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第五話

 王子、じゃなくてカナンを浴場まで案内していたノアが帰ってくるころには、すっかり日も沈んでいた。あっという間の一日だったような気がする。窓から入り込んだ初冬の風が冷たい。むろんこの部屋には王宮にあるような暖炉はなく、冬場は寒い思いで夜を越すことになる。


 「そういえば、王子は滅多に民衆の前に現れなかったから、みんな顔が解らないわけだしここを普通に歩いていてもなんも問題なかったのよね。どっかの倉庫に押し込んどこうかと思ったけど、普通に修道院の新しい仲間ですって事にしても良さそう」


 小さな明かりの下、ノアは椅子に足を伸ばして座っていた。今日だけでも朝の務めをサボタージュする、聖堂を抜け出す、嘘を吐いて城に向かう、図書館を散らかす、王子に暴言を吐くなどと清らかな修道女にあるまじき行為を繰り返してきたノアだが、やはり疲れたのだろう。そんなノアに追い打ちをかけるようだが、どうしても聞いておかなければならないことがあった。


 「……カナンって、名付けたのはノア?」


 きょとんとしたあと、ノアはこくりと頷いた。


 「聖書じゃあ、『ノアの方舟』のノアは自分の孫にあたるカナンを呪ってるんだ。それもカナンの子孫は奴隷になると、聖人ノアは予言している。失墜したとはいえ奴隷の名を名付けるなんてノア……」

 「創世記の9章18節ね、それ」


 黙って僕の話を聞いていたノアは、満足そうに笑った。そんなの僕でも覚えていないってのに、と僕は絶句してしまう。あのアホノアの口から創世記だの18節だのと言う言葉が飛び出してくるとは思わなかった。しかしそんな僕を置いてけぼりにして、ノアは語りだす。


 「創世記9章18節。『箱舟から出たノアの子らはセム、ハム、ヤペテであった。ハムはカナンの父である。 この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである。 さてノアは農夫となり、ぶどう畑をつくり始めたが、彼はぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた。 カナンの父ハムは父の裸を見て、外にいるふたりの兄弟に告げた。

セムとヤペテとは着物を取って、肩にかけ、うしろ向きに歩み寄って、父の裸をおおい、顔をそむけて父の裸を見なかった。やがてノアは酔いがさめて、末の子が彼にした事を知ったとき、彼は言った、「カナンは呪われよ。彼はしもべのしもべとなって、その兄弟たちに仕える」。神はヤペテを大いならしめ、セムの天幕に彼を住まわせられるように。カナンはそのしもべとなれ」。 また言った、「セムの神、主はほむべきかな、カナンはそのしもべとなれ」』さて、この聖句って不可解よね」

 「……ノアの方舟だろ。有名じゃないか」

 「なんで? 処女神アルテミスでもあるまいし、同性の男に裸見られたくらいで人呪わないでしょ、フツー」


 ノアが話している内容は3割も理解できない僕が悔しい。アホノアのあだ名は撤回、怖いくらいに語るノアは僕が昔勉強を教わっていた教師に似ていた。ぽかんと口を開けている僕だが、その聖句は知っている。ノアっていう名前のおじさんがぶどう酒飲んで裸で寝てたら、息子に見られたから息子を呪いましたっていう話だ。確かにノアが言う通り、裸を見たくらいで呪われるなんて理不尽である。


 「創世記に記されているノアの方舟には、こう書いてあるわね。『神は地上に増えた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノアに告げ、ノアに箱舟の建設を命じた。』と。神と共に歩んだ正しい人であるノアが、ぶどう酒飲んで酔っ払って裸で寝てる訳ないじゃない」

 「いや、人間って何するかわかんないからなぁ……お酒飲むと人が変わるのもいるし」

 「あのねえ先生、聖人ノアは神と共に歩んだ正しい人なの! ただの人間と一緒にしないでよね」


 びしっ、と僕を指さすノアの瞳は、まるで酒場とか市場に居る、恋する少女みたいで。あれもしかして、こう見えてノアってすごく純粋な信仰心の持ち主だったり……


 「だからきっと、あれだわあれ。ノアの息子ハムが、意図的に毒を盛ったのね。睡眠薬とかそういう類の。それで父を殺し、衣服を奪い父に成りすまして立場を奪ったの。諸説あるけど、あたしはこれを信じてる」

 「でもなぜハムは父を殺す必要があったんだよ」

 「ノアの方舟に乗ったのは、ノア、その妻、セム、ハム、ヤペテ、そして3兄弟の妻3人って書いてあったでしょ。ハムの父はノアだけど、母はヘムとヤペテとは違うの。聖書では一夫多妻も悪とされてなかったのね。よって、ハムの母親は方舟に乗らなかったことになる」

 「方舟に乗らない……って事は、それ」

 「死んだんだよ。だから、母を方舟に乗せなかった父を恨んでも仕方がないんだ」


 愛ってのは時に憎しみに代わってしまうの、家族が絡めば尚更にね。あたしも解る気がしたから。そうノアは言い残した。

 ノアには家族が居ない。家族と呼べる存在が欲しくてそんな名づけをしたのかもしれない。それでも奴隷の名前を付けるのは酷だが、微妙に納得してしまいそうだ。


 「この話、どこかヴァンスに通じるんだよね」


 最後に小さくつぶやいたノアの声には、悲壮的な色があった。そうだ、ヴァンス。王子の死を偽装するという悪に手を染めたのは、父の死が少なからず関係していそうで、ノアも完全なる他人ではない。ヴァンスが命令すれば、ノアなんて簡単に消せる。そのプレッシャーの中毎日生き抜いているノアはやはり只者ではない。


 「……よって、話を聞かずに否定することは神の教えに反します。悔い改めよ、せんせい」


 かっと頭に血が上り、次に恥ずかしくて赤面しそうになった。同い年とはいえ生徒に「悔い改めよ」などと言われてしまった。ぱちりとウィンクして微笑むノアに気の抜けた返事をした後、お互いに聖書考察にも飽きてしまったので、僕らはくだらない王宮話に小さな花を咲かせることになった。


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