レベル1
瞼を閉じる真輝は不思議な感覚に包まれていた。体が上下前後左右にゆらゆらと揺れるような感覚。波に揺られるような、揺り篭に眠るような……とても心地よい、安らげる感覚だった。
――ようこそ、ナイツオブエデンの世界へ――
感覚に身を委ねていた真輝の耳に、優しい女性の声が響いた。その声を聞いた真輝は、ゆっくりと瞳を開ける。
そこは、周囲が青い壁に包まれた空間だった。壁の中には白い光の筋がいくつも走り、音のない、静かな空間だった。
――まず、貴方の名前を教えてください――
声は、真輝に名を訊ねる。
(初期設定か……)
真輝は、ある程度このKOEの始まり方、進め方、知識を知っていた。それは何度も亜梨沙から聞いていたものだった。少しでも真輝に興味を持ってもらおうと、亜梨紗はKOEがいかに楽しいものかを常日頃話していた。無論、真輝は聞き流していたが、この日ばかりはそんな亜梨紗に感謝していた。そのおかげで、こうしてイベントのことを把握出来ているからだ。
そして亜梨紗は、彼のプレイヤーネームまで考えてくれていた。使うことはないと思っていた真輝は、少しだけ思い出し笑いを浮かべ、はっきりとその名を告げる。
「――シグマ。俺の名前は、シグマだ」
シグマ――その由来は実に単純だった。紫雨真輝、その名前を省略し、シグマと名付けていた。そこには真輝の想いが込められていた。広いKOEの世界でもし亜梨紗に会うことが出来た時、この名前を見て何かを思い出してほしい……そんな淡い希望を、真輝は持っていた。
(さて、これからジョブ選択か……)
名前を決めた後はジョブの選択に入る。KOEには多数のジョブが存在する。基本ジョブから上級ジョブ、特殊ジョブまで多彩にあり、それぞれのジョブによりジョブランクが上がった際に伸びるステータスは違う。そして当然、覚えるスキルも変わってくる。多数のジョブを幅広く伸ばすもよし、一つのジョブだけを極めるもよし。プレイヤーは、好きにキャラクターを育てることが出来る。
――シグマ、ですね? それでは……ザザザ……――
声は突然途切れた。電子の砂嵐のような音が響き、何も聞こえない。
「……何だ?」
――ジョブを……ザザ……それ……ザザ……いい……――
砂嵐と言葉の欠片が入り混じった音が響き渡る。もはや何と言ってるのか分からなかった。真輝には、これが美沙の施した“チート”の影響であることが何となく分かった。最初から最強のプレイヤーにすると言った美沙によるものであることは、簡単に予想できた。
――………では、貴方をKOEの世界に案内します。ご武運を、シグマ――
しばらくの沈黙の後、案内の声は終わりを告げる。面倒な会話をショートカットしたかのようだった。
そして世界に光が満ちてくる。その光はたちまち真輝――シグマの周囲を包み込み、やがて白い世界に染められた。
◆ ◆ ◆
光が収まった後にシグマの視界に映ったのは、広大な緑の丘だった。シグマはその壮大な景色にしばし心を奪われていた。
短い鮮やかな緑色の草が伸びる大地はどこまでも広がり、遥か先には山が薄い雲が被さってぼやけて見えていた。空はひたすらに青く、大きな雲が所々に浮かんでいる。丘の先には街があり、遠巻きに小さな人のような粒がゆっくりと動いていた。
ふと自分が日陰にいることに気付き、シグマは後方を振り返る。するとそこには、大きな一本の大樹が聳え立っていた。とても太い幹を段々と見上げていけば、まるで天井のような緑色の傘が風に揺らされ優しくざわついていた。そしてその隙間からは暖かい木漏れ日がシグマの体を点々と照らし、光は揺れるように形を変えていた。
「オリジンの大樹……」
目の前に映るとても巨大な木を見上げながら、シグマはその名を呟く。
オリジンの大樹とは始まりの場所。最初にKOEを始めた時、プレイヤーはこの場所に立つ。この大樹の袂に立ち、広大なフィールドを目の当たりにし、この世界の素晴らしさを実感するのだ。本来であれば、この場所はたくさんの人がいる。日々新規プレイヤーが現れていたKOEでは、この場所で初心者同士が挨拶をして、時には協力し合い冒険を進めていく。
……しかし、当然ながらKOEを新たに始めるプレイヤーはいない。それは運営会社が新規に始める手続きをシャットアウトしていたからだ。永遠に覚めることのない物語を好んで始めようとする人が必ず現れると予想した会社は、これ以上犠牲者が出ないように手続きをしていた。シグマがダイブ出来たのは開発者である美沙が力を貸したからであって、通常は一切入ることが出来なくなっていた。
「……さすがに、こんな場所で一人ってのは寂しいな」
ふとシグマはぼやく。周囲には気持ちいい風が流れ、風の音だけが響いていた。しかし、それは逆に言えば、シグマ以外には誰もいないことを意味する。ゲームであることを忘れたプレイヤー達にとって、オリジンの大樹とは、もはやただの大きな木でしかない。こんな街からもダンジョンからも遠い場所に来る者など皆無であった。
「………」
シグマは一つの疑問を感じていた。普通なら、ゲームを始めた場合、ここで特殊フィールドが各個人に出現し、チュートリアルが開始される。そこで用意されたモンスターを倒すことで、レベルは3まで上がると聞いていたのだが……そのイベントが起こる気配がない。
(美沙さんがキャラをイジッたからか?)
チートキャラになったであろう自分には、そんなイベント起きないのかもしれない。シグマはそう予想していた。
しかしながら、それを覚えているということは、美沙がシグマに施したデータ入力とプロテクトが効果を表しているのだろう。それが分かったシグマは、一先ず大きく安堵の息を吐いた。
とりあえず、自分のステータスを確認することに。
「――プレイヤー情報表示」
その声と共に、目の前には白い光の文字が浮かび上がる。
プレイヤー … シグマ
レベル … 1
ジョブ … ゴッドハンド
それはプレイヤーのネーム、レベル、ジョブを表示するものだった。ここでシグマは驚愕する。レベルが1のままだった。美沙は最強レベルで始まるよう設定すると言っていたが、全く違っていた。むしろ、チュートリアルさえなかったシグマは、本来ならあり得ないはずの“レベル1”となっていた。
「……これが、美沙さんが言っていた不備ってやつなのか?」
そう考えるのが妥当だった。チート対策で改造キャラがKOEにダイブ出来ないはずのところを、美沙は無理矢理入り込ませた。その影響でデータの一部が変わってしまっていた。
だがシグマは別に慌ててはいなかった。チュートリアル程度で上がるということは、そこら辺の雑魚モンスターを討伐すれば簡単に上がると思っていたからだ。シグマは、次のレベルまでの経験値――PP(プレイヤーポイント)を確認することにした。
「次のレベルまでのPP表示」
目の前の画面は切り替わり、それまでとは違う文字が表示される。
次のレベルまで … 0PP
「……………は?」
表示された次のレベルまでのPPは“0”。つまり、レベルアップに必要な経験値を既に満たしていることを意味する。しかしシグマのレベルは1を表示したままだった。それが意味するのは、最悪の不備。――永遠のレベル1。
「おいおいおいおい……嘘だろ!?」
KOEにおけるレベルというのは、HPの値を上げるものである。その他のステータスはジョブレベルを上げることで増加するが、HPだけはレベルでしか上がらない。それがレベル1のままということは、雑魚モンスターでも攻撃を受ければレッドゾーンに入るということだった。
「――ステータス表示!!」
シグマは慌てて声を上げた。目の前には再び文字が表示される。
HP … 3
TP … ××××
ATK … ××××
DFS … ××××
MAT … ××××
MDF … ××××
SPD … ××××
SKL … ××××
ANT … ××××
TPはテクニカルポイント。ジョブレベルを上げることで習得するジョブ特有の技――スキルを使用する際に消費される。
ATKは攻撃力。敵に与える物理攻撃のダメージに影響する。
DFSは防御力。敵から受ける物理攻撃のダメージに影響する。
MATは魔法攻撃力。敵に与える魔法攻撃のダメージに影響する。
MDFは魔法防御力。敵から受ける魔法攻撃のダメージに影響する。
SPDは速度値。フィールド、戦闘時の移動速度に影響する。
SKLは器用値。これが高い程、装備出来る武器、防具の種類が増加する。装備のレア度が高いほど、消費SKLが高い。なお、装備を外すとその装備に消費されたSKLは戻る。
ANTは状態異常耐性。これが高い程、敵から受ける毒などの状態異常にかかりにくくなる。
「何だよ、これ……」
シグマはただ唖然とするしかなかった。まずステータスの値が異常だった。通常であればここには数字が表示される。だがシグマの値は、全てが“××××”。高いのか低いのかも分からない。KOEのカウンターストップは9999。それとも違う。
しかし、それ以上に注目すべきはそのHP……
「……HP、3!?」
あり得ないほど低かった。通常どんな攻撃でも、当たればダメージは1与えられる。たとえいくらレベル差があろうとも、ステータスに差があろうとも変わらない。……つまり、HP3とは、どれだけ強くなっていても、攻撃を3回受ければ敗北するということを意味していた。当然、そこそこの攻撃を受ければ即敗北。到底、話にならない値である。
「……ジョ、ジョブは!? ジョブ詳細表示!!」
ジョブ … ゴッドハンド
ジョブレベル … 100
次のレベルまで … MAX
ジョブレベルは最高レベルである100になっていた。胸を撫で下ろすシグマだったが、すぐに何かに気付く。
「……ゴッドハンドって、何?」
それは聞いたこともないジョブだった。少なくとも亜梨紗が口にしたこともないジョブ名。しかしシグマは、その言葉の仰々しさから、そこそこ強力なジョブであることが何となく理解出来た。
「………」
シグマは考え込む。いくらジョブレベルが高かろうとも、上がらないレベルの上にHP3ってのはかなり厳しい。序盤はいいかもしれないが、高ランクの相手や、ましてやジョーカー相手だと既に絶望的だった。一度ログアウトしてもう一度入り込むことさえ考え始めた。しかし、頭を過るのは美沙の注意事項。一度ログアウトすると、下手すれば二度と入ることが出来ないかもしれない。もしもう一度入れたとしても、今度はウィルスに侵され、自分までゲーム世界に捕えられてしまうかもしれない。……そう考えると、彼はすぐにログアウトすることを躊躇していた。
「はあ……」
シグマは大きく溜め息をついた。これ以上自分のステータスを確認することが怖くなったシグマは、とりあえず丘から見える近くの街へトボトボと歩き始めるのだった。その背中には哀愁が漂う。
……レベル1のプレイヤー。最強のキャラどころか、最弱のキャラになったことに憤りを感じながらも、彼は歩を進めていった。