45・毒と薬は、表裏一体。有益にも有害にもなる物質(3)
「今はあんまり種類がないけれど」
かわいい微生物たちの大部分は、虎狛亭でお留守番だ。手元にあるのは、定期的に世話が必要な数種類だった。
(あの中で、自家製の顕微鏡でも、見ることができる大きさの微生物となると……)
オキシは、昨晩、採集したものを含めて、微生物たちの大きさを思い浮かべる。
ロゲンハイドが作った水レンズを利用した顕微鏡は素人の自家製ということもあり、あまり精度がよくない。ある程度の大きさがある微生物を選ばなくてはならないのだ。
「これと、これと……あとはこのあたりか。あ、ロゲン。顕微鏡の準備しておいて」
今回の条件に合致する微生物が入っている保存瓶やシャーレの培地を探し出し、床に並べた。ついでに、ロゲンハイドが持っている顕微鏡を出すように言う。オキシは顕微鏡は必要ないので、持っていないのだ。
「そ、それがビセーヴェツなのか?」
透明な水が入った瓶、透明な水と土が分離した瓶、どす黒い粘着質の液体に満ちた容器が並ぶ。
それだけなら、まだよかった。それらの液体は、何か特別な魔法が施してあるのだろうと、思えるからだ。
しかし、オキシが次に取り出した保存瓶の中に入っていたのは――キセノンは絶句する他なかった。
「そうだよ。あと、これも良かったし……あぁ、これも捨てがたい」
出てくるのは落ち葉、苔、さらには明らかにカビが生えていると分かるものさえあった。
「……」
数秒ほど思考が停止していたが、何とか声を出す。
それらは、「ビセーヴェツ」という謎の技術を扱うために必要な素材なのか、何らかの効果がある完成品なのかは分からないが、不気味な見た目をしているので、目をそらしたくなる。微生物とは何かという疑問を持たなければ良かったと、後悔し始めているキセノンであった。
「何も怖いことはないよ。どれも綺麗な子たちだから」
カビの入った容器を両手で持ち、目じりを下げうっとりとしている。
カビは、肉眼で見ると不気味な色でモサッとしているが、拡大してみれば別世界。透明に輝く細い糸で織られた絨毯が広がるのだ。それはもう、溜息が出るほどの美しさを持っているのだ。
「き、きれい?」
思わず唇鱗がひきつった。
いかにも毒素を周囲に散らしていそうなカビに、そのような要素がどこにあるのかキセノンにはわからなかった。美的感覚は人それぞれというが、その言動はまったく理解できなかった。
「おすすめはこの木の実に生えたカビなんだけれど」
色とりどりのふっさりとしたカビが表面を覆っている。触ればぶよりと気色の悪い感触が返ってきそうな具合である。もはや何の木の実だったのか、果たして本当にそれは木の実なのか、原型がわからないほどであった。
「いいよね。このふわふわ感、たまらない! このカビにはね……」
オキシが続きを喋りだそうとした時、待ったをかけるものがいた。
「オキィシ、その話は後で、だよ。それに初心者にカビは無理だよ」
ロゲンハイドは一般人の感想を代弁する。
顕微鏡で覗けば確かに美しいものであるのはロゲンハイドも知っていた。オキシに持たされた顕微鏡で何度も覗いたからだ。だが、何度も見たからといって、それでカビが好ましくなるかといえば、否である。
オキシの「カビ愛で行為」には大分慣れたものの、カビそのものに対する生理的な忌避感はそう簡単に消えるものではない。
ましてや顕微鏡を知らない者にカビを見せつけても、それを見たいと思うものはいないだろう。
「そ、そうか。……となると、これがいいかな。こっちも素敵だよ」
ロゲンハイドが言うのなら仕方がないと、別の容器を手に取った。
「なんだ、それは」
どろりとした液体の中に、小動物の骨らしきものが見て取れる。いかにも魔術的な効能のありそうな薬品である。
魔法がないという土地から来た技術のせいか、中身からは特別な魔力の波動は感じない。どのような魔法が封じられているのか想像できないが、中に入っている骨の存在感、骨にまとわりつく黒い液体、そのおぞましい外見に、何か呪いの類の道具ではないかとキセノンは想像する。
「これはね、ネズミ……」
「オキィシ、ちょっと、それは!」
ロゲンハイドは、オキシの口を押さえる。この液体は本来あってはならないものなのだ。
『正体をキセノンに知られたら、即時、処分されちゃうよ』
ロゲンハイドは、そうっと囁いた。
動物の屍骸を放置していたものなど、持っていていいはずがない。特に不衛生極まりないネズミの屍骸など、どんな病気を媒体するか、考えただけでも恐ろしい。
ロゲンハイドはその容器は特に嫌いであった。ほんの少しでも蓋をあければ異臭を放つのだ。臭いを感じない精霊だが、容器の中から漏れだす空気の淀みが、死という現象から発生する歪んだ魔力が、非常に不快で吐き気を催してしまうのだ。
「正体がばれなきゃ」
「さっき、言おうとしていたじゃん……」
「そうだっけ?」
何も蓋をあけて中身を見せようというわけではない。さすがのオキシでも、容器内に溜まった臭いを吸えば、気分が悪くなってしまう。そんな強烈な異臭物体を車内で解放したら、顰蹙を買う事くらいわかっていた。
「何でそんなの持ってきたのさ」
「放っておくと蓋飛ぶし……」
彼らの分解者としての能力はすさまじい。活動が盛んなのだ。それゆえ容器内に腐敗ガスが溜まるのも早い。適度に空気を抜かなくては、容器内に溜まった空気の圧で蓋と中身が飛び散ってしまうという惨事が起きかねない。
もしも外出中に借りているあの部屋でそれが起きたら大変なことになる。この微生物を持ってきたのは、定期的にガスを抜くためであった。
「うう、なんでそんなものを取っておくのか、おいらには理解できない」
「うじゃうじゃ動いて、おもしろいのに」
屍骸に住まう微生物はたくさんいるが、虫メガネでも何とか分かる程度の大きさのものもいる。中身を出してプレパラートにしなくとも、そこそこ楽しめる。顕微鏡の目を持たないものでも、面白いほど死体が溶けている様を見ることができるのだ。
「それは、ダメ。絶対、気色悪い。敷居が高いよ。ほらキセノンもそれを見て、顔をしかめているよ」
ロゲンハイドも何度かオキシに勧められたことがあるが、毎回断っている。忌避感がカビの比ではないのだ。
屍骸のいたる所でうじゃうじゃと蠢くものたちがいるというのは、想像しただけでも震えが起きてしまう。
「……そうか」
魔物を討伐しているキセノンならば、屍骸に対して耐性があると思ったのだが、そうでもないらしい。
ロゲンハイドにそこまで言われてしまっては、オキシは諦める他なかった。
「じゃあ……あれか。ミジンコもどき。ミジンコもどきは素晴らしいよ」
ミジンコもどきは、捕食者が猛威を振るい始めると殻に閉じこもる性質を持っている。飲み込まれ難くしているのかと思いきや、あっけなく食べられてしまう。何の役にも立たないと思えるその殻だが、役割はあったのだ。
殻は難消化性で、その大きさゆえ排出もされない。体内に溜まるということは、つまり、殻つきミジンコもどきを食べれば食べるほど、捕食者はうまく餌を取ることができなくなり、飢えていくということになるのだ。
殻つきミジンコもどきのみをたらふく食べた個体は、餌が取れなくなり、最終的には餓死してしまった。そして、捕食者だった屍骸は、すぐに掃除屋であるミジンコもどきに食べられていく。捕食者が被捕食者に、立場が逆転したのだ。
そうなった時、体内に留まっていた殻のミジンコもどきはというと――彼らは生きていた。殻の中で、休眠していたのだ。
どのくらいの間、生きられるのかはわからないが、いつ寿命が来るとも分からない捕食者の中にいることから、かなり長い間眠っていられると推測できる。
殻から出たミジンコもどきは、殻を脱ぎ、すぐに発芽して子孫を残す。暗い体内から外へ出ると光が差す。その刺激で発芽したのだ。
ミジンコもどきの密度が高く逃げ場も隠れ場も少ない瓶の中という狭い空間だったので、極端な結果がすぐに出た形になったが、自然の中では、様々な要因が絡む。殻つきのものだけを食べるという事態になることは頻繁に起こるものではないだろう。
ミジンコもどきが殻を持つような事態になる前に、住処である水たまり自体が無くなってしまうことも多いのだから。
「微生物の生きる知恵って、すごいもので……」
オキシは、ミジンコもどきについて話しだそうとした。が、やはりロゲンハイドに止められてしまう。
「ミジンコもどきの話よりも、見せないの?」
多少不気味な造形をしているが、オキシの言うミジンコもどきならば、初めての人でも、許容できる範囲の生物だ。何より、自分も見たことがあるものなので、安心できた。
「そうだった。……ねぇ、見てみる?」
見て見てと、泥水を強引に勧めるオキシの誘いに、キセノンはしばし思案する。
カビに、不気味な気配のする骨入りの液体、正体不明な塊、いずれも不気味な雰囲気を醸し出している。そのいずれにも「ビセーヴェツ」がいるという。
オキシが差し出しているその容器の中身も、ごく普通の泥の水に見えるが、何かいるらしい。「ビセーヴェツ」がいるという表現を使っている以上、この水には何らかの生物を封じている技術が施してあるのだろう。
得たいの知れない生物を目の前にする、全身の鱗が粟立ち本能が警告を発した。おそらく、まともなモノではないと、直感する。ソレは生理的に受け付けないと、今まで窮地を救ってきた勘がそう告げるのだ。
キセノンは、悪意のない危機的状況を乗り切るため、相手の気分を害さぬよう配慮した断りを考える。
「色々、薦めて貰って申し訳ないが……今回は遠慮する。ほ、ほら。俺はそろそろ、仲間と打ち合わせしなくてはならないんだ」
仕事を理由に去ることにした。実際、この後打ち合わせはするので、嘘は言っていない。始まる時間は、もうしばらく先であるということ以外は。
「ああ、そっか。仕事中だったね。残念だけれど、しょうがない」
「調べ物の邪魔をして、すまなかったな」
うまい具合に断れたと安堵する。
「またの機会に、ね」
そう言ってオキシは、森で採取したものが入っている容器以外を片づけ始める。
「お、おう……」
そんな日が来ないことを切に願いつつ、キセノンはオキシに別れを告げた。
護衛の者が休む席に着き、キセノンは振り返る。オキシは次なる採取物に手を伸ばしている。もとの作業に戻ったようだ。
――その作業と観察は、目的地である「緑の砂漠入り口」に着くまで続いた。