48・魔力のない星から来た者は、それに対する耐性や、活用するために備蓄する能力を習得する方向で進化が起きていない。
空では月の端から太陽が顔を覗かせ、夜が明けようとしていた。
木々に囲まれた森の中は未だ暗闇に包まれているが、空に近い樹上を寝所とする鳥たちは、朝の訪れを感じ鳴き始めていた。
そのようなまだ暗い時間だというのに、宿は人の移動する気配で慌ただしかった。定期便の乗客たちが移動の準備を始めたのだ。
騒がしかった宿が静かになり少し経つと、外に動きがあった。乗客がそろい、定期便が次なる休憩地点へ出発したのだ。
気配に敏感なロゲンハイドは、定期便が動き出したのを感じた。
数日という短い間であったが寝食をともにした定期便が去るのは、なんだか名残惜しい。と、そう思うのだった。
定期便の気配を感じなくなるまで見送った後、そろそろ頃合だろうと、ロゲンハイドはオキシの元へと移動する。
休憩地点を見て回りたいので、夜が明ける頃に教えてほしいと、頼まれていたのだ。
『オキィシ、夜が明けたよ』
ロゲンハイドは、いつもの通り一声かけた。
「うう、もう時間なのか」
観察の邪魔をされたオキシは恨めしそうな声をあげつつも、瓶の片付けを始める。
部屋を空ける時は、貴重品を置いたままにするわけにはいかないのだ。
「ん? こんなところに巨大なプルテウスがいる。……いや、足は三本だから、ちょっと違うか」
二つ目の瓶に手を伸ばした時、その瓶の横に何かいることにオキシは気がついた。視線を向ければ、それは細長い三本の足を使い器用に立っていたのだ。
片付けの手を止め、いつの間にか部屋に侵入していた奇妙な生物を凝視する。
ウニの幼生であるプルテウスに似たその生物の表面は薄い膜に覆われている。その中を満たしている体液は透明で、移動するためであろう足はあれども、それを動かすための筋肉はおろか、心臓や消化器などの器官がまったく見当たらなかった。まるで水風船のような外見で、分類学上、どの界に分類されるのか想像もつかない構造をしていた。
「膜と水だけ、か。この組み合わせは、ロゲンと同じ構造だな。……それはとにかく、これはぜひとも捕獲して、ゆっくり観察してみたい」
微生物ほどではないが、このような不思議な生き物にも興味はあるのだ。
「オ、オキィシ。おいらだよ、おいら。よく見て!」
このままでは保存瓶の中へ入れられそうな勢いなので、ロゲンハイドは急いで足を引っ込め、水たまりの形状に戻る。
「あ、なんだ、ロゲンか。てっきり、この森に住んでいる不思議生物かと思った。……それにしても、なぜに、そんな形を?」
「這うよりも、歩く方が速いと思って、色々追及してみたらこうなったんだよ」
「そうなのか。足を生やすのなら、いっそのこと八本足にしてみない?」
巨大な緩歩動物に似た生物が、のしりのっしりと歩く光景は、微生物マニアにとって非常にロマンがある話だ。オキシは冗談半分、本気半分で提案する。
「八本? 足が増えると、色々考えなくちゃいけないから無理だよ」
「そうか……」
半分は本気だったので、そこそこ残念な気持ちになるオキシだった。
一通りの片付けを終えると、オキシとロゲンハイドは宿の外へ出た。
「すがすがしい朝だ」
「……天気だけはいいよね」
液状化しているロゲンハイドは表情というものはつくれないが、オキシにまったく同意していないことだけは、その言葉の端から感じ取れる。
この星に住む多くの生物は、多かれ少なかれ大気中の魔力を取り込んでいる。特に生誕のころから魔力の濃い土地に住む者は、魔力が薄い場所に身を置くと、頭痛、めまいといった症状が出たり、疲れやすくなる。それは魔力持つものの宿命ともいえるものだ。
魔力の存在する世界の常識に照らし合わせるならばオキシもその括りに入る。だが、元々魔力のまったく存在しない地球という場所から来たので、魔力不足で体調不良になるという常識は当てははまらない。
むしろ逆に、地球には存在しないものに晒される危険から守るため耐性の能力が常に働いていた。しかし、ウェンウェンウェム地方に来て、魔力濃度が下がり、オキシの体にとって危機を感じない状態に近づいた。そのため、魔力に対する耐性の発動に使うエネルギー分、負担が減ったので、過ごしやすい環境であると体は感じていたのだ。
当のオキシは森林浴効果であると思っているのだが、実際にはそういうことが起きていたのだ。
「やっぱり町と森じゃあ、空気が違うね」
「違いすぎるよ……」
魔力が薄いということに実感が持てないオキシは、呑気に空を見上げている。
天に蓋をするように葉は折重なり、それらを縫うように蔦が絡み、木漏れ日の通り道を塞いでいる。木々は蒸散し、土は湿った香りを生み出している。
夜のうちに降りた水分が靄となり漂い、森の朝は独特の匂いがたちこめている。その靄の中にも微生物の存在を直に感じる。湿り気に溶けて広がるその香りは、森の微生物たちが作り出した、天然の香だ。
森の湿った空気は露の香りを含み、風とともに森の枝々を濡らしていく。森林の緑の原は湿った空気に揺れていた。
「いい空気だ」
「……」
大自然に満ちる空気に、上機嫌のオキシは宿のすぐ裏にある急な小道を一気に駆け上る。
ロゲンハイドは無言のまま、オキシの後についてのんびりと歩いた。
坂を上りきった先には、溜池があった。オキシは、案内本を片手に周囲を見渡した。
「地図によると、この辺に見晴台があるはずなんだけれど」
案内本には、簡略の地図しか載っていないため、おおよその位置しか分からなかった。
「この辺は見当たらないな。池の向う側かな」
「見つかったら教えて。それまで、ちょっと休憩したい」
いつも以上に元気なオキシとは対象的に、ロゲンハイドは坂道のせいで疲れた様子だ。
「分かった。無理しないで休んでて」
そう言うとオキシは見晴台を探しに、行ってしまった。
「なんで、あんなに元気なんだろう」
低魔力の中を苦ともせずに歩き回れるのか疑問に思ってしまう。
オキシからの魔力供給は滞りなく、しかも時折、魔力の塊も貰っている。そのおかげで、魔力の残量は充分にあるのだが、いくら体内に魔力が満ち足りていても、じっとりと粘りつくような気怠さは抜けないのだ。
ロゲンハイドは、その身を水に浸す。水そのものである精霊のその体は、水に触れた瞬間から同化し境が見えなくなる。
「うう、水中の魔力も薄いのか……」
大気中の魔力濃度は非常に低く、そこから満足できる量の吸収は望めない。ならば、己の性質に近い水場からならと、清らかな水にその身を浸すも、水流に含まれる魔力も薄く、だるさを癒すほどの効果があるとはいえなかった。
しかし、魔力は補給できなくとも、新鮮な水に身を任せることは、良い気晴らしにはなった。
「ロゲン、お待たせ」
見晴台を見つけたオキシは、ロゲンハイドが休憩している場所へ戻ってきた。
オキシの白衣の裾には、見晴台を探しに行く前には存在しなかった真新しい土がついている。探しにいくと良いながら、何か微生物を採取していたであろうことは想像に難くない。
「この辺から気配はするけれど……ロゲン、どこ?」
戻って来たはいいが、肝心のロゲンハイドの姿が見えない。契約をしているおかげで何となくの居場所は感じるのだが、水と同化している精霊を見つけることは不可能に近い。
池に向かって語りかけ、待つこと数秒、水が盛り上がり、三本の足が生え、水辺へ這いあがってきた。
「休憩できた?」
「ちょっとは、ね」
本当に気休め程度ではあるが。
「ちょっとまだ辛そうだね……少し魔力あげようか?」
動きが緩慢なロゲンハイドを見て、オキシは魔力を小さくちぎって丸めたものを渡した。
「ありがとう。無理しなくてもいいのに、魔力が尽きちゃうよ」
事実、オキシが保有する魔力は町にいる時よりも薄くなっている。そのような状態で頻繁に魔力を分け与えていたら、回復する量よりも消費する量が増えてしまう心配があった。
「僕は平気。すぐ補充される感覚はするし」
魔力を使ったり、与えたりした直後は、体内にある魔力は減るのだが、それは一瞬のこと。減った分だけ補充されていることは分かるのだ。
「でも、町にいる時よりも、体内の魔力量は低くなってるよ」
それだけは間違いない。契約者の魔力の状態をみることは、精霊にとっては大切なことである。契約者の魔力に何かあったら、自身にもかかわることだからだ。
ロゲンハイドは、このまま魔力が低下してオキシが寝込んでしまうのではないかと不安に思う。
「でも、僕には、今、この状態でいっぱいに感じられるんだけれど」
魔力が呼吸を通じて肺の中へ入り全身に染み込んでいく感覚は、今はない。それはこれ以上、体内に入らないことを意味するのだ。
「そうなの? 回復量が減ったわけではなくて?」
ロゲンハイドが町にいた時に見たオキシの保有魔力はこの世界の平均値、つまり大気中に含まれる魔力濃度とほぼ同等の量であるのを確認している。しかし、ウェンウェンウェム地方の森を進むにつれ、低くなる魔力濃度と同調するように減っていき、今ではこの森に漂う魔力と同じくらいの濃度しか感じられないのだ。
「変わりなく回復はしていると思う。でも、僕は魔力については、体内に有るか無いか、入るか入らないかくらいしか、わからないから。それ以上のことはちょっとまだ……」
肺の中の空気量の最大値だとか、残量だとか、普段、意識していないのと同様に、魔力についてもはっきりとしたことはわからないのである。
「んー、最大保有量は……数日で変わったりしないんだけれどな」
「よくわからないけれど、実際には総量が減っているのか。……もしもこのまま保有魔力が下がっていって、ロゲンに渡す魔力がなくなるのは困るな」
森の奥へ行くこととなれば、体内魔力がますます低下する可能性も捨てきれない。元より魔力を必要としていないオキシには何の問題もないが、ロゲンハイドには死活問題だ。
魔力がなくなったとしても、ロゲンハイドが困らないように、常備食的な魔力団子をいくつか作ることも検討しなくてはならないだろう。つくった魔力団子は好魔力微生物に冒されないように密封容器にでも入れておけば、数日は残せるだろうか。そのようなことを考えるのだった。
「いや、おいらのことよりもね。オキシの体調がまのまま進むと……」
緑の砂漠の入り口でこれなのだ。これ以上奥地へ行くのは止した方が良い、と言葉を続けたいロゲンハイドだったが、オキシは自分の状態などまったく気にする様子がない。むしろ、下見の段階で気がついて良かった、とばかりに、何やらメモしている始末だ。
「僕のことは、気にしなくともいいの。分かったうえで、やっているんだから」
「……すぐに見境がなくなるんだから。慎重なんだか、大胆なんだか」
もはや病気の域だと、ロゲンハイドはそう思うのだった。