始まりは突然に その2
とは言ったが、それは“考えられるとしたら”である。そもそもの大前提として、まだここが異世界だと決まったわけじゃない。このシチュエーションだと異世界転移系が多い、という二次創作のお約束だというだけのことだ。現実的に考えれば、むしろここが地球の可能性の方が高いだろう。転移したことは事実だが、あるかどうかも分からない異世界に転移してしまったという方がおかしいのだ。世界線はそう簡単には越えられないって、どこかのアニメのキャラが言ってた気がするしな。
しかし、逆に“考えられるとしたら”ここが異世界だという可能性もあるというわけだ。だがそれは俺にとって非常過ぎる程に困る。何故なのか、それは異世界転移系のテンプレシチュエーションを知っている人ならすぐに思い浮かぶことだ。
剣と魔法の世界。それが今考えられる中で一番“最悪”な可能性であることは間違いない。
剣と魔法、この二つが揃っていれば、あとは大体想像できる。
“魔物”、“モンスター”、“怪物”。剣と魔法の世界とは切っても切れない関係の存在、つまりは“地球の常識には当てはまらない化け物”がいるということ、これが最悪の可能性である。
物語であれば、異世界転移をした時や化け物に襲われた時なんかの拍子に主人公の能力が覚醒したりするし、そうじゃなくても通りすがりの誰かが助けてくれたりする。
だがそれはあくまでも物語である。物語のようなことが起きたからと言って、物語のように物事が進む保証なんてどこにもないのだ。
そう、ここが本当に異世界だとして、本当に化け物に襲われたとして、何かが起きて覚醒したり、誰かが来て助けてくれる保証なんて…………どこにも、ないのだ。
「……………………うぇっ…!」
何かがこみ上がってくる感覚を、口を押さえることで必死にこらえる。
気持ち悪い。口元が震える。違う、押さえている手が震えている。
そう思ったのだが、それも違った。手だけじゃない、手が、足が、全身が震えているのだ。
さっきまではどこか達観した様子で考察を続けていた。まるで他人事のように考えていた。あまりにも唐突過ぎて、現実味が感じられなかったからだ。
だけど、もう違う。ゆっくり状況を確認していって、少しずつ現実味を帯びてきた結果、今のこの状況がどれだけのものであるのかを、遅効性の毒のようにじわじわと感じ初めた。
頭がクラクラする。目の前が霞んでいく。耳鳴りが聴こえる。治まってきたはずだったさっきまでの症状が、更に酷くなって再び襲いかかってくる。
いつでも最悪の可能性を考えておく必要があると、どこかで聴いたことがある。今回のこの状況についての最悪の可能性、それはまるで底無し沼のように終わりの見えない深い闇であった。
最悪の上に最悪が積み重ねられていく。思考の渦から逃げ出したいと叫ぶ頭が、それでもなお考えることをやめずに更に深い渦の底へと沈んでいく。
最悪の事態とはなにか?
魔物に殺されて食われること?
殺人鬼に少しずつ切り刻まれること?
労働奴隷として一生を終えること?
密入国者として拷問されること?
異界人として人体実験を受け続けること?
──もう、考えたくない。
「……うっ…ぐぅぅ………うぅ……」
涙が流れる。“僕”は元来強い人間ではないのだ。何かとビビってしまうような、肝の小さな男なのだ。こんなことが起きて、最悪の可能性を考えて、それが嫌だと泣きじゃくる。パンク寸前だった脆い風船は、少し小突いた程度で簡単に破裂した。
「だっ…誰かっ……たすっ…けて……」
心が折れてしまった。もうすでに何度も折れていて、折れやすくなっていた心が、希望をへし折るかの如く、ポキリと、異常に軽い音を立てて。
それから何時間経っただろうか。随分と長い間泣いていたような気がする。いや、まだ涙は止まっていない。泣いて勝手に落ち着いてきただけだ。
喜怒哀楽、人の感情とは時に心身の調整に使われたりする。泣くというのもその一つで、哀しみのストレスが溜まった時にそれを発散させる目的で涙が流れたりするのだ。一通り泣いて落ち着くのは、ストレスがなくなり脳に余裕ができるからである。
ボヤッと焦点の合わない目で虚空を見つめる。そこに答えがあるわけではなく、ただの無意識下の行動だ。
時間だけが過ぎていく。ふと気がつくと、手元にあった木陰が微量しか動いていないことを発見した。長いこと泣いていたと思っていたが、それほど時間は経っていないのかもしれない。そんなようなことを、ただボンヤリと考えていた。
だからそれが聴こえたのは、当たり前のことだった。
「はー………さ…ん…こち……すよぉー………」
「っ!!」
ガバッ!と、勢いよく頭を上げる。今のはなんだ?何か声のようなものが聴こえなかったか?どこからだ?一体どこから誰の声が聴こえたんだ!?
涙で腫れた目を見開いて、充血した瞳で文字通り血眼になってギョロギョロと辺りを見渡す。だがさっき見た通り、そこにはただ草と木の世界が広がっているだけで、人どころか動物の気配すら感じられない。