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異変の元凶

「………」


「……おい、大丈夫か?」


 既に勝負が始まった疑似空間では、スレイブが地に手を付き項垂れていた。その姿を見たシグマは、少し喋り過ぎたことを僅かながらに反省していた。


「……この恨み、テメエで晴らしてやる……!!」


 スレイブはユラリと立ち上がり、般若の如き形相でシグマを睨み付けた。


(なんだかなぁ……)


「ウェポンセレクト!! “ナックル”!!」


 スレイブの手に鋼鉄のグローブが装着される。両の拳を握り締め、拳と拳をぶつけ音を鳴らすスレイブ。


「……この前は、お前がレベル1だからって油断したが……今日は決して油断しねえ。ムカつく話だが、テメエは強えよ。

 でも今度は、俺様が勝つ!!」


「ありがとよ」


 スレイブは拳を握ったまま構えを取る。


「――テメエも構えろ!! シグマ!!」


 シグマは脱力させていた表情を引き締める。そしてスレイブを睨み返し、構えを取る。


「――ウェポンセレクト、“ナックル”」


 そしてシグマの腕にもかSSSのナックル、ジハードを装着する。


「テメエもナックルか……おもしれえ!!」


「スレイブ、お前には悪いけど、さっさと終わらせる。……俺は、こんなところでモタモタしてるわけにはいかねえんだよ」


「へん! いいじゃねえか……オラ行くぞ!!」


 スレイブはシグマに向かって猛進する。しかし前回とは違い、決して表情をシグマから逸らさず、拳を大振りすることもない。間合いに入るなり、スレイブは最短距離でシグマの顔面めがけ拳を突く。しかしシグマは体を逸らせあっさりと躱す。そして逸らした方向と反対方向に体を捻り、そのまま拳をスレイブの顔面に打ち付けた。


「うぐっ――!!」


 スレイブは後方に吹き飛ぶ。それでも何とか足をつき体勢を整え、すぐにシグマの方を見る。


「――ッ!? いない!?」


 しかしシグマは既にその場から姿を消していた。スレイブは周囲を必死に見渡す。その時、シグマはスレイブの背後に移動していた。


「――こっちだ」


「な―――!?」


 声をかけながらシグマは軽く宙を舞う。そして体を捻り、振り返ろうとするスレイブの横顔に鋭い蹴りを入れる。


「――ッ!!」


 凄まじい衝撃を受けたスレイブの顔面からは鈍い音が聞こえ、再び吹き飛ばされた彼の体は地に伏せる。

 気が付けば、たった二発でスレイブのHPは既に瀕死になっていた。


(まだ終わらねえのか……)


 シグマは今回ステータスを確認していない。それは以前戦った時に、既にスレイブの力を把握していたからだ。前回は一太刀で終わったが、今回はまだ終わらない。それは、スレイブの特訓の成果だった。人前で無惨な敗北を晒されたという屈辱を晴らすために、彼は様々なモンスターを討伐し、レベルを上げていた。時には敗れ、ランキングが下がることもあった。それでも自らを鍛え抜いた彼は、こうしてシグマに拳を向ける。

 ……しかし、シグマには届かなかった。無論それは仕方のないことだ。チートキャラであるシグマは、ステータスは変動こそするが、結局は高い水準を保っている。ミトリプルミリオンの“普通のキャラ”であるスレイブに勝てるはずがなかった。

 地に這いつくばりそれを理解したスレイブは、土の味が広がる口をギリギリと悔しさで音を鳴らす。


「勝ちたい……勝ちたい!!」


 それは今までスレイブにはなかった感情だった。自分よりも弱い相手ばかりを相手して、自らの中にあるちっぽけなプライドを満たす毎日。そんな中現れたのが、シグマだった。レベル1の“雑魚”であったはずのシグマをいつも通りにぶちのめそうとした。しかし逆にのされてしまった。それが、彼の世界を一変させた。どうしても勝ちたいと思った相手。自分よりも格上だと認め、それまでなかった“挑戦”という選択肢。そして対峙する。届かぬ拳。触れることすら出来ない。心の奥底で無意識に尊敬の念を感じると同時に、それがたまらなく悔しかった。


 地に寝そべり睨み付けるスレイブに、シグマは静かに歩み寄る。


「スレイブ……そろそろ終わろう。俺は、忙しいんだよ」


「――――ッ」


 ゆっくりと足を踏み出すシグマ。そんな彼の視界に、妙なものが映った。



「………あれは?」


 シグマは足を止め、“それ”を見つめる。その視線が注がれるのはスレイブの頭上の青空。その青の中に、黒い塊がユラユラと揺れていた。目を凝らすと、それに見覚えがある。


「……漆黒蝶?」


 それこそ、ギガントトロールを討伐した時に見かけた漆黒の蝶。体を陽炎のように揺らしながら、フラフラと旋回しだんだんとスレイブに近付いていく。


「……おいスレイブ、お前の頭上……」


「あ?」


 スレイブはシグマの異変に気付いた。不意打ちでもなさそうなシグマの態度に困惑しながら、立ち上がり上空を見る。しかしその視線が漆黒蝶を捉えることはなかった。


「なんだよ……俺様の頭上がどうしたんだよ」


(見えてないのか?)


 空をキョロキョロと見つめるスレイブ、漆黒蝶は、そんな彼の額にゆっくりと止まり、羽を休めた。……かと思えば、急に漆黒蝶はドロドロとした黒い液体に変わる。


「―――ッ!?」


 粘着性が高そうな液体が、スレイブの体を完全に包み込んだ。しかしスレイブは未だに空をキョロキョロと見渡している。


(気付いてない? あれは、俺にしか見えてないのか?)


「―――――ッ!!!!」


 その瞬間、スレイブに異変が起こった。体全身が脈を打ったかのように小刻みに震える。


「……お、おい。大丈夫か?」


 スレイブからの返答はない。その目は、完全におかしくなっていた。目は白目を向き、口を僅かに開けたまま動きを固める。


「おい――!!」


「――アアアアアアアアアアアアアア!!!!!」


 シグマが強めに声をかけた瞬間、スレイブはこの世のものとは思えないほどの叫び声を上げる。そして体を包んでいた黒い液体は、球体となりスレイブの体を完全に包み込んだ。その球体はどす黒く、ゴボゴボと音を出しながら、中で何かが(うごめ)いている。


「………!!」


 シグマはその光景に圧倒されていた。それは彼にでも分かる“異常事態”。いったい何が起こってるのか、彼には全く分からない。しかしそんな彼にも一つだけ分かることがあった。これが、“ゲームの仕様ではないこと”。

 辺りは静寂に包まれる。空の雲は速く流れ、まるでその空間から逃げるかのようだった。


 ――そして次の瞬間、球体はガラスが割れる様に破られる。そして中から出てきた“それ”は、雄叫びを上げる。


 

 ウオオオオオオオオン!!!



 それは全身が金色の毛並に覆われた身の丈三メートルはあろうかと思われる巨大な狼。二足歩行をし、両手には刀のように長く鋭い爪が四本ずつ。牙は鋭く尖り、歯を見せ威嚇する。黄金色の尻尾はユラユラと揺れ、力強い足は大地を捉える。

 

 シグマは絶句していた。信じられない光景が目の前にあった。それでも彼は声を出す。


「――“モンスター”情報表示!!」


 彼が呼称したのは“モンスター”情報。相手は、既にプレイヤーではないことを瞬時に理解していた。



 モンスター … スレイヤーウルフ

 ランク   … A



「嘘だろ……プレイヤーが……モンスターになるなんて……」


 そして彼は理解する。この周辺の地区に不釣合いなランクAモンスター“ギガントトロール”が現れた理由を。


「――漆黒蝶……!!」


 漆黒蝶がプレイヤーをモンスターに変える。おそらく、あのギガントトロールは漆黒蝶に“汚染”されたプレイヤー。

 つまりはその蝶こそが、世界を包む異変の元凶。ならば、漆黒蝶とは何なのか……それを考える(いとま)は、“スレイヤーウルフ”は与えてくれない。


 ウオオオオオオオン!!


 叫び声と共に牙を見せつけながらウルフは大地を駆ける。風のような速度でシグマに迫り、その長い爪を振りかざした。


「―――ッ!!」

 


 ……そこは疑似空間。誰の助けもない一騎打ちの戦い。今回のランキング戦は時間無制限のデスマッチ形式。どちらかが敗れるまで戦いは続けられる。それはつまり、勝たなければ出ることが出来ない。そしてシグマが敗れれば、このモンスターは傷跡残る街を襲う。逃げることは出来ない。負けることも許されない。ギガントトロールの時とは違う。何の手助けもない。


 孤独なシグマに、金狼は無情な鋭爪を向ける。



 

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