時間が経過するにつれて薄れていき、朝起きた頃には大部分が消滅してしまっていた。
その消え方はまるで夢のようで、だがそれは幻ではなく現実で、消えてしまった部分はあれど、記憶と違い確かに今も残っている部分もあった。その代表的なモノが、『右手』と体力……いや、『力』だろう。
そんなことを考えているうちに、痛みは完全に姿を消す。再度腕章のことを考えようと思ったが、僕はそれを危険だと判断し、先生の話に集中することにした。
「えー、さて。今日の授業は先日の騒動、そして昨日から行方不明者が一名出ていることもあり、学院の判断の下、予定していた実地訓練を急遽中止し、模擬戦を行うことになった」
「行方不明……?」
「誰だ誰だ?」
先生の話の内容により、生徒たちの声量は大きくなる。それが誰の耳にも聞こえる音になったのを皮切りに、ディーン先生は手を強く叩いた。
「静粛に。行方不明に関しての詳しい説明は中庭の掲示板に貼ってあるから、この授業の後にでも見ておくように。お前らには特に関係していることだからな」
「先生ー。それって同級生が行方不明になったってことですかー?」
「え、誰だ誰だ?」
「えぇい、うるさい! 今は授業中だぞ!」
筋肉を膨張させて怒りを露わにする先生。その鬼のような姿を見た生徒たちは、流石に好奇心を殺して言葉を止めるのだった。
「ふむ、よろしい。…………ん?」
静かになったことに満足する先生をちょんちょんと小突く銀髪の女性。それに気づき、慌てた様子でディーン先生は口を開いた。
「こ、これは失礼しました! ……えー、今日は特別に、ある御方が授業に参加してくださることになった」
前に出る女性。日の光を浴びて神々しく輝く髪、透き通るような白い肌、そして人を惹きつける紅い瞳。
ディーン先生が突然畏まった態度をしたということは、容姿と同じく位もまた凡人ではないのだろう。
にっこりと微笑む彼女を皆が注目する。そんな美しい彼女の第一声は――
「はーい、レトリナと申しまーす! 遥々遠い所からこの学院にやってきた者でーす! みんな、よ・ろ・し・く☆」
言葉の最後とともに独特のポーズを決める女性、レトリナ。
黙っていた時の清楚で高貴なイメージを一撃で粉砕した彼女を見た生徒たちは一斉に凍りつく。
ディーン先生が少し前に努力して勝ち取った場以上の静寂が、辺りを包み込むのだった。