47・そして、いつものように夜を過ごし、気がついた時には、空は明るんでいるのだろう。(2)
キセノンと別れ、オキシとロゲンハイドは宿泊施設に向かう。
「ここも宿しかないんだね」
ロゲンハイドは高い壁と木々に囲まれた休憩地点を見渡した。
森を切りい開いた広場があり、宿泊施設兼売店の高床式な建物が門から遠い場所に建てられている。樹や壁の上に見張りのための小屋がいくつか作られているが、地上にある建物はその宿だけだった。
ウェンウェンウェム地方にある休憩地点は、基本的に民家が存在しない。人が定住する場所ではなく、森を抜けるための休憩に使う。ただ、それだけの場所なのだ。
駐車場から宿までは、目と鼻の先だ。あっという間に着いてしまう。
「異国情緒溢れているな」
オキシは宿を見上げた。水をはじく葉を何枚も重ね、急斜屋根を持つその建物は熱帯多雨地域の家屋に近い形状をしていた。
高床式なので、宿の入り口は梯子を登った先にある。少し湿気た音をたてる木製の梯子を上り、開けっ放しにしてある木の扉から宿の中へと入る。
虫除けの香の、少し煙たいような匂いが鼻につく。それに混じって、古い木造建築特有の匂い、悪く言えばカビ臭く、良く言えば材木の香りを微かに感じる。自然の素材を存分に生かした宿であることは、容易に想像できた。
宿に入ってすぐにあるラウンジは、荷物の多い客がいても対応できるように広く取られていた。
床板は湿気を逃すためか、板と板の間に数ミリの隙間が空いている。風の強い日には隙間風がひどそうな構造である。
スカスカな床の一方で、木製の壁は雨の侵入を防ぐためか、隙間無く板を並べ、しっかりとした作りとなっていた。
オキシが宿の内装に気を取られていると、肩を叩く者がいた。
「おや、どうしたのかな、ボク? お父さんとお母さんは?」
入り口で辺りを見渡しているオキシを見て、親を探していると思い声をかけたようだ。
皺の刻まれた薄い灰緑色の樹皮には優しい笑みが彫られている。人面の樹が笑う、といえばホラーでしかないが、彼らは化け物でもなんでもなく、まぎれもなくヒトなのだ。
食糧の乏しいウェンウェンウェム地方は獣人が住むには厳しい土地だ。そのため休憩地点に常駐する者は、光合成のできる樹人がほとんどの割合を占めるのだ。
「あ、いえ、僕、ひとりです」
オキシは言葉に詰まりながらも、返答した。
妖精の時もそうであったが、一目で植物と分かる造形のヒトは、動物型のヒトにはない独特の雰囲気がある。魅せられる、と言わないまでも、一瞬思考が止まってしまうのだ。
オキシに声をかけた老婆も、歳を召しているとはいえ整った顔立ちをしており、思わず息を飲んでしまうほどだった。
「一人旅かい。偉いねえ。向うにいる爺さんのところで受け付けできますよ」
枯草のような細い腕を伸ばし、指を差す老婆。
ラウンジの右手の奥に小さな台がひとつ。そこに枯木のような老爺が座り、客の対応をしていた。この宿は樹人の老夫婦が切り盛りしているようだ。
「わざわざ、ありがとうございます」
オキシは礼を言い受付へ向かった。
「これに名前を記帳してください」
オキシは老人に言われるままに台帳に名前とを記し、四泊分の宿泊費を払った。
一泊のみして明日出発する定期便に乗っていくのではなく、その次の定期便が来るまで宿泊するということで、ちょっとした説明が必要となり、少し時間を食ったが無事に支払いを済ますことができた。
「ちょっと待っていてくださいね。……はい、どうぞ」
台の横に掛けてある木製の札を一枚、腰に下げてある袋からは小銭を取り出し、オキシに手渡した。
「空いている場所ならば、好きな場所を選べますよ」
札が入り口の柱に下げてある場所は使用中だ。それ以外であれば、好きな場所を選べる仕組みとなっている。そう老人は説明する。
「ゆっくり休んでいってください」
「あ、はい」
丁寧にお辞儀をする老人に釣られて頭を下げ返し、オキシは受付を後にした。
「どの場所にするの?」
液体の体を床に這わせながらロゲンハイドは尋ねる。
「端のほうか、人の少ないところかな」
宿泊客自体は少ないので、ふたつの希望を満たす場所もあるだろうと、ひとまず一周してみることにする。
実はこの宿には厳密には部屋がない。天井の高い大きなひとつの部屋に、網代編みの簾で区切られた空間が、二十程度あるだけ。簾の床側には重しをしてちょっとした風圧でも揺れないようにし、ちょっとした事では中が見えにくいように工夫されている。しかし、天井は抜けているので、音や光は簡単に隣に漏れてしまう状態だった。
オキシは一晩中起きていて観察をする予定だった。通路を挟んでいるとはいえ、壁は簾一枚。音を立てないように気をつけようとは思うが、すぐ隣に人がいた場合には、物を出し入れする気配やささいな話し声で迷惑をかけかねないのだ。
良い部屋がないか探しながら、人ふたりが並んで何とか通れる幅の通路を歩く。
「ここは大部屋かな」
「そうみたいだね」
「こんな使い方もできるのか」
四つの区画を一つに合わせ、複数人が一緒に過ごせるようにしていた。簾を移動するだけなので、簡単に間取りを変えることができるのだ。
大部屋の出入り口は大きく開いており、覗くつもりはなくとも、中の様子がちらりと見えてしまう。
柱と柱に縄を渡し、服や肌着などの洗濯物が干してあった。床には適当に丸められた寝袋が、壁際には木箱が積まれている。定住者ではないようだが、数日はこの場所にいるようだ。
(オキシ以外にも、こんなところに滞在する物好きがいるんだ……)
世の中には酔狂な者が意外といるのだなと、ロゲンハイドはヒトの好奇と冒険の心に感心しながら、部屋の横を通りすぎる。
大部屋を通り過ぎてすぐ、二人の青年が向うからやってきた。細身の両生族と太身の哺乳族というデコボココンビの青年たちは木箱を運んでいた。定期便が来たので、食料品や日用品を買い込んだのだろう。
オキシとロゲンハイドは邪魔にならぬよう端に寄る。軽く会釈を交わし、彼らを見送った。彼らは大部屋へと入っていく。
「これで最後です」
荷を運んでいた青年のうち、どちらのものかは分からないが、そう報告する部屋から漏れる。
「うむ、おつかれさま」
報告を受け、貫録のある男性の声が二人を労う。聞こえてきた会話から推測するに、この大部屋には少なくとも三人はいるようだ。
(家族、というわけではなさそうだし)
大部屋の宿泊客に気を取られ、ロゲンハイドの歩みは遅くなっていた。
「あれ、ロゲンはどこいった?」
先行していたオキシは、通路の突き当たりで後ろを振り向くと、ついて来ているはずのロゲンハイドの姿が見当たらなかったので、あたりを見回した。ロゲンハイドは水たまりのように平たい形をしているので、見失いやすいのだ。
「あ、今行くよ」
よそ見をしていて移動速度が落ちててしまったのだろう、ロゲンハイドはオキシに置いていかれてしまった。ロゲンハイドは追いつこうと、オキシの元へ急いで移動した。
「あ、いたいた。この部屋にしようと思うんだ」
宿泊客は十人にも満たず、空き部屋の方が多い。一周するまでもなく、使用中の部屋が周囲にない優良物件を見つけたのだ。しかも角部屋である。
オキシは入り口に札を下げ、中に入る。部屋の広さは二畳ほど。隅には錠付きの木箱が設置してあり、その横には丸まったゴザのようなものが立てかけられていた。
荷物を置く場所と、横になるだけの最小限の空間しかない、本当に簡易宿泊所なのだ。
オキシは木箱の中に荷物を入れ、ゴザを敷いた。そして、靴を脱ぎ、ゴザを踏みしめた。固い木の床に直接座るよりは良いが、そこで眠るとなると毛布や寝袋がなければ心地は悪いだろう。
だがしかし、オキシには寝床の快適さなど関係のない話であった。そもそも微生物を眺めるので、今夜も眠るつもりなどないのだ。オキシにとって、落ち着いて観察ができる場所があれば、それだけで充分なのである。
「さて、明日に備えて休んで……」
と、ロゲンハイドは提案しようとしたが、オキシにその気がないのは明白だった。
オキシは記録用の本を広げ、荷物からは瓶を取り出し並べ始めていた。観察の準備は整いつつあり、確実に「自分の世界」が作り上げられようとしていた。
「……毎度ながら、よく飽きないなぁ」
ロゲンハイドにはすべて同じに見えるのだが、オキシに言わせれば、町周辺に住むものと森に住むものには差異があるのだという。その微々たる生命の活動が、個性が、生き様が、オキシの観察欲に拍車をかけているのだ。
寝食を惜しんで観察をしようとするその姿は、呆れを通り越して畏怖さえ感じてしまう。
「オキシは自分の世界に入っているし、おいらは何しようかな」
月明かりの届く町とは異なり、森の夜は早い。薄暗くなり始めたと思えば、あっという間に闇に飲まれてしまう。
町からほとんど出たことがないロゲンハイドにとって、定期便に乗るような遠出は心ときめくものはあるのだが、場所が場所である。気軽に動き回れる場所ではない。魔物と隣り合わせ、魔力も薄い、このような土地では、かよわき精霊にできることなど限られている。
「やっぱり移動方法の研究かな」
本来の姿である液状体は消費する魔力がないに等しい事は利点なのだが、地上の移動に難がある。というよりも、この地に来るまで、その形態で地上を移動する事を考えたことがなかった。
液状体は、本来、水中に適応した形態である。水に同化し漂うに特化したその体は、魚が泳ぐのと同様に、特別何が必要というわけもなく水中を自由に移動することができた。
一方、地上では浮遊の魔法を用いていた。生物が呼吸をするように魔法を当たり前に使用できたので、不便なく生活できていたのだ。
しかし、魔力の節約を迫られている今、これまでのように浮遊魔法で地上を移動しようとしたのでは、存在が保てなくなってしまう。
ロゲンハイドは、甘くみていた。魔力の薄い環境を。無い生活、ということがどれほどのことなのか、話に聞いて漠然と想像していたが、実際に体験してみると、思っていた以上に不便なこと、この上なかったのだ。
「この姿のままでの移動は諦めて……少し魔力は使うけれど形態変化して、歩行の真似かなぁ」
今までは体内の液体を移動させ、形を変える方法で移動していたが、速度が遅すぎた。初日よりは体の扱いに馴れ動きはスムーズになってきたものの、それでも速度は遅いのだ。
最低でもオキシの歩調に合わせられる速度は出したい。と、数日、動く練習を続けてみたが、このままの状態で練習しても、速度の向上は見込めないだろうと結論づける。なぜなら、一回の伸びで移動できる幅が小さいからだ。
ロゲンハイドは液状の体を震わせて、棒のような細長い足を二本作る。変形するだけならば、魔力の消費も少なくて済む。
「んんん……無理」
歩幅を稼ぐために長い足を作ったのだが、歩く以前に、立つことができなかった。バランスを崩し倒れてしまうのだ。
そこで、足の裏の設置面積を増やしてみた。ただの棒状だった足の、その先端に平らな円盤を作ったのだ。そうすることで立つことは可能となったのである。
そして、いざ歩こうと足を一本上げると、問題が起きた。一本足で支えている体は不安定になり、上げた足の方へ倒れそうになってしまうのだ。足を上げることも、ままならなかった。
「歩くのってこんなに難しいものなのかぁ」
二足歩行することは、実はすごい能力なのだと、ロゲンハイドは感じた。
二本足では無理と感じ、解決案として足の数をもう一本増やしてみた。
足を三本とすると、常に二点で体を支えているので転ばずに歩くことは可能となった。しかし、歩けるものの、足の着地点を考えないと、うまく重心を移すことができず、安定して歩けないのが難点だった。
それでも、這って歩くよりも歩幅を大幅に増やすことができるので、馴れればかなりの移動速度の向上が見込めるとロゲンハイドは思った。
「あんまり接地面を大きくしすぎると持ち上げが大変になるし、足が長すぎるとぷらんぷらんして着地の狙いが定まらないし……」
魔力消費を抑えつつ、適度な機動性を持つ、そのつり合いが取れる形態を見出したい。と、ロゲンハイドは形を変えながら、一晩中、部屋を動き回るのであった。