霧の中の来訪者
とある街の一角では、ある一団が食事をしていた。並べられた料理を手に取り、食す彼ら。実際に食事を食べるわけではないが、そうすることにより満腹中枢が刺激され、あたかも実際に食べているかのように感じる。当然、この世界の住民はそれが普通の食事だと認識している。
だが、その一団のとある人物だけは、決して食べようとしなかった。
「――シグマ、いつもお前食べないよな。腹減らないのか?」
パンをかじりながら、ジールはシグマに訊ねた。シグマは椅子に座りながら目を瞑っていた。
「ああ。別にいいんだよ」
「そうか? でも、食べないといざという時に力が出ないぞ?」
「それも大丈夫だ。気にするな」
シグマにとって、それは食事の真似事でしかない。この世界がバーチャルと知る彼にとって、そのようなことは実にくだらないものだった。そんなことをする必要はない。だが、この世界が現実だと考えるジール達は違う。その真似事をしなければ、空腹を感じる。だからこそ、シグマは何も言わずに皆が食事を終えるのを待っていた。
それにしても、彼の中には少し微妙な空気が流れる。それは、とある人物が一団に入ってから始まった。その空気は全員が感じていたものであるが、敢えて言う者もいなかった。だがここで、その空気に耐え切れなくなったジールが、当事者に話を振った。
「……あのさ、クロエ」
その人物はクロエだった。彼女は黙々と食事をしながら、視線を合わせることなく答える。
「……なんですか?」
どこか威圧感のある口調だった。さすがのジールもそれにはたじろぐ。だが、それでも彼は、果敢に続けた。
「いや……なんか、怒ってね?」
「そんなことないですよ……」
一応否定はしたが、やはりクロエの口調は重かった。
(スンゲエ怒ってるよな……)
ジールは、今度はもう一人の当事者に話を振る。
「……アリサ、この飯、美味いよな?」
もう一人の当事者――アリサもまた、食事をしながら冷静に答える。
「ええ、そうね……」
その言葉以外、彼女の言葉はない。空気は再び、殺伐としたものに変わる。
アリサは、黎明の光と行動を共にしてた。シグマが旅団の面々に頼み込んでのことだった。それはニコルとの約束でもあり、自分のためでもあること。普段全く頼みごとをしないシグマがそこまでしてきたこともあり、誰も文句一つ言わなかった。
だが、そこから明らかにクロエの様子は変わった。シグマとアリサが会話をしようものなら、常に恨めしそうな目で二人を見ていた。当然、その視線にアリサも気付く。アリサとしても、そんなクロエの視線はいい気分にはならないものだったのは言うまでもない。元々の負けず嫌いな性格もあって、度々クロエに文句を言った。だが、その度にクロエはアリサに言い返していた。それには、シグマ達も驚いた。普段の彼女からでは想像すらつかないクロエが言い返す状況……それを目の当たりにしたシグマとジールは、ただ宥めることしか出来なかった。
そんなことが度々あったこともあり、旅団の雰囲気は、すっかり重いものになっていた。
ジールは、二人に気付かれないようにシグマに耳打ちする。
「なあ、この二人って、こんなに相性悪いのか?」
「俺が知るかよ。でも、クロエがここまで敵意を出すなんて思わなかったな……」
「そうだよなぁ……って、他人事みたいに言うなよ。お前、がっつり関係者じゃねえかよ」
「はあ? 何で俺が?」
「……お前、本気で言ってる?」
「何がだよ」
「……いや、もういい……はあ……」
ジールは深々と溜め息を吐く。シグマにはその理由が分からなかったが、なんだか小馬鹿にされた気分になっていた。二人の会話を横目で見ていたフルールは、静かに呟いた。
「……鈍感」
◆ ◆ ◆
シグマ達が目指すのは、オーブエスタードの拠点施設。目的は、そこにいるであろうバジリウスに会うこと。アリサは一応オーブエスタード一員ではあるが、彼女は転移アイテムを持っていなかった。故に、そこまでは徒歩で行くこととなった。
しかし、シグマの中ではそれだけが目的ではない。パンドラによる汚染があればそれを浄化し、加えてSSSモンスターの情報も集めていた。しかし、ここまでSSSモンスターの情報は何一つ得られていない。無論、エリアのレベル設定として、その近辺ではそんなモンスターは出るわけもなく、知らなくて当然ではある。だが、奇妙な点もある。遠方の地にいたとしても、少しくらいは噂程度の話があってもおかしくはないだろう。それが全くないことに、シグマは首を傾げるばかりだった。
それでも、いずれはSSSモンスターも狩らなければならない。それが、彼がこの世界に来た理由でもある。変わりゆく仮初の世界を終わらせなければ、この世界に囚われた人々――亜梨紗を解放出来ない。今は隣にアリサの現身もいる。シグマの決意は、俄然強くなっていた。
空が徐々に暗くなってきたころ、ふと彼らは気付いた。彼らの辺りに、徐々に霧が立ち込め始めた。それはみるみる濃くなり、やがて視界をほとんど遮るものとなった。
あまりの霧の濃さに、シグマ達は足を止めた。周囲を見渡すが、景色はおろか、数メートル先の道も見えない。
「これは……まいったな……」
ジールは頭をかきながら周囲を見渡していた。クロエもまた周囲を見渡しながら呟いた。
「これじゃ、道が分からなくなりますね」
「そうだな。明日になれば霧も晴れるだろうけど……シグマ、どうする?」
辺りの状況を見たシグマは、溜め息交じりに声を出す。
「……しょうがないだろうな。今日は、ここで休もう」
シグマの言葉で、その日はそこでキャンプをすることになった。
◆ ◆ ◆
一団は、フルールが魔法で起こした焚火を囲む。それはエフェクトでしかない炎だったが、温もりを感じることが出来る。ユラユラと揺れる炎を見ながら、シグマは不思議な気持ちになっていた。映像でしかない炎だが、こうして見ているとまるで本物のように見えて落ち着いてくる。しかし、やはりそれは映像でしかない。そんな矛盾する二つの思考が、彼の脳裏を周っていた。
それは彼の中の葛藤なのかもしれない。この世界は、彼が初めて足を踏み入れた時は変わってしまった。最初はただのゲームであることがしっかりと認識できた。だが、国ができ、疲労や痛みまで感じるようになり、パンドラに汚染されたプレイヤー、または汚染された何かによって消滅したプレイヤーは、二度と復活することなく光に変わった。特に、以前ニコルが言っていた、光になることも出来ず動かないプレイヤーという話。それはつまり、死を意味するのではないだろうか。つまり、この世界は急速に現実として更に生まれ変わりつつあった。まるで誰かが焦りそうしているかのように、猛烈な勢いで世界は動いている。それこそ、シグマが時折現実以上の現実に感じてしまうくらいに。
「――ねえ、シグマ」
突然、思考に耽っていたシグマに、アリサが声をかけた。シグマが振り返ると、神妙な顔つきでアリサが彼を見ていた。
「今更だけど、バジリウス様に会ってどうするつもりなの?」
この時、アリサが言った言葉……バジリウス“様”。シグマはどうしても違和感を感じてしまう。もちろん、彼はこの世界で国を謳う超規模旅団の団長であり、それに属するアリサとしては当然の敬称であるだろう。だが、やはりシグマの中では、バジリウスと言えども“ただのプレイヤー”でしかない。それを様付けで呼ぶアリサに、どこか悲哀を感じてしまっていた。
だが、それをアリサに言ったところで理解はされないだろう。それを分かっているシグマは、特にそのことを言うこともなく、アリサの問いに答える。
「……ちょっとな、確かめたいことがあるんだよ」
「確かめたいこと? 何?」
「いや、たぶんアリサに言っても分からないことだ」
「何よそれ……いいから言ってよ」
「そうだな……強いて言えば、どこまで世界が見えているか、だろうな」
「世界を見る?」
「この世界の表と裏、その両方が、どれだけ見えているかを確かめたいんだよ。まあ正直、あまり期待はしていない。……ただ、この世界の長を自称する輩が、どこまで知っているのかが知りたいんだ。それは俺の口で言って、俺の耳で聞きたい――ただそれだけの話だ」
「……よく分からないんだけど」
「そうだろうな。でも、俺にとっては重要なことなんだ」
「そう、なんだ……」
その二人のやり取りを、横目で見る人物がいた。――クロエだ。彼女の心はざわついていた。アリサが同行して以来、シグマはどこかアリサを特別扱いしているように感じていた。もちろん、シグマがアリサに何かしらの感情を抱いていることは分かっていた。だが、やはりこうしてそれを目の当たりにすると、どうしても心が軋む。
それは、おそらく嫉妬と呼べるものであろう。彼女自身、そう感じていた。だからこそ、そんな感情を抱く自分が、とても醜くて、とても矮小に思えていた。
「――大丈夫か?」
突然、ジールがクロエに声を掛けた。予期せぬ言葉に、クロエは慌てた。
「え? え? 何がですか?」
「ああ、別にいいって。……そうだよな、やっぱ複雑だよな……」
ジールは、自分が抱えている想いに気付いている。そう理解したクロエは、誤魔化すことを止めた。
「……はい」
「気持ちはスゲエ分かるんだよ。これまで、一番長く一緒に行動してきたはクロエだしな。――でもな、それでクロエが引くことはないと思う」
「え?」
「自分の中にある想いに素直になれってことだよ。じゃないと、それはいつまでも棘になって、クロエの心を刺し続けるぞ。その気持ちは、絶対に恥ずかしいことじゃないし、隠してしまうものでもない。
――本当に辛いのは、それを伝えることなく押し殺すことなんだよ……」
そこで、ジールは少し浮かない顔をした。それはクロエにとって、初めて見る顔だった。彼は、何を思っているのだろうか――それは、クロエには分からなかった。ここで、ジールはハッと気づく。
「――あ、悪い! つい辛気クサい話になっちまったな……」
「い、いえ……そんなことは――」
「―――誰か、来た」
クロエが取り繕おうとしていると、突然フルールが立ち上がりそう呟く。そしてそのまま、霧の奥を見ていた。
「……え?」
クロエはそれに気付き、フルールと同じように立ち上がって彼女が見つめる視線の先に目をやる。それに気付いた他の面々も、同じく立ち上がり霧の奥に視線を注いだ。
その視線の先では、確かに誰かの足音が聞こえる。シグマ達は、少し身構える。そしてシグマは、静かに足音に向け声をかけた。
「……誰だ?」
その声に相手は答えることはない。だが、若干霧は薄れていて、徐々にその姿がシグマ達の眼に映り始めた。
「――お前が、シグマとかいう奴か?」
その人物は、突然シグマにそう話してきた。その人物を見たジールは、驚愕する。
「あ、アンタは……!!」
「ん? ジール、知ってるのか?」
「知ってるも何も!! だって、コイツは……!!」
その者、銀色の髪を靡かせ、白の服装で固められた青年。その風貌は、どこかシグマと似ている。……そう、彼は―――
「俺はカイト……ナイツオブラウンド、第三席に座る者だ。シグマ……お前の力、試させてもらう――!!」
カイトは突然剣を構えた。
「―――ッ!?」
動揺するシグマ達を他所に、そのままカイトは駆け出す。白い霧をかき分けるように、白の来訪者はシグマに斬りかかった。




