ウイルス感染
翌日の休日。真輝が目覚めたのは昼過ぎのことだった。彼にとって睡眠とは、いくら寝ようとも寝たりないと感じるものであり、休日の過ごし方としては普通の光景だった。
だがこの日は少しばかり勝手が違っていた。時刻は午後一時。普通であれば、昼の十二時前には亜梨紗が昼ご飯を作り起こしに来るはずなのだが……この日は、それがなかった。寝ぼけ眼でTシャツの内側をぼりぼりとかきながら、乾いた喉を潤すべく一階のキッチンに向かう。水道水をコップに注ぎ、一気に飲み干した彼は、その変化に気付いた。
「……変だな」
普通であれば、既に食事を終えて後片付けをした亜梨紗が、リビングのソファーでうたた寝しながらテレビを見ている時間だった。ところが今日はリビングにいない。それどころか、昼食すら取っていないようだった。掃除した跡も、洗濯した跡も見受けられない。まるで今日一日真輝以外家に誰もいないかのような静寂に包まれていた。
そんな異様な光景に不安を感じた真輝は、静かに階段を上り、亜梨紗の部屋の前に訪れた。部屋の中からは前日寝る前に聞いたVRMMOの機械音が聞こえていた。
(まさか……)
KOEをやり過ぎて寝過ごした。そう考えた彼は、亜梨紗の部屋のドアを数回ノックした。
「亜梨紗ー。もう昼過ぎたぞー。いい加減出て来い」
呼びかける真輝だったが、その返事はない。室内には再び機械音が混じる静寂だけが広がっていた。
「……しゃあねえな」
頬を数回手でかいた真輝は、もう一度ドアをノックし、さっきとは違う言葉をかける。
「亜梨紗ー。入るぞー」
真輝は普段亜梨紗の部屋に入ることはない。それは最低限のマナーと心得ており、最後に入ったのは小学生の時だった。そんな彼にとって部屋に入るということは、何とも言えない緊張感を感じることだった。生唾を飲み込みながらおそるおそるドアを開ける。やがてドアが完全に開ききり、その室内を見渡すことが出来た。
綺麗に掃除された部屋。ピンク色のカーテンにピンク色の布団が置かれたベッド。部屋の隅にはクマの人形が置かれ、机は教科書やノートが並べられていた。その机の横の壁には高校の制服がハンガーに掛けられ、その隣にはお気に入りのコートが掛かっていた。
真輝が小学生の時は少し違う部屋の雰囲気をマジマジと実感していると、机の上に置かれた写真に気付いた。それは高校入学の時の写真。正門の前で二人並ぶ真輝と亜梨紗。この日は美沙は仕事の都合で来れなかった。それでも二人で写真を撮り、お祝いの食事にも行った。亜梨紗は知らないが、真輝の部屋の机にも、密かに同じ写真が押しピン止めされている。その写真を見た真輝の表情は緩み、遠い日の思い出が胸に甦っていた。
一方、肝心の亜梨紗は、ベッドの上で眠っていた。その頭部にはティアラのような装置が取り付けられ、側頭部の両側には白く丸い平面の端末がくっ付いていた。それは脳波を読み取る端末であり、同時にゲームデータを脳に直接送る役割も果たしている。
VRMMOとは、言わば夢を操る装置を使ったゲームである。特殊な波長を直接脳に送り付け、強制的な睡眠を促す。そしてゲームデータを脳に送り込み、夢の中で実体験のようなリアルな映像を流すのだ。つまり、ゲーム中は眠ったままの状態となる。
「やっぱり……」
真輝の予想は当たっていた。亜梨紗は未だにKOEの世界に入ったままだった。
「まったく。ゲームのことになるとこれだ……」
そう言いながらも、亜梨紗を見つめる真輝の視線はとても暖かいものだった。眠る亜梨紗の顔は穏やかで、静かな呼吸はまるで眠り姫を彷彿させる。真輝はそんな亜梨紗の顔を見つめながら、栗色の髪を一度撫でた。無意識のことだった。それに気付いた彼は一人顔を赤くし、慌てて亜梨紗の頭から手を離す。
(……何やってんだよ、俺)
頭を抱え、自分の今の行動を反省する真輝。亜梨紗の髪なんてここ数年触ってなんかいない。それを眠ってる亜梨紗にした自分が、何だかとても恥ずかしく思えていた。
(今日は、ゆっくりさせとくか……)
真輝は静かに部屋を出る。最後にもう一度眠る亜梨紗に微笑みを送り、音がしないように慎重にドアを閉めた。そして、普段亜梨紗がしてる掃除、洗濯といった家事を、黙々とこなしていった。
◆ ◆ ◆
家事を終えた彼はテレビを消したままソファーに座り雑誌を読んでいた。だが、普段しないことをした彼の体には疲労の色が見え、気が付けば本を片手に首をコクリコクリと上下に揺らしながら微睡の中に沈んでいた。
そんな彼の意識を呼び戻すかのように、突如テーブルの上に置いていた携帯電話が鳴り響いた。
「……う~ん……」
眠りを遮断された真輝は、重い体を動かしてテーブルの上の携帯電話に手を伸ばす。その画面を確認すると、そこには“桐原美沙”の文字が出ていた。
(美沙さんから電話があるなんて……珍しいな)
普段電話をしてこない美沙。もし用件がある場合は亜梨紗に電話をしてくる。もっとも、亜梨紗はゲーム中だから電話に出ることはないが。
ふと真輝は携帯電話の時間を見て驚いた。時刻は午後四時。つまり、亜梨紗は昨日の夜から丸半日以上ゲームをしていることになる。
(やり過ぎだろうに……。起きたら説教だな、こりゃ)
そう思いながら、真輝は携帯電話を耳に当てた。
「もしもし美沙さん? いったいどうした―――」
『真輝くん!? 亜梨紗はどうしてる!?』
電話に出るなり、美沙は怒鳴り声とも取れる声を上げた。突然の美沙の叫びに驚く真輝。美沙は普段温厚な性格で、真輝は一度も怒鳴られたことはない。にも関わらず、美沙は鬼気迫るような声を出していた。
「み、美沙さん? どうしたんだよ……」
『いいから答えて!! 亜梨紗は今何をしてるの!?』
(何なんだよ……)
「亜梨紗なら、部屋でず~っとKOEをしてるよ。今日一日中」
少しだけ皮肉を漏らす真輝。ところが美沙は、彼が想像したものとは違う反応を見せた。
『……そ、そんな……亜梨紗……』
電話口の美沙は、絶望の声を漏らしていた。さすがの真輝もただならぬ雰囲気を感じていた。
「……美沙さん、どうしたんだ? なんか変だぞ?」
『……真輝くん、テレビを見てないの?』
「あ、ああ。消してるけど……」
『なら、まずはテレビを付けて。……それで、分かるから』
魂が抜けたように話す美沙の声は、明らかに異常だった。何かが起きている。そんな漠然とした不安を抱きながら、真輝はテレビのリモコンを押した。
暗い画面に光が灯る。そしてそこには、緊急ニュースが流れていた。
『たった今、今回の事件の首謀者が逮捕されました!! 繰り返します! たった今、今回の事件の首謀者が逮捕されました!! 犯人の供述によると、サイバーテロを起こしたのは昨晩のこととのことです!!』
「サ、サイバーテロ……?」
普段のテレビからは流れない、仰々しい言葉がテレビ画面の奥から発せられていた。それでも真輝にはわけが分からない。
『……中継ありがとうございました。それでは、改めて今回の事件について振り返ってみましょう』
まるで真輝の心境を察したかのように、テレビのニュースは事件の概要を説明し始めた。
ことの発端は一本の電話からだった。“KOEをしていた息子が何をしても起きない”。その電話が119番に寄せられた。そして同様の通報は日本各地で起きており、更には世界でも同じ現象が起きていたことが分かった。そこで開発会社等が調査をしてみたところ、驚くべき事実が判明した。KOEに、ウィルス感染が確認されたのだ。それは人工的に作られたものであり、これまでのどのタイプとも違う未知のウィルスだった。データを壊すことはなく、プレイヤーの身に何かが起こるわけでもない。そのウィルスが行ったことは、ただ一つだけ。
――それが、“現実世界データの消去”。
先ほども説明した通り、VRMMOとは夢を操作するゲームである。プレイヤーには明晰夢を見ているような現象が人為的に起こされている。だからこそ、五感全てがリアルに体感でき、自分の意志一つで自在に活動することが出来る。しかしそれはあまりにも現実味があり過ぎる夢だ。まるで本物の世界のように感じるそれは、下手をすれば現実と仮想の区別がつかなくなる。だからこそ、一定時間ごとに現実世界のデータが送られる。それは社会情勢だったり、その個人の情報だったりする。それを送ることで、プレイヤーは現実世界での自分を忘れることなく、KOEがゲームであることを認識し、任意でログアウトをすることが出来る。
……ところが、今回のウィルスはその“現実世界のデータ”を丸ごと消去したのだ。つまり、現実世界のデータが送られないプレイヤーはそれこそが現実と思い、結果、戻らなくなるのだ。いや、戻るという行為自体を忘れるという方が正確だろう。なぜなら、彼らはKOE内のみでの立場や環境、友人、自分がいる。現実世界のデータが送られてこなければ、現実の自分が分からなくなる。端的に言えば、部分的な記憶喪失となるのだ。
話をまとめるとしよう。つまり今回のウィルスによってその時にゲームにいたプレイヤーは、“仮想世界であるKOEこそ現実世界”と認識してしまっていた。
そしてそれは世界中に波紋を呼ぶ。数百万人単位で戻らなくなった現実世界は至る所で混乱が起こっていた。しかも犯人が狙ったのはプレイヤーが最も多くなる連休前の夜。……被害者は、尋常じゃない数に上っていた。
テレビの前で呆然と立ち尽くす真輝。耳に当てていた携帯電話は、いつの間にか力なくぶら下げていた。
真輝の心の中で何かが必死に声を出していた。未だはっきりとしない真輝の頭はそれが何なのかを必死に考える。
サイバーテロがあったのは昨晩。その時KOEをしていた人全員が被害に遭っている。……そして、亜梨紗もまた昨晩からゲームをしていて、未だに目を覚まさない。それが意味することはただ一つ。それはつまり………
「――亜梨紗ッ!!」
その事実にようやく気付いた真輝は、携帯電話を握り締めたまま亜梨紗の部屋に向けて慌てて駆けだした。
(嘘だ――嘘だ!! ――亜梨紗!!)
必死に最悪の想像を掻き消そうとする。しかし現実を理解してしまう自分がいた。だからこそ彼の心臓は激しく脈動し、全身を嫌な汗が流れていた。
「亜梨紗!!」
部屋のドアを勢いよく開ける真輝。頭には最後の希望が巡っていた。ドアを開けたら亜梨紗は既に起きていて、ノックをせずにドアを開けた自分に怒り出す。それに対し平謝りを繰り返す。……そんな光景を心から望んでいた。
だが、現実はやはり現実だった。ベッドの上には相変わらず眠ったままの亜梨紗がいた。最悪の想像が目の前に広がっている。それに対し再び呆然する真輝。しかしすぐに顔が熱くなるのを感じた。
「……亜梨紗!!」
握った携帯電話を床に放り投げベッドに眠る亜梨紗に詰め寄り、両肩を掴み激しく亜梨紗の体を揺らす。しかし一切目を覚ます気配がない。
「おい亜梨紗! 起きろ!! 起きてくれよ!!」
必死に呼びかけるが一切の反応がない。返事のない亜梨紗に向けて、懸命に叫び声を出し続ける真輝。それでも起きない亜梨紗に対し、真輝はさらに焦りを募らせる。
「……亜梨紗、悪い!!」
真輝は亜梨紗の肩を掴んだまま、頬を数回平手で叩く。
(後で死ぬほど謝るから……だから、起きろ!!)
しかし、それでも亜梨紗は起きない。亜梨紗の頬が赤くなるだけで、亜梨紗は依然として安らかな眠りの中にいた。
「……クソッ!!」
真輝は床に転がる携帯電話を手に取る。美沙とは依然通話中になっていた。
「――もしもし美沙さん!? 頭に付いた装置外していいか!?」
『それはダメよ!! 今装置を外せば意識が途中で断絶されて、一生、目覚めなくなる可能性があるわ!!』
「――じゃあ……じゃあどうしろって言うんだよ!!」
真輝の叫びの後、家の中は重い沈黙に包まれた。亜梨紗の部屋に掛けられた時計の音だけがやけに響いていた。
『……とにかく、私もいったん帰るわ。真輝くんはそのまま亜梨紗の傍にいて。いいわね?』
「……ああ」
そして電話は切断される。一定の電子音を響かせる携帯電話を手に持ったまま、真輝は立ち尽くすしか出来なかった。目の前には、まるで事の重大さとは無関係のように安らかに眠る亜梨紗がいる。
「……亜梨紗……」
か細い声で名前を呼び、真輝はひたすらに棒立ちをしていた。絶望感に心を支配されたまま、眠る亜梨紗の顔を無表情で見つめ続けていた。