第一章 鴉 第二章 尼僧の死体 第三章 秘密 第三章 行場の声 第四章 下山した男 第五章 霊夢
ここは 比叡山と並ぶ、日本の仏教界の聖地、高野山である。或る澄みきった早朝に、山中の宿坊寺院に勤務する、初老の調理師の男が、何故かいつもの通い慣れた道を歩かず、空海の眠る奥の院に参拝してから出勤しようと思い立った。(オン アボキャ ベイロシャノウ マカ ボダラマニハンドバ ジンバラハリバリタヤ ウン…) 光明真言をブツブツ唱えながら、人の気配の無い奥の院に続く道を彼は進んで行った。左右におびただしい無数の苔だらけの墓石が並んでいる。戦国大名でも、特に目立つ、前田利家の巨大な墓石、織田信長を本能寺の変で滅ぼした、三日天下の明智光秀の墓、幾多の有名な大名の墓を横目に見ながら、彼は先を急いだ。朝靄の中に真っ黒な水掛け地蔵の姿が右手に見えて来た。そのすぐ傍には修行中に亡くなった行者の卒塔婆が立っている。彼は水掛け地蔵の傍を通り過ぎ、空海の眠る廟の前に急いだ。1人の若い僧侶が、廟の前で読経していた。彼はその僧の一歩後に下がり数珠と、経本を取り出して、僧の読経に自分の声を重ねていった。一通りの読経が終わり、彼は奥の院を、清々しい気持ちで後にした。早足で左になだらかな道を抜け、脇道に入りながら、新鮮な空気を思い切り吸い込み、彼は宿坊への道を急いだ。いきなり、前方の鬱蒼と立つ、高い木々の辺りからバサバサと羽音がし、真っ黒な塊が飛び出した。ガアガアとしわがれた声で鳴いている。見上げると、一際高い杉の樹の周囲をグルグル回りながら、複数の鴉が鳴き騒いでいた。彼はチッと舌打ちをした。(せっかくの気分が奴らのせいで台無しじゃねえか!)彼は足を速めてその杉の樹の下を通り過ぎようとした。と、その時、彼の視界の端っこに、黒い大きな布切れのようなモノが、チラリと見えた。(何だ?また、観光客の忘れ物か?何だってあんなとこに。)彼は近づいて確認しようとした…!ワアッと叫んで彼はその場にヘナヘナと座り込んだ。黒い僧侶の服を纏った死体が、ダラリと彼の頭上にぶら下がっていた。腰を抜かした調理人と、首吊り死体の僧侶の杉の樹の周辺を鴉達がガアガア泣き喚きながら、舞っていた。