十四話
「これは酷い。まさか魔物以上に醜いとは」
変色した黒い皮膚が裂け、その割れ目から赤い筋肉が露出する。髪は抜け落ち、身体の各所が異常な変化を見せる。その姿はルシエルの言う通り悍ましく、元が人間だということを疑いたくなる程の異形だった。
「これが……魔人?」
「如何にも。だが、その中でも最も陳腐な結果だ。よもや人のカタチを失うとはな……」
「ア……ア、ア、アァァァァァァァァァァッ!」
赤黒い体液を流しながら、豹変したアレクサンドロスは唸りを上げて四足歩行でルシエルに迫り、その伸びた鋭利な爪を振ろうとする。
「そして目的すらもッ!」
だが、それよりも早くルシエルは手を前に出し、あの黒く輝く魔術陣を展開する。彼の爪とソレが触れ合った瞬間、火花を散らしながらアレクサンドロスは吹き飛んだ。
それを見届けたルシエルは大きな溜め息を吐く。
「……興が醒めた。これで失礼するとしよう」
「ま、待て! 話はまだ終わってない!」
僕の叫びに、ルシエルはフードで隠れた顔をこちらに向ける。
「なんだね? もう全て話したと思うが?」
「僕と彼を元に戻せ!」
「先程も言っただろ。途中でやめることができると考えているのか、と。あまり失望させないでくれ、ガルムくん。こちらは期待しているのだよ。彼とは違って君にはね」
「ッ!」
もう我慢の限界だ。
僕は地を蹴ってルシエルに近づくと全力で剣を振る。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
あの魔術陣を出すこともせず、ルシエルは容易く斬られるが感触は少ない。その感覚は間違いではなく、場に残っているのは二つに分かれた黒いローブのみであった。
「やれやれ、相手を間違っているのではないか?」
「どこだ! どこにいる!」
声は聞こえるが姿は見当たらない。周りをいくら探してもルシエルらしき人物はいない。時間の経過とともに感情は昂り、僕はそれを解消するように落ちたローブを切り裂いた。
「クソッ!」
「そうだ、最後に一つだけ言っておこう。彼は自分の望みを叶えるために自ら試練に挑んだ。その結果がアレだ。全てを憎む失敗作になってしまった彼の気持ちを少しでも汲む気があるのなら、他の誰でもない君が彼を倒すべきだろう」
その言葉の終わりとともに、木々や花々が突然吹き荒れた強い風によって揺れる。それを最後に、ルシエルの声すら聞こえなくなった。どうやら本当に、この場を後にしてしまったようだ。
「アァァァァッ」
「…………わかった。望みを叶えてあげるよ」
アイツの指示に従うのは癪だが、もう元に戻れないのなら、僕がここで引導を渡す。それが僕を相手に選んだ彼の望みであり、暴走する彼から皆を守りたい自身の望みであるから。
ふと、空を見上げる。今夜もまた星々は暗闇から僕らを守るように、優しい光で世界を照らしていた。だが、その行為に哀れみを、その行為自体に憤りを感じる。
だって、丸ごとすべて、世界はこんなにも赤くて、とても不快なのだから。
魔人はルシエルの時と同様に一直線で僕に迫る。その思考の単純さを嘲笑いながら、濁流のように押し寄せるイメージとチカラを手に持つ剣に注ぐ。
手元から黒に染まっていく剣が満ちた時、魔人と僕はお互いに殺せる範囲に入った。振るわれた黒い爪と黒い剣は引き合うように接触を果たす。ガキンと甲高い音と手に伝わる振動、それに僕は素直に驚く。今までの敵と違ってバターのように簡単に切り裂くことが叶わなかったからだ。
「ガガガガガガガガガ!」
奇声を発する敵の繰り出す連撃に合わせて剣を振るう。嵐のようなその動作に周辺の花々は大きく揺れ、その身を散らす。空中で花びらが舞うのを視界の隅で捉えながら、僕はこのまま続けても埒が明かないと剣から片手を離し、魔人にその手を向けた。
アイツにできるのなら、僕にだってできるはずだ。
ルシエルを真似るように、僕は記憶していたヤツの魔術陣を展開する。その動作はまるで最初から自分のモノだったかのようにスムーズに行われ、黒い魔術陣は敵をあっさり弾いた。
「とどめた!」
僕はすぐさま転がる敵の元に走る。隙だらけの状態、この絶好のチャンスを逃さないと、急ぐように剣を振るった。
一閃。
だが、肉を裂く感触はない。それどころか手に持つ剣の重さすら感じられない。
「え」
その異常な状態に、僕は自然と声が出た。目の前にはこちらを見るアレクサンドロス。彼が上げた異質な腕、手、爪には赤い世界でも認識できる紅いナニカが付着していた。
ああ……そうか。あまりにもこれは、不注意な行動だった。
前腕が酷く熱い。現実を受け入れるために僕はその部分を見た。
「あ……あぁぁぁぁぁぁッ!」
一目見た瞬間、冷めていた感情は突如として爆発する。
無い。手が無い。有るはずの右手がそこには存在していなかった。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁよくもよくもよくもよくも!」
元が誰なのか判別できなくなった敵の顔に蹴りを入れ、そのまま腹を抉るように踏みつけた。悲鳴を上げる敵。元は人間で知人だった敵。だが、僕は攻撃の手を止めない。何度も何度も足を勢いよく下ろす。
怒りのあまり踏む。湧き上がるチカラに動かされるように踏む。守るために踏む。未だ痛覚が無い自分自身に恐怖しながら踏む。踏む、踏む、踏む、ひたすら踏む。
以上に硬かった表面も攻撃を繰り返す内に砕け、僕の足は内部に侵入し柔らかい体内を蹂躙した。暴れる敵を左手でいなし、何もかもをぶつけるように攻撃し続けた。
「はぁ……はぁ……」
「ガ…………ガ……」
荒れる息を整えるために、僕は足を動かすのを止める。魔人はまだ生きているようだが、その周辺を大量の肉と血で汚していた。
アレクサンドロスは虫の息で、あと少しでも彼を痛めつければ命を奪うことができるだろう。
「あはは……はははは」
僕は自然と笑いが零れる。どうしても抑えきれなくなって笑う。
世界が赤い時、いつも僕は全ての敵が憎かった。だから憎い敵を倒すと、全身に快楽が押し寄せた。愉しい、嬉しい、自分の望みが叶っていく喜びが僕を優しく包んでくれた。
だが、だというのに。
「ははっ……どうして……こんな……うっ」
歓喜と悲哀が混ざり合い、気持ち悪い。相反する二つの感情のせめぎ合いに僕は堪らず嘔吐した。感情の暴走、その暴力が僕の心をズタズタにする。
「あぁ……なんで……なんで……」
今の状況が信じられない。信じたくない。全てが嘘であってほしい。
ふと、ルシエルの姿が頭に浮かぶ。僕は感情の手綱を掴むために、ヤツのことを思った。
「絶対…………絶対許さない……この手で殺して、やる……ッ!」
怒りで自分を塗り潰そうと努力する。そのおかげで幾分か気持ち悪さを抑えることができたが、その安堵も束の間、僕は自分の足から異質なチカラの流れを感じ、すぐさま下を向いた。それは未だ彼の体内に入っていた足のほうだった。
「なんだ……これ?」
いつの間にかアレクサンドロスの身体に黒い紋様が浮かび上がっていた。それはウネウネと忙しく動き、僕の足に集まってくると虫が木を登るようにこちらに移動してくる。
それに言い知れない不安感を覚えた僕は、慌てて足を引き抜こうとするが何故か微動だにしない。自分の意思とは無関係に、身体は動くことを拒否していた。
「どうし――」
突然ソレが一気に体内に流れ込み、視界は一転真っ白になる。そのチカラの波に抗うことはできず、僕の意識はそのまま飲まれるのだった。