二つの思惑
「……そうか……神格者が動いたか……」
オーブ・エスタードの執務室、そこで、バシリウスは深々と呟く。
「……ということは、そろそろ“頃合い”かもしれないよ?」
その様子に、同じ部屋にいるウルは声を掛けた。その表情はどこか嬉しそうで、まるで無邪気な子供のような笑顔だった。だがバシリウスは、ウルとは違い、慎重に物事を見定めるかのように考え込む。
「……いや、それはまだ早い。我らが目的は、あくまでも“揺るがぬ世界”……あれは、最後の切り札だろう」
「でも、うかうかしていたら、神格者の思うツボだと思うけど?」
「フン、泳がせればよい。奴も所詮この世界の一部。無闇に動けば、世界は自ずと崩壊する。そこまでバカではあるまい」
「ずいぶんと慎重なんだね。僕はさ、もっとこうパーッとやるかと思ってたんだけどな」
「ウル……物事には、須らく段階というものが存在する。それを無視し突き進めば、いずれ壁に衝突する。その走ってきた距離が長ければ長いほど、それは致命的になるのだ。
――我らは、もはや突き進み過ぎた。ここで手順を誤れば、取り返しのつかない事態となるだろう」
ウルは首を振りながらバシリウスの元から歩いて行く。
「……僕には分からないな。ま、ここは年長の意見を尊重するとするよ」
「どこへ行く?」
その問いに、ウルは入り口の前で足を止める。そして視線だけをバシリウスに向け、静かに話す。
「様子見、さ。ちょっと僕の“知人”がだいぶん染められてるみたいなんだよ。――もっとも、それは“彼”自身が望んだことではあるけどね」
「……ああ、件の剣士か……。まったく、神格者との“契約”が何を意味するか知りもせず……」
バシリウスは呆れたように椅子に座った。その契約が如何に割に合わないことか……それは、現時点ではウルとバシリウスしか知らないのかもしれない。
「そう言わないでくれよ。彼自身も何が何だか分かってないんだ。……彼の中にあるのは、既に“黒衣の少年”に対する地獄の業火のような感情だけだよ」
黒衣の少年……その字名を耳にしたバシリウスは、すぐに誰のことか理解する。
「……最強最弱のプレイヤー……」
「どちらにせよ、その“何たらプレイヤー”には色々と聞かなきゃいけないことがあったしね。ちょうどいい機会さ。僕が顔を見せてくるよ」
「貴様がか? どういう風の吹き回しだ?」
「別に。……ほんの、気まぐれだよ」
「………」
「………」
ウルとバシリウスは視線と視線をぶつけ合う。静寂に包まれる室内。言葉が飛び交うことはない。無論剣が抜かれることもない。だが、二人の視線はどこか刃のように鋭かった。
「……そろそろ行くよ。結果は、今度ね」
「……わかった」
そしてウルは視線を外し、執務室を後にした。残されたバシリウスは、椅子の肘掛に肘をつき、ウルが出て行った扉を見つめていた。
「――よろしいのですか?」
その時、室内に女性の声が響く。その声を聞いたバシリウスは一切驚くような素振りは見せず、ただその者の名前を口にした。
「……カーリーか……」
彼の言葉を受け、その人物は壁の本棚の陰からゆっくりと姿を見せた。紫色の髪を一つ結びにし、結び目を白い布で荒々しく巻いていた。表情は端麗であったが、視線は鋭く、右目に眼帯を付けている。巨漢のバシリウスに迫らんとするほどの長身で、胸当て、腰当てを装着する。その腰には、長く伸びた一本のブレードが携えられていた。
その女性――カーリーはバシリウスに二歩ほど近付き、さらに声を掛けた。
「バシリウス様、あの男を野放しにしてよろしいのですか?」
「……お前はどう思うのだ?」
「正直に申しましょう。――あの男、危険かと思われます」
そこでようやくバシリウスは視線を彼女に向ける。そして、感心するような声を出した。
「ほう……理由を聞こうか」
「はい。――あの男の考えは、一向に読めません。バシリウス様が旅団の合併を持ち掛けた時も、何一つ迷うことなく首を縦に振りました。いくらバシリウス様に続く称号を受けるとしても、それまでの旅団に興味がないかのようなあの振舞いは不自然です。それだけではありません。あの男、バシリウス様に何かを隠している……そんな気がして仕方がないのです」
「………」
彼女の話を聞いたバシリウスは、ただ沈黙した。それは既に分かっていることだった。ウルは、自分に何かを隠している。それは彼自身が一番分かっていた。……だからこそ、バシリウスはニヤリと笑う。
「……カーリーよ……それは我らも同じであろう」
「……はい。ですが……」
「皆まで言うな。お前の言いたいことは分かってるつもりだ。……だが、それがどうした。もしあの小僧が我が道に立ち塞がるのであれば、打ち砕くまで。このまま大人しく従うのであれば、存分に動いてもらうまで。――ただ、それだけのことだ」
バシリウスの表情は自信に満ちていた。それを垣間見たカーリーは胸のつっかえが取れたような心境になっていた。自分が抱えていた不安や疑いは、このバシリウスという人物には全く不要のものだった。それを実感した。
そんな彼女はただ頭をさげ、一言だけ告げた。
「………承知しました」
そしてバシリウスは一度笑む。視線を再びドアに向け、歩いて行くウルの姿を思い浮かべた。
(……貴様が何を企てようが知ったことではない。我が道に、障害など存在しない……)
一方、ドアを出たウルは廊下を歩いていた。バシリウスの執務室がある付近は、普段は誰も通らない。その廊下には、ウルの足音だけが響いていた。
「……権力の亡者なんかに興味はないよ」
歩きながら、ウルはふとそんな言葉を呟く。
(お前が僕を利用しようとしていることなんて、最初から分かりきったこと。……果たして、掌の上で踊らされているのはどっちかな……)
そしてウルは顔を緩めた。そこにはさっきまでの無邪気な笑顔はない。どこまでも深く、どこか醜悪な笑みだった。
「……さて、そろそろ僕も動くとしようか。――シグマ、キミに会うのが楽しみだよ……」
拠点基地の廊下にはウルの足音だけが響く。だが、その空気は淀んでいた。二つの思惑が入り混じり、暗い空気を生み出していた。
◆ ◆ ◆
「―――よし」
街道の真ん中で佇む黒衣の少年は顔を上げた。その表情はどこまでも力強い。腰に携える二本の刃。ソードとブレード。それをしっかりと両手で触り、感触を確かめる。
(……もう、絶対に負けねえ。負けられねえ……!!)
彼の心には決意があった。その顔は引き締まり、虚空を睨み付ける。その先にあるのはニコルの姿。下卑な笑みで自分を見下した人物への怒りと敵意。しかし彼の根本にあるのは、ニコルとは違う。彼がその先に見るのは、ただ一つだった。
そして黒衣の少年――シグマはアイテムを手に取る。それはニコルが放り投げた転移の石。天に掲げ、呼称する。
「――アイテム発動」
その瞬間、彼の目の前には光の門が出現する。それは眩いばかりの光を放つ。だが、シグマにはその奥が暗闇に染まってるように思えた。それでも彼に迷いはない。ただ足を力強く前に踏み出し、光のゲートを潜り始める。
(……必ず助ける……待ってろよ、アリサ……!!)
彼の視線の先――ニコルの更に先にはアリサの姿があった。そしてシグマの体は、光の中に消えて行った。




