38・妖精はいたずらが大好きで、誰も逃れられない。
草花が揺れて、葉々の擦れるさざめき声が息をひそめて、森の暗がりに溶けていく。
折重なる木々に阻まれ、太陽の明るい光でさえ地上へほとんど届くことはない。まだ日暮れまでは時間はあるが、森はすでに暗くなりはじめていた。
森には照明という文明的なものは存在しない。夜になれば、少し先も闇に遮られるほどに暗いであろうことは容易に想像がつく。日が暮れる前に休憩地点へたどり着くことができればいいのだが、夜の走行は魔物よりも危険だ。日が暮れだしたら、無理はせず、早めに適切な場所で野宿の準備をしなくてはならなかった。
木々に囲まれた道は一定の幅ではなく、ところどころに開けた場所がある。その少し広まった場所に停車した。今夜はそこで夜を明かすことになるのだ。
御者たちはモモーロをしっかりと繋ぎ止め、火を起こすなど、基本的な準備を始める。休憩地点に着くことができていれば、夕食は宿や食事処で食べることもできた。しかし、今夜は野宿、自炊する以外に手段はない。
ウェンウェンウェム地方では、食糧調達の手段である狩猟も採取もあまり意味をなさない。この地で取れるほとんどの動植物は食べても体力が回復せず、数日も食べ続けるとすっかり体が弱って力尽きてしまうのだ。しかし、毒性は弱いものが多く、味も悪くないので、食糧が心もとない時などの非常時は、満腹感と満足感を得るための水増しとして使われていた。
今は初日ということもあり食糧は充分にあるので、無理に食糧調達を行う必要はない。
御者は起こした火を使い、水や食糧を温める。配分を間違えてはいけないので豪華な食事ではないが、御者の作る料理は質素ながらも満腹と満足が得られるよう工夫がなされている。
夕飯は自分の持ち込んだ食糧を食べることもできるが、自身の食糧はいざという時のための非常食だ。ここぞという時まで温存しておく者も多い。そのため、多くの者は御者から買うことが多いのだ。
護衛の者たちは交代で食事をとっている。彼らが完食するまでは非常に早い。あっという間に食べ終えていく。食べる順番が回ってきたキセノンも素早く食べ、見張りの仕事へ戻っていった。魔物や盗賊といった類のものは時も場所も選ばない、常に見張る者が必要なのである。
ほぼ仕事をしているキセノンは、いちいちオキシの行動など気にはしていない。オキシがご飯を食べたことにすることも、いくらでもできる。事実、オキシはそれを決行中だ。夕食はそっちのけで、車の周りをうろうろしていた。
折角、ウェンウェンウェムの地を踏んでいるのだ。何か採取してみようではないかと、オキシは行動していたのである。
行動範囲は客車から二、三歩離れたところまでだ。子供のように辺りをうろちょろして、野宿の場所からあんまり離れると、周囲を警戒している者の目に止まり、連れ戻されることになるからだ。
さらにいえば、電灯のおかげで夜でも明るい日本に住んでいたオキシには、森の作り出す暗闇の中に一歩踏み出す勇気はなかったのである。
森と道の境は背丈の低い草花で覆われ、木々の向うは夜の闇で一寸先も見えない。真っ青にぼうっと光る昆虫たちは、木々と草々の合間を行きかい、釣鐘のような形をした白い花の中に吸い込まれては、その淡く光る命を散らして消えていく。迂闊に森の中に入ってしまったら、闇に潜む得体の知れない生物に栄養を与える結果になりかねないことを予見させる。
森の闇は恐ろしい。
しかしそれでも、オキシはその闇の端で、微生物を採取せずにはいられなかった。日本やフェルミ町周辺の草原地帯とは異なる植生に、オキシの心は踊りぱなしだった。
「あんまり夢中にならないでよ」
声をかけても、返事はない。暗がりの淵に屈み込んでは、無心に草むらをかき分けている行動は、傍から見れば換金できる薬草を探しているようにしかみえない。しかし、オキシに限って言えばそのような採取など、どうでもいいのだ。
「ロゲン、もうちょっとこっちへ来て」
ロゲンハイドの魔力で包まれた液体の体は、ほんのりと光を帯びている。その光りで、もう少しだけ手元を明るく見たいのだ。
草花に隠された岩にびっしりと黄土色の苔が生えていた。ロゲンハイドのその光を受けて瑞々しい光りを体表に映し、夜の闇に不気味に浮かび上がっている。
オキシはその苔を採取した。苔には様々な微生物が生息しているのだ。もちろん苔だけではなく、漂泊したような純白の菌糸に覆われた落ち葉を見つけては壊さぬよう優しく採取し、草むらの中で隠れるように一株、菌に寄生されたのだろうか、まるで実をつけたように変形した虫瘤を持った草を見つけた時は、運が良いとばかりに採取した。そうして微生物がいそうなものを、採取していった。
「また、そんな毒々しいものばかり採取して」
たとえ毒があったとしても、きれいな花や実の類ならばまだ納得はいく。しかし、オキシが採取するものの多くは、鑑賞に耐えない不気味なものなのである。
オキシがある一定の基準で物を採取しているのは、長く一緒にいるのでよく知っているのだが、瓶の中の採取物を見るとやはりぞっとしてしまうのである。
「……さてと、そろそろいいかな」
採取した物は隠すようにポケットへとしまう。採取していたものを知られてしまったら「捨てて来い」と言われてしまうかもしれないと危惧したのである。
めぼしいものは採取したので、客車へ戻ろうとした時、ふと聞きなれない音が鳴っていることに気がついた。それは鳥でも虫でもない、音階を持った旋律で、穏やかな調べを奏でていた。
「何の音だろう?」
音のする方へ顔を向ければ、御者の一人が火の傍らで笛を吹いていた。様々な長さの筒を何本も並べた笛の音色は低音の柔らかな響きをもって、哀愁漂う曲を紡いでいた。
町と町を渡り歩くなど移動の多い者にとっては、音楽というのは数少ない娯楽である。暇な時に弾くように、このような特技を持っている者は多いのだ。
「笛の音だったのか。何だか野宿という感じの雰囲気が出るなぁ」
森の中の焚火、揺らめく火の光に照らされながら、楽器を弾く者。その風景は絵になる風景である。
「おいら、一時、ああゆうのに憧れたことがあるんだよ」
単に格好良いからという理由で、である。ロゲンハイドは生まれてから、様々なものに興味を持ってきた。楽器もその中の一つであった。
「じゃあ、ロゲンは何か弾けるの?」
「笛の類は無理だったね~」
才能云々以前に肺を持たない精霊は、息を使って音を鳴らすような管楽器は適していない。風の精霊ならとにかく、水の精霊であるロゲンハイドは笛に水を通してしまうので、どう頑張ってもきれいに音を出すことができなかったのだ。
ちなみにキセノンのように鱗を持つような種族も固い鱗で覆われた唇のせいで、管楽器系は扱うのが難しい。種族の身体的特長によって、楽器の得手不得手があるのだ。
「ロゲンって、呼吸してないんだ……」
オキシが一番衝撃的だったのは、ロゲンの過去話ではなく、そこであった。
声を発することができるので、息をしているものと思い込んでいた。しかし、思い返してみれば、口や鼻は単なる表面の凹凸でしかなく、内臓という器官らしい器官も見当たらない身体をしている精霊は構造的に呼吸をすることは不可能なのだろう。
ますますもって、精霊という生命体の不思議さに感激する思いだった。
笛の音を聞くのも程々に、オキシとロゲンハイドは客車へと向かう。液状化したロゲンハイドの移動速度は非常に遅いので、オキシは両腕に抱えての移動である。
客車に向かうオキシに気がついた御者が演奏をやめ、声をかけてきた。
「寝るのかい?」
眠る時間には少し早いが、することがないのならば、こんな森の中では眠るくらいしかできないだろう。
「まぁ、はい」
無論、本当に眠るわけではない。毛布代わりの布に包まり眠っている風を装って、先ほど採取したものを眺める計画を立てていたのだ。
「ひとりで眠れるかい? よく眠れるよう、子守の曲でも演奏しようか?」
森の闇は馴れていなければ大人でも恐怖を感じる。それを彼はよく知っていた。
オキシが液状化した精霊をぬいぐるみのように抱えて離さないでいる姿を見ての、彼なりの心遣いであった。
「大丈夫です、お気になさらず」
どうせ微生物に夢中で、聞きはしないのだから。
「そうかい、護衛の人たちがしっかり見張っているから安心して眠りなさい」
「はい、おやすみなさい」
御者との会話を終えたオキシは、客車の扉を外側へ引いて開いた。
本来であれば、このまま客車に乗り込み何事もなく微生物の観察をしながら初日を終えるはずであった。しかし、その穏やかな時間は訪れることはないのだ。
夜の闇は深く、木々の囁く音に紛れて、葉々の擦れる笑い声が、またひとつ、またひとつと伝播する。大地に咲き乱れる草花たちが、意思を持ったかのように揺らめいたことに、気がつく者は誰もいなかった。
「いまだ!」
その言葉を合図に、闇に咲く花たちが動き出した。いや、花と非常に似てはいるが、よく見ればそれには目や口があり、葉根がある。それは妖精が擬態していたものであった。
妖精は植物を由来に持つヒトである。彼らは草や花に擬態することができる。森に紛れた妖精は、精霊の気配察知を持ってしても、普通の草花と見分けるのが難しいほど巧みである。
妖精たちは草花に擬態しながら護衛の目を盗み、客車の下へ隠れていた。最初に客車へ入った者を狙うために。
仲間の妖精の数が多いとはいえ、目標に手をかける前に護衛に感づけれては、失敗してしまう可能性もある。そこは慎重に、行動をしていた。
妖精たちは様子を伺っていた。
彼らにしか分からない、葉擦れの言葉で交わしながら。その時が来るのを待っていたのである。
「うわ、ちょ、何? 草が……」
突然、妖精に体当たりされ、バランスを崩すオキシ。思わず、ロゲンハイドを落としてしまう。
「オ、オキィシ!」
妖精たちは、オキシに群がっている。ロゲンハイドは助けようとしたが、妖精たちに阻まれ、手も足も出ず見ていることしかできなかった。
いたずらを成した妖精たちは次々と去っていく。最後尾の妖精2匹がくるりと振り返り、四本の長い葉根をめいいっぱい広げると、いかにもガラの悪い風を装って言葉を放つ。
「あれ、返して欲しければ、村まで来い!」
「こい、こい」
「場所はリバモリウ村。待ってる!」
「まってる、まってるぅ」
妖精は夜の暗闇も、迷いそうなほど茂った森の中も関係ない。彼らにとって森は庭なのだ。一目散に、彼らしか知らない森の通り道へ消えていった。
「大丈夫か?」
本物の水たまりになってしまったかのように、茫然と動かないロゲンハイドにキセノンは駆け寄り声をかける。
「……オキィシ、さらわれちゃった」
それはあっという間の出来事であった。オキシは大きな袋に詰められて、連れていかれてしまったのだ。小さな体によらず妖精たちには力がある、人の一人くらい何のことはないのである。
「そうみたいだな」
キセノンは静まり返っている森の闇を凝視する。すでに妖精の姿は見えない。今から追いかけても追いつくことはできないだろう。
「妖精が出ただって?」
騒ぎを聞きつけ、他の者たちもやってくる。
妖精は森を訪れる者を困らせるのが好きなことは、皆、知っている。その擬態能力を駆使して、食糧を食べてしまったり、何かを持って行ってしまったり、焚火を消したり、物陰から驚かしたりと、旅人にちょっかいを出して楽しむのだ。
特に食糧を食べてしまう行為は頻発している。大抵、妖精は妖精菓子を食べるのだが、森の外からもたらされるものは非常に栄養価が高く、無性に食べたくなるという理由で、旅人から失敬するのだ。
とはいえ、欲張ってたくさん持っていくことはしない。食べる量は一人につきひとかじり程度であり、十人程度の妖精であればパンの一つでこと足りてしまう。妖精は植物を由来に持つということもあり、大方の栄養は水と太陽光で合成することができるので、多くを必要としないのだ。
妖精が少量しか奪わないので、少しくらいであれば食糧を奪われることには寛容な者も多い。人によっては野宿する時に、パンの一切れでもわかりやすい位置に置いておくことさえあるのだ。
実際、御者も近くの樹に乾燥させた果物を吊るしていた。これで多くの場合は妖精は満足して帰ってしまうので、隠したり、持っていったり、惑わしたり、そういったいたずらの被害に遭わなくて済むのである。
しかし、それはあくまで「多くの場合」だ。
そう、今宵の妖精たちは、いたずらをする気満々であった。彼らにとってはいたずらは娯楽のひとつであり、やはり、時々、無性したくてたまらなくなるのである。
「子供が一人、さらわれた」
目撃した御者がそう証言する。
妖精は何かを持って行ってしまうことがある。問題なのは、人でさえもその対象となってしまうことだろう。興味を持ったものは、何でも持って行ってしまうのである。気配が読み辛く、数で押してくるので、護衛でも完全に防ぐことができないのだ。
「ああ、あの黒髪の子か。妖精が人を持っていくのは珍しいな」
このようないたずらは数年に一度あるかないか、である。
「どうしよう。オキィシが。助けに行かなくちゃ」
「心配なのはわかるが、動くのは明るくなってからだ」
この森を知り尽くしている妖精とは異なり、夜の移動は危険なのだ。さらわれた者には申し訳ないが、救助に向かって遭難してしまっては意味がないのである。
「でも、でも」
水たまりのような液状なのでまったく表情が分からないが、ロゲンハイドは右へ左へ体を揺らしている。非常に焦燥している事がわかる。
「あの子は大丈夫だ。だから、少し落ち着きなさい」
このような時、慌てる事が一番、危ないのである。最年長の護衛がロゲンハイドを宥める。
この地での護衛を長くしている者にとって、妖精が人をさらっていくという事件は何度か経験することである。
誘拐と言っても、所詮、妖精たちの娯楽。村へ行けば、返してもらえる。
命の危険にさらされることはないので、本格的な誘拐よりはましだが、迷惑極まりない行為ではある。
「あれとは知り合いだ、今回は俺が行こう。確かリバモリウ村と言っていたな」
キセノンはウェンウェンウェム地方に詳しい御者に、その村の場所を尋ねる。妖精に乗客がさらわれたり、大事な荷物が奪われた場合は、奪い返しに行かなくてはならない。それも護衛の仕事のひとつである。
「リバモリウ村は、次の休憩地点の近くにある。妖精の居住区までは車が使えないから歩いていくしかないが、遠くはない」
休憩地点の多くは妖精の村と隣接していると言っていい。妖精は村の周辺の魔物を駆除するので、その近くに拠点を作れば比較的安全が確保される利点があるのだ。
たまに行われる妖精の食糧強奪には目をつぶるとして、だが。
「派手に正面突破でいくのか?」
「妖精はそういうの大好きだからな、そうする予定だ」
妖精たちは芝居かかった対応をしてくるので、それに合わせて戦う振りをしたり、居場所を問い詰めたり、忍びこんで助けたり、他にも様々、相手をしなくてはいけないのだ。
それはあくまで遊び、救出の成功は妖精たちが楽しめたかどうかで決まる。すべては妖精の気分次第、というわけだ。
「妖精の誘拐に遭うなんて、本当についてない」
「まったくだな」
妖精たちの娯楽に巻き込まれてしまった一同は、彼らの行動の傾向と対策を出し合うのだった。