理想の世界
閑静な住宅街の中、その家はなだらかな丘の上にあった。周りの家よりも少し大きい層二階建ての家。その中では、いつも通りの朝が迎えられていた。
「――真輝!! 早く起きなさい!!」
二階の一室で叫び声を上げる少女。栗色の肩くらいまでの髪から見た目はボーイッシュにも見える。しかしその顔を見れば少女であることが十分わかる。細い眉毛、クッキリとした二重の瞳、長いまつ毛の目。シャープな鼻と薄ら桃色の口。小顔で整った顔立ちは、誰もが認める美少女と言えるだろう。
彼女が叫ぶ先はベッド。その上では掛布団に包まれた“真輝”という人物が、モゾモゾと動いていた。
「……亜梨紗、もう少し寝らせてくれ」
低血圧な彼――紫雨真輝には、朝の目覚めは何よりも辛い時間。まだ半分夢の中にいる真輝にとって少女――桐原亜梨紗の声は、睡眠欲により頭がぼやけながらも現実に強制連行するものだった。
「もう! そんなこと言って、いつも結局起きないじゃない! 朝ご飯が冷めちゃうでしょ!?」
少女は怒り半分で蠢く掛布団を力任せに剥ぎ取る。中には横向きに体を小さく丸め眠る少年がいた。短いさっぱりとした黒の髪。太めの眉毛としかめた目。体格はそこまで大きくはない。少女と同じくらいの身長で、痩せすぎず太り過ぎずの中肉だった。
「ほら! さっさと起きなさい!!」
亜梨紗は真輝の顔を軽くパシリと叩く。それを受けた真輝はゆっくりと瞼を開け、目を擦りながら仕方なく布団から上体を起こした。彼の目の前には既に通う高校のブレザーに着替えた亜梨紗。その顔は呆れるような怒るような表情だったが、それは真輝にとって至極見慣れた顔だった。
「……おはよ、亜梨紗」
一言だけ挨拶を口にした真輝は大きく欠伸をする。そんな真輝の姿は、亜梨紗のイライラの原因となっていた。
「もう! 早く食べないと遅刻するわよ!? 早く着替えなさい!!」
「遅刻くらいいいって。今更皆勤賞を狙ってるわけじゃないし。先生も既に諦めてるよ」
そう説明する真輝。それもそうである。彼は朝の目覚めが悪く、二度寝三度寝を当たり前のようにしては学校にいつも遅刻していた。進級自体が危ないほどではないが、最初注意していた担任の先生も、もはや言うのは疲れたと言って放置している。もちろんそれは教師としては失格かもしれないが、真輝はそれを存分に利用していた。
ふと、真輝は仁王立ちをする亜梨紗の姿をマジマジと見つめる。とても不思議そうな顔で。
「……お前さ、元気だよな。昨日も夜遅くまで“ダイブ”してたんだろ? よく起きられるよな~」
「それはそれよ。学校こそ私達の本職なんだからね。お姉ちゃんに頑張ってもらってるんだから、毎朝遅刻せずに行くことこそが私達に科せられた最大の義務ってやつよ。
……もっとも、“どっかの誰かさん”は、その義務を入学早々からさっそく放棄してるけどね」
亜梨紗は意味深な言葉を言いながら、睨み付けるような視線を真輝に送る。それを受けた真輝はただ作り笑いを浮かべ場を繋ごうとしていた。
「でも、何で美沙さんはあんなに忙しそうなんだ? あの“KOE(ナイツオブエデン)”の開発者なんだろ? 使用料とか印税だとかで結構余裕があるはずなんだけどな……」
「何言ってるのよ。あれだけの規模のMMO(インターネットゲーム)なのよ? メンテナンスとか調整とか色々大変に決まってるでしょ。実際、ここ二週間仕事場に籠りっきりじゃないの」
「そんなもんなのか……。イメージ的に、ゲーム作って放置するって思ってたんだけどな……」
「あのね……。そんなわけないじゃない。真輝はゲームしないからそんなことを言ってるのよ。一度してみたら? 私がサポートするよ?」
亜梨紗は目を輝かせていた。本来の目的であるはずの真輝を起こすことをすっかり忘れたまま。
それもそのはずだ。亜梨紗はVRMMO“KOE”の熟練者なのだ。そして、彼女はそのゲームの開発者である桐原美沙の実の妹でもある。故に彼女はそのゲームが配信された当初からゲームをしている。キッカケは単純なものだった。姉を慕う彼女にとって、その姉が開発したゲームをしてみようと思うのは当然の流れだろう。しかし一度体験したその感覚は、彼女をあっさりと仮想世界に引き込むことになった。自由な冒険、仲間との協力、それまでゲームをあまりしたことがなかった彼女にとって、KOEとの出会いは革命的とも言えた。
そんな亜梨紗をやれやれと言った表情で見つめる真輝。
何を隠そう、彼は未だにKOEをしたことがない。全世界で圧倒的人気を誇るVRMMO。特に開発された日本では、十代二十代の人物で“していない人がいない”とまで言われていた。だがしかし、彼は十七歳という最もそういうジャンルに心惹かれるはずの年齢であるにも関わらず、全く興味を持たなかった。別にゲームが嫌いなわけではない。彼が嫌がる原因は、人付き合いにあった。それだけの大規模なMMOであれば、当然人との会話が必要になる。彼にとって、それは苦痛だった。
彼はあまり人と接するのが好きではない。それは彼の人生によるものだった。彼の両親は中学生の時に事故と病気で他界している。それから彼は周囲から、同情と哀れみの視線と言葉を受け続けた。その言葉はいつまでも彼自身の心の傷を抉り続けるものであり、自然と周囲と距離を置くようになっていた。
そんな彼でも心を開くのが、隣に住んでいた桐原姉妹。彼女らもまた離別と死別で両親がいなかった。それを見かねた真輝の両親は、二人を家族同然に扱い頻繁に家に招待していた。そんな中、真輝の両親が亡くなり、孤独となった真輝を逆に姉妹が家に招き、彼は桐原家に居候するようになったのだ。だからこそ、美沙と亜梨紗は真輝が心を開く数少ない人物と言えるだろう。
話は逸れたが、つまりは人と接するのが嫌な彼は、幾度となく繰り返されてきた亜梨紗からのKOEへの誘いを断固として拒否し続けていた。
「……それはそうと、いいのか?」
「何がよ」
即答で言葉を返す亜梨紗に、再び苦笑いを浮かべる真輝。彼女は、完全に忘れていた。大好きなKOEのことになると周りが見えなくなるあたりも、真輝がよく見かける光景だった。
「――学校」
「………」
真輝の言葉に、一瞬にして顔を青ざめさせる亜梨紗。時計に目をやり、必死に頭の中でその現実を処理しようとしていた。やはり、忘れていたようだ。
「ああああああ!!!」
時間を把握した亜梨紗は叫び声を上げた。そして真輝の部屋を飛び出す。室内からは慌てて階段を降り、廊下を駆ける音が響き渡っていた。
「ちゃんとご飯食べなさいよね!!」
最後に亜梨紗は家に向け叫び勢いよくドアを閉めた。そして亜梨紗が立ち去った家は、妙な静寂に包まれる。そんな中、二階のベッドの上で顔をひくつかせる真輝は、常々思うことを口から漏らしていた。
「……相変わらず、騒がしい奴」
◆ ◆ ◆
その街にある私立高校。その教室の片隅には亜梨紗がいた。亜梨紗は頬杖をつきながら、数学の方程式を黒板に書く男性教師の姿をぼーっと見ていた。
結局、この日真輝はやはり遅刻していた。亜梨紗もまた遅刻ギリギリに教室に駆け込み、何とか遅刻にはならなかったが……彼女の胸の中には、別の感情が芽生えていた。窓から見える青空と雲を見つめながら亜梨紗。もっとちゃんと連れてくるべきだった。そんな後悔をしていた。自分のことを忘れ、真輝のことを想う亜梨紗。彼女が彼を学校に連れて行こうとするのは、意外に単純な理由があった。それは、一緒に登校すること。遅刻しないように見張ることも大切だったが、それ以上に、亜梨紗は真輝と楽しく登校したかったのだ。無論だが、真輝はそのことを知らない。
授業が終わった後、クラスの女子の一人が亜梨紗に話しかけてきた。
「ねえねえ、何で亜梨紗って、紫雨くんにかまうの?」
「何でって……一応、家族だから?」
「でも、紫雨くんって相当愛想悪いじゃない?」
「そうかな……」
「そうよ。だって誰とも口を利かないし、先生から何を言われても無表情で顔を睨みつけるだけだし……」
それこそ真輝の日常風景だった。真輝は基本誰とも話さない。遅刻しても先生には謝らないし、教室の角の席でいつも椅子にどっかりと座り窓の外を見ている。かと言って成績が悪いわけではない。むしろ逆にいい方だ。本人曰く、“先生が言ってることは教科書に全部書いてあるから授業受ける意味はない”とのこと。当然普通は教科書を見た程度では到底理解出来ない内容ばかりなはずなのだが、もともと理解力、応用力がずば抜けて高い彼にとっては、それで十分のようだ。教科書をパラパラと捲っただけで理解する彼にとって、グダグダと説明を聞かないといけない授業というものは、退屈で仕方ないのだ。
もちろん、周囲もそれを理解していた。だから気に入らない。何をしなくても頭が良く、おまけに運動神経もいい。嫉妬心を抱くのも納得するだろう。
だが、せっかくの基本能力の高さも、彼の人との接し方で台無しになっていた。彼の周囲への愛想は最悪であり、他人に対してはとことん冷たい。そんな彼は、クラスでは完全に浮いた存在だった。もし亜梨紗が別の学校だったら、別のクラスだったのなら、とっくに学校を辞めていただろう。たまたま同じ学校の同じクラスだからこそ、彼も渋々学校に顔を出し、退学という最悪の展開だけはしない状態だった。
しかし亜梨紗は、なぜ彼がそこまで他人に冷たいかは知っていた。彼の両親が他界した時、彼の学校生活が変化したのだ。哀れみと同情の目に晒され、可哀想なものをみるかのように扱われることは、元来負けず嫌いな彼にとっては屈辱だったはずだ。自分自身もその経験があったため、亜梨紗だけはいつまでも変わらず接し続けている。だが彼女の心の中には、それだけじゃない複雑な想いがあった。
だからこそ、クラス女子からの問いに苦笑いを浮かべるので精いっぱいだった。
「――真輝は、そこまで悪い奴じゃないよ? ちょっと口が悪くて不器用だけど、本当は優しいんだよ?」
「えええ? それは褒め過ぎだよー」
「そ、そうかな? そんなことないって思うんだけど……」
「そんなことあるって。だって彼って、絶対そんなんじゃ―――」
――ガラッ
突然、教室の後ろのドアが開いた。教室中の視線が注がれる中入ってきたのは、頭をかきながら歩く真輝だった。周囲の視線に気付きながらも、一切視線を送ることなく、静かに窓端最後尾の自分の席に座る。そしていつものように、窓の外を眺めはじめた。
真輝の登校により、教室中では張り詰めた雰囲気が出始めていた。
「……チッ。嫌な奴が来やがった……」
クラスの中の一人の男子が舌打ちをしながら言葉を零す。彼もまた真輝をよく思わない一人だった。
それを聞いた真輝は、眉毛をピクリと動かし、徐に席を立つ。そしてゆっくりとその男子の元に歩いて行き、机の前で片手をポケットに入れ、バンと音を立てて机上に手を突いた。
「な、なんだよ……」
鋭い目つきをする真輝に身を縮める男子。そんな男子に、真輝は口を開いた。
「……言いたいことがあるならハッキリ言え。陰でコソコソ言ってんなよ」
「い、いや……別に……」
怯えるように声震わせる男子に、真輝は更に睨む視線を強くする。
「ほら、さっさと言えって―――」
「――なぁにしてんのよ!!」
凄む真輝の後頭部を突然誰かが叩く。彼は言葉途中のまま、驚き頭を押さえ振り返った。彼の後ろに立っていたのは、当然亜梨紗だった。
「やっと来たかと思えばいきなり他の男子に絡まない!! ほら! まずは職員室に行って先生に謝ってきなさい!!」
「ああ? 何で俺が―――」
「い・い・か・らっ!! 早く行きなさい!!」
凄まじい圧力で真輝に迫る亜梨紗。それを見た真輝は後退りをしながら男子の席を離れ、渋々教室を出ていくのだった。その瞬間クラス中から安堵の息が漏れる。そんな教室を見渡した亜梨紗は複雑な気持ちになっていた。
◆ ◆ ◆
それから真輝は途中で帰ることなく放課後を迎えた。無論、途中で帰ろうとする真輝の首根っこを亜梨紗が掴み阻止していたからだ。帰り道を二人並んで帰る風景。それもまた、日常のものだった。
「まったくもう……何であんな態度しか取れないかなぁ……」
「あんな態度?」
「来て早々のことよ。あんな陰口、ほっとけばいいのに」
「聞こえたもんはしょうがないだろ?」
「はあ……真輝ってほんと……」
溜め息をつく亜梨紗を見て、何だか責められた気持ちになった真輝は、ぼりぼりと頭をかきながら視線を逸らした。そしてこのままではグチグチと説教されると確信した彼は、慌てて会話を脱線させることを目論む。話題は、もちろん“あれ”のことだ。
「それはそうと、明日から連休だけど、やっぱりKOEをしまくるのか?」
それを聞いた亜梨紗はそれまでの仏頂面を豹変させた。そして興奮気味にまんまと真輝の思惑に乗ってしまうのだった。
「当たり前よ! 今日の夜から潜って、連休中にランキングを百くらい上げる予定よ!! 私、もうすぐサウザンドプレイヤーだし!!」
サウザンドプレイヤーとは、KOEの中でランキング千位以内に入る人物のことを意味する。数百万人規模のKOEにおいて千位以内に入るのは、プレイヤー共通の一つの目標となっていた。千位以内であればランキング表に名前が載り、賞賛と尊敬が向けられる。多数存在するKOE内のプレイヤーの集団“旅団”の団長は、大半がこのサウザンドプレイヤーである。
もっとも、興味がない真輝にとってはその凄さが分かるわけもなく、実にどうでもいいことだった。
「そっか。ま、やり過ぎんなよ」
話を流す真輝。そんな彼を見つめる亜梨紗は、いつも通りの言葉をかける。
「真輝も始めればいいのに……きっと面白いよ?」
「何度も言ってるだろ? 俺は、人付き合いってのが苦手なんだよ。わざわざそんな中に入っていくなんて考えられねえ」
いつも通りの返答だった。そんな真輝の返答に寂しそうな表情を見せる亜梨紗。
「一緒にしたかったのにな……」
亜梨紗は、真輝とどうしてもこの感動を共有したかった。一緒に楽しみ、競い合いたかった。それは単純な感情からではなく、彼女の心の奥底にある特別な感情がそう望んでいたからだ。
そんな彼女の呟きを聞いた真輝は、少しだけ申し訳なく思い、あまり気が進まないにしろ敢えてKOEの話題を振る。
「……KOEってそんなに面白いのか?」
「当たり前じゃない。だからこそ数あるMMOのタイトルの中で、断トツの人気があるんだよ? 世界数百万人のプレイヤーだよ? 自動翻訳機能のおかげで誰とでも出来るし。その世界にはね、国境がないんだよ。国を超えて、単純に“ゲームを楽しみたい”っていう意志の元、たくさんの人がプレイする。時に競い合い、時に協力し、誰もが高みを目指す。
――まさに、理想の世界なんだよ」
「理想の世界、ね……」
自らの熱い思いを語る亜梨紗とは対照的に、真輝は冷めた心でそれを聞いていた。いくら亜梨紗が熱く語ろうとも、彼にとっては“たかがゲーム”という感情しかないのだ。それを理想の世界と称されても、彼には違和感しか感じない。
それでも生き生きと語る亜梨紗の表情を見て、彼は優しく微笑む。彼にとって、そんな亜梨紗の表情は温もりを与えてくれるものでもあった。
「……そこまで言うなら、考えててやるよ」
初めて真輝は肯定的とも取れる発言をした。その言葉を聞いた亜梨紗は、俄然表情を明るくする。そして興奮気味に真輝に詰め寄った。
「ほ、本当に!? 絶対だよ!?」
「しつこいって。あ、やるって決めたわけじゃないからな。あくまでも、考えておくだけだ」
「胡散臭いなあ……でも、待ってるね」
そう言いながらも踊るように歩き始める亜梨紗。全身で喜びを爆発させるかのようだった。
(ホントに単純だな……)
呆れるような顔を見せる真輝だったが、それでも心は穏やかになっていた。
そして帰宅後、夕食を食べた亜梨紗は寝る準備を整え、自分の部屋に籠った。その部屋の前を通った真輝の耳には、VRMMO本体の機械音が聞こえていた。それを聞いた真輝は一度笑みを浮かべ、自らの部屋に戻って行った。