現実からの独立
岩に囲まれた場所、天然の要塞のような場所で、黒衣の少年は肩で息をしていた。
「はあ……はあ……」
目の前に佇む大鬼は、体を揺らしながら少年を見下ろしていた。その少年――シグマのHPはレッドゾーン。残るHPは1。
伸びた腕が直撃する寸前に、何とか剣で防いだシグマ。しかしその衝撃は凄まじく、そのまま後方に吹き飛んだ。運よく岩に衝突することはなかったが、ダメージ判定を取られたシグマのHPは減少。防御力がかなり高かったおかげもあり、何とかギリギリ踏み止まっていた。
追い詰められたシグマ。しかしシグマは、HPの残量とは違う困惑の中にいた。
「くそ……どうなってんだよ……」
彼の体を包むの“疲労”。通常であれば当然の現象である。既に数時間は鬼と戦い続けているあたり、疲れて当たり前だった。……しかし、ここは“ゲームの世界”。本来であれば、“疲労”という現象は起こり得ない世界である。にも関わらず、確かにシグマの体は重くなり、息が上がっていた。だからこそシグマは困惑する。ゲームの世界であることを知るシグマにとって、それは理解出来ない効果だった。
(これもウィルスの影響なのか? でもこの疲労感……まるで本物じゃねえか)
生々しい体の熱、汗、痛み……それら全ては、覚えのあるものだった。もしこれがウィルスの仕業だとするならば、ウィルスは再び変異したこととなる。しかしシグマはウィルスに感染した覚えはない。漆黒蝶どころか、まともな攻撃すら受けたことがない。だが、確実に変化を感じていた。
そしてシグマは、とある仮説を立てた。
(……まさか、“世界そのもの”が感染し始めたのか?)
個人個人のプレイヤーに変化はない。特別な変異が起こるのは、漆黒蝶に触れた者だけ。そうではないはずの自分に変化が起こるということは、世界そのものが変わり始めたと考えるのが自然だった。
(疲労に痛み…か。クソ……ますます異世界じゃねえか……)
これでもし、この現象が自分以外にも起こっているなら、それは間違いなく世界単位での変化。しかし今の状況で、それを確認する術はシグマにはなかった。
オオオオオオオオオオ!!!
そんなシグマに、大鬼は雄叫びを上げ突進してくる。両手の拳を握りしめ、大口を開けて迫る鬼。“鬼の形相”……それは、この鬼の顔のことを指すのかもしれない。
「チッ―――!!」
シグマもまた前方へ駆け出す。これだけの相手に後手に回ればいずれ押し切られる。攻撃を伴う防御をし、その中で活路を見出そうとしていた。
鬼の腕は大きく横に振られる。その下を掻い潜るシグマだったが、鬼はもう片方の腕を振り上げシグマに向け突き下ろす。体を捻り回避するシグマ。放たれた黒い拳は大地を割り、周囲の形を変える。シグマはそれに巻き込まれないように一度距離を置くために横に跳ぶ。鬼はそんな彼の姿を視界に捉える。そしてシグマに向け光線を放つ。
「―――ッ!!」
鬼の周りを円状に走るシグマ。横から放たれる光線は、彼が走る後を破壊し続ける。迫る崩壊に動揺することなく、シグマは視線を大鬼に送り続けていた。
(―――よし)
シグマは腹を括る。そしてその足を鬼に向け切り返す。放たれる光線はシグマに向けられるが、それを小さく跳び躱す。次に鬼は右の拳をシグマに向け伸ばす。放たれた拳は矢のようにシグマに迫るが、それも紙一重で避けるシグマ。そして懐に入るや、右の刃を振り抜いた。鬼も左手でそれを防ぐ。ぶつかる刃と腕は金属音を響かせる。
「――ハアッ!!」
それでもシグマは両手の剣を一心不乱に振る。伸ばした腕を戻した鬼もそれを両手で受ける。断続的な高い衝突音。繰り返される斬撃。受け続ける黒い腕。刃は風となり閃き、黒の腕は鈍く光る。やがて鬼は拳を振り下ろす。
「――――ッ!!!」
刃を十字に合わせ、振り下ろされた拳を受け止めるシグマ。地は沈み、足は震える。シグマは自分を襲う感覚を、間違いなく感じていた。
(痛い……重い……きつい……!!)
まるで本物の世界にいるかのような感覚。現実世界を覚えているシグマでさえも、ここがゲームの世界とは思えなくなり始めていた。
カタカタと震える刃。全身を容赦なく襲う疲労と痛感。
(ここは……どこなんだ?)
歪む視界の中、見える鬼の姿を見ながら、シグマはそう考える。ここはもはや、シグマの知る“ナイツオブエデン”というゲームではないのかもしれない。現実世界のことを忘れ、“生きる感覚”さえも感じてしまう世界。それは完全に、一つの世界だった。
自分の存在価値が薄れていく。全てを……亜梨紗を助け出す。そう決意し、この世界に来たシグマ。しかし、世界は動き出していた。現実世界からの独立……彷徨う楽園は、一つの“新境地”を迎えているのかもしれない。それはこの世界に取り残されたはずのプレイヤー全ての理想郷なのかもしれない。誰も自分がしようとしていることを望んでいないのかもしれない。
それを見せつけられたように思えたシグマの戦意は、徐々に下がり始める。その一つの要因は疲労。疲れは正常な判断を鈍らせ、休息を促す。極限の状況の中、久々に感じるその誘惑は、シグマとはいえ容易にやり過ごすことは難しかった。
そんな中、鬼は葛藤するシグマに向け無情な拳を振り上げる。狙いは完全にシグマに絞られる。もちろんシグマもそれに気付いていた。しかしそれでも、今のシグマにそれに対処するだけの余裕はない。ゆっくりと振り上げられる拳を睨み付けるシグマ。気を抜けば剣越しの拳に押し潰される。
「………くそ」
小さく声を零すシグマ。――そして鬼は、拳を勢いよく振り下ろした。
その瞬間、鬼の背中が爆発を起こす。
ガアアアアアアア!!!
「―――ッ!?」
それに伴い、シグマを押し潰そうとしていた拳もその力を弱めた。シグマはとっさにその場を離れる。そして鬼の背後に目を凝らした。
「シグマああああ!!」
そこには、自分の名前を呼びながら駆けて来る旅団“黎明の光”の面々がいた。弓を構えるクロエ、アックスを携えるジール、後方でふわふわ浮きながらメイスを天に掲げるフルール。
「お前ら……」
シグマの心には、何かが沸き起こる。これまで、ただの旅の連れと思っていた面々の顔。それを見たシグマの心には、何かが去来する。その時、シグマは彼らを睨む鬼の視線に気付く。
「―――ッ!? 来るな!! 今すぐ逃げろ!!」
鬼を見た直後に叫ぶシグマ。クロエ達も、シグマの言葉の意味を分かっていた。相手はランクSSの化物。だからこそ、返事を叫ぶ。
「嫌です!! 私達も戦います!!」
そう言いながらクロエは弓を引く。腕に力を込め、ありったけの想いを乗せて、クロエは矢を放つ。それは単純な矢でしかなく、あっさりと鬼の腕に阻まれる。しかしその矢の意味は攻撃だけではなかった。それは宣言。自分も戦うという意志表示。矢を数本放ったクロエは、シグマの近くで弓を構えた。
「クロエ……」
「言いたいことはたくさんあります! だから、後で言います!!」
「………」
クロエの行動に、心が揺さぶられる。そして彼の元にジールも来た。戦斧を鬼に向け構えるジール。視線をそのままに、背後にいるシグマに声を出す。
「シグマ!! テメエ、自分ばっかりカッコつけてんじゃねえぞ!! ――俺達にも見せ場を作れ!! 仲間だろが!!」
「……悪い、ジール」
「へん! 何謝ってんだよ!!」
ジールはどこか嬉しそうに頬を緩める。その後ろ姿は、いつもに増して頼もしく見える。
鬼は、今度はその二人に目を向ける。そして頭の角に光を集め始めた。
「―――ッ!! 来るぞ!! 避け―――」
シグマが叫び終える直前、再び鬼の体は爆発する。見れば鬼に向け炎の弾丸がいくつも飛来していた。爆炎は鬼の顔、腹部、腕、足を次々と捉える。鬼は腕を構えそれを防ぐ。その発射口となっていたのはフルール。杖から放たれる炎は数を増し、いつの間にかマシンガンのように打ち込まれていた。その勢い凄まじく、遂には大鬼を転倒させる。
その間にフルールはフワフワとシグマの方に近寄り、小さな声で話しかけた。
「……大丈夫?」
「――ああ。大丈夫だ」
「……そう」
そしてフルールもまた鬼に向かう。最後に、フルールはシグマに言葉を送った。
「……シグマは、家族」
ただ一言だった。しかしそれは、シグマにとってとても大きな言葉に感じた。シグマの頬は緩み、照れ隠しで俯く。それでも顔をフルールに向け直し、返事を送った。
「そう…だったな。ありがとう、フルール」
フルールは頷く。その頬は少し赤く染まっていたが、シグマの角度からでは見えなかった。
「シグマさん!!」
最後にシグマの元に辿り着いたのはミーレス。彼女もまた剣を構え、目の前の大鬼に正対する。
「……お前、あのニコルとかいう奴に怒られるぞ?」
「覚悟の上です!!」
「……そうかよ」
シグマはクスリと笑う。そして自分の周囲にいる四人全員に視線を送った。最初、全てを一人ですると決めていた彼だったが、いつの間にかこんなにも“仲間”がいた。それはどこか照れくさくて、どこか情けない。物好きばかりだと皮肉を思いながらも、悪くない気分だった。
そんな自分の中に確かにある感情を噛み締めながら、シグマは顔を綻ばせながら叫ぶ。
「――死んでも知らねえからな!! いっちょ、鬼退治といこうか!!」
「はい!!」
「おお!!」
「……うん」
「分かりました!!」
武器を構える五人の目の前には立ち上がる大鬼。鬼の目に映るのは、五つの敵影。それは小さく少ない。だが、それまでとは違う威圧感を感じる鬼。
オオオオオオオオオオ……!!!
それを振り払うように鬼は咆哮を轟かせる。荒れ果てた岩場は、一つの局面を迎えていた。




