十三話
「はぁはぁ……良かった……」
呼吸を整えることもせず僕はカーテンの隙間から医務室を覗き、アンジェの姿を確認するとホッと胸を撫で下ろした。どうやら僕が恐れていた事態にはならなかったようだ。
見える範囲には目を閉じ眠っている彼女しかいない。だが、廊下に出るドアと異なるもう片方の扉の隙間から光が漏れている。おそらくナナティ先生が作業か何かをしているのだろう。
「ははは……これなら僕が来なくても……よかった、かな……」
顔を地面に向けて僕は苦笑いをする。
アグルカ先輩にも注意されたのに、僕はそれを無視してここまで来てしまった。帰ったら先輩にみっちり怒られてしまうだろう。
新たな心配事とここまで全力で走ってきた疲れが一気に僕の身体にのしかかってくるが、安堵がそれを凌駕する。
ああ……ほんと、よかった。アンジェが無事でよかった……。
僕は鞘から剣を抜く。先程まで無かった背後からピリピリと感じる威圧に覚えがあった。それもつい最近。背筋が凍るようなその気配を。
「まだ僕の言葉がわかるなら聞いてほしい。……場所を変えよう。ここで争いたくない」
「…………」
振り返り視線の元を探ろうとするが、夜の世界に紛れるようにソレの姿も声も知覚できない。だが、未だ襲ってこないということがその答えなのだろう。
僕は一度医務室のほうを見て、それからすぐに移動を開始する。
僕とソレしか介入できない場所、学院の外を目指した。
木々の中にポツンと穴が開いたように広がる花畑、星々の輝きを吸って仄かに光るこの花は夜光草と言われ、薬の材料や塗料として使われていた。
学院の外、少し離れた場所にあるここに僕はやってきた。美しい光景、そして木々で隠れていることもあってか、時折カップルがここを訪れるようだが、幸いにも今夜は誰もいないようだった。
ここなら、大丈夫だろう。
「さぁ、出てこい! 君が誰なのかもう僕はわかっている!」
僕の呼びかけを待っていたかのように、黒い影が木々の間から飛び出し花畑に現れる。光る花片を空に散らしながら出現したソレは、今日僕を襲ったあの姿のままだった。
「ガルムゥゥ!」
「…………そうか、本当に君だったんだね」
唸るような低い声だが、判別できる。
――――アレクサンドロス。
信じたくないが、僕の記憶している彼の声が目の前にいるモノが本物だと告げていた。
「でも、僕にはわからないよ。なんで君が僕を襲う必要があるんだ?」
彼と僕との接点はあまりにも少ない。思い当たることといえばアンジェ絡みのことであるが、ケットを除外し僕だけが執拗に狙われるのはおかしい。
「ガルムゥゥゥゥゥゥゥゥ!」
咆哮とともにこちら目がけて突撃してくる彼、その勢いを乗せて突き出された拳は空を切るが、その場所は数秒前に僕の顔があった場所だった。
……どうやら、質問に答えるつもりはないようだ。
「なんにせよ、僕は君とは戦いたくない。戦う理由がない」
「グワァァァァァァァ!」
「ウッ!」
脇腹に鈍い痛みが走る。涙で視界が曇るが、それを我慢して痛みの原因を起こした彼の足をその左脇で挟んだ。
「よく聞け! 君は成りかけているんだ! だから僕と一緒に学院に帰ろう! そうすれば」
「――――そうすれば、途中でやめることができると考えているのか? はっ、面白い冗談だ」
「え」
突然降り注いだ新たな声に、僕は意識を向ける。その声に僕は聞き覚えがある。忘れはしない、死にかけた時に届いた、幻聴だと一時は考えたあの声、それが今、ハッキリと僕の耳が捉えたのだ。
「やぁやぁ、この眼で観察した限りではとても元気なようで何よりだ。だけども」
頬に受けた衝撃で僕は身体を仰け反らせる。
「おー痛い。こっちに意識を向けるのはいいが、彼の相手を疎かにするのはどうかと思うがね」
「アァァァァァァァ!」
叫びながら再び僕に攻撃しようとするアレクサンドロス。それを回避するために彼の足を離して大きく後退し、胸に渦巻く不安を精一杯吐き出した。
「お前が! お前が彼をこうしたのか! 僕と同じように!」
「はははっ、そうだとも! アレクサンドロスくん、だったかな? ガルムくん、君と同じように試練に挑んでもらった!」
「試練? ふざけるな!」
距離を再度縮ませる彼に僕は全力で蹴りを浴びせると、彼の身体は大きく吹き飛び、花畑を荒らした。
「解せないな。一体何を怒っているんだ? もしかして、君たちの名前を知っていることに不公平を感じているのか? ならそれを解消しよう。我が名はルシエル。そう、ルシエルだ。覚えておいてくれたまえ」
そこに最初からいたかのように黒いローブ姿の人物――ルシエルは、僕から少し離れた場所、ちょうど倒れる彼と僕の真ん中の位置に突如として現れた。
「名前なんてどうでもいい! どうして僕たちにこんな……ッ!」
視界はまだ赤く染まっていないが、感じる。身体の奥からフツフツと湧き上がってきたこの力を。
殺意を込めて僕はルシエルを睨む。だが、それを意に返さず、ルシエルはお道化るように両手を上げて肩を竦めた。
「どうして? ……ふむ。まぁ、ガルムくんには強制的にやったことではあるから一応謝る必要があるか。すまない、許してくれ。だが、そのおかげで失敗作を倒せただろう?」
「失敗作? ……もしかしてアレも」
アンジェを痛めつけた魔物、学院の近くだというのに生息していた強大な敵、それを『作った』のもコイツだというのか。
「それにしても、崩れることなく一振りで失敗作を倒した時は素直に感心させられたよ。ガルムくん、君は本当に」
「うるさい! 僕の質問に答えろ!」
握っている剣をルシエルに突きつける。今この間にも心臓の高鳴りとともに力が全身に伝わっていく。
「わかったわかった、ちゃんと答えよう。アレがああなった起因は確かにそうだ。だが別に彼? 彼女? まぁ、いい。あの魔物があんな風になったのはただの能力不足でしかない。そう、彼もそうだ」
ルシエルが指差した先、そこにはアレクサンドロスがいた。だが
「な、なんだ…………これ……?」
僕はその光景が信じられないと目を大きく見開いた。
「ガ……ガ……ガル……ム……」
彼が纏っていた黒い霧が晴れていき、それと同時にメキメキと奇妙な音がし始める。骨が悲鳴のように軋みを上げ、筋肉が空気を入れた袋のように膨張していく。そんな、凡そ人が出してはいけない音が辺りに鳴り響いた。
か細く僕の名前を口にするアレクサンドロス。彼、いや既に人間であることを捨てたソイツは、その赤く染まった目でこちらを見る。瞳を憎悪で満たしながら。