37・精霊は、ヒトと共生関係にある寄生生物であると仮定する。
薄く漂う霞は深く薫っている。木々のすき間から注ぐ太陽光は淡く輝きながら揺れ、地表に光の陰を落としていた。
木漏れ日の風が吹き、木々はその表情を変えていく。枝がしなる様に動き、無数の葉が漣を立てる。静寂に風は溶け込んで、雑音に鳴り、響いていた。
すべてを優しく包容するように存在する景色に惑わされてはいけない。大自然の懐に飲み込まれれば、生きては帰れない。絶対的な強者、それが自然であり理なのだ。ここは、そういう森なのだ。
「もうすっかり森の中だ」
人生初の国境越えは、実にあっけないものだった。アクチノ国とウェンウェンウェム地方の間には関所は存在しない。森に入ったら何となくウェンウェンウェム地方というように、その国境は非常にあいまいだった。
国境の位置などは国家間の大きな争いの種になることも多いが、この地に関して言えば、それは杞憂である。
魔物も多く、魔法の使えない不毛の大地に対して、隣接するどの国も積極的に所有権を主張したりしないのだ。そのためウェンウェンウェム地方は、未だにどの国にも属さず、境界も曖昧なまま存在しているのである。
「森林浴って、なんかいいね」
オキシは思ったことを口にする。
この森は、明らかに今までいた場所とは異なる空気だった。何よりも、全身が軽くなったような気分になる。身体に無理がかかっていないような、そんなすっきりとした感じが呼吸を行うたび、肺に満たされるのだ。
(この世界には、マイナスイオンという不思議物質が本当に実在していたりして)
電化製品やテレビ番組でおなじみのマイナスイオン効果についての真偽は、化学的には未解明ではある。が、それの存在をはっきりと体感できてしまうほどに森を満たす空気の質は異なっていた。ここは地球とは異なる場所、しかも魔力という不思議な代物が存在するくらいだ。癒しの効果があるという不思議物質が大気に含まれていても、おかしくはない。
「……こんな、いるだけで疲れる場所が、心地良いと思うのは、奇人変人だよ。もうだいぶ魔力が薄くなってきたから、オキィシがいなければ、おいらはこんな森で存在できないよ」
一方のロゲンハイドは、少し辛そうにしていた。魔力の薄い場所では、精霊は契約者がいなければ長く存在できない。そのためウェンウェンウェム地方に存在する精霊は空中で群れる羽虫のように、ちらちらと蚊柱を作り揺れる程度の集合体なのだ。
契約者から魔力が供給されているおかげで、存在できているロゲンハイドではあるが、少しでも魔力を節約するため省魔力状態に入った。その姿は、水の精霊の本来の姿である。人型をしておらず、宙に浮かぶこともなく、地面を這っていた。何も知らぬ人が見たら、雨漏りのせいで車内の床に水たまりができてしまったのだと勘違いしてしまうだろう。それほどまでに水たまりと見分けがつかない姿なのだ。
普通の水たまりと決定的に異なっているのは、表面に艶やかな膜があることだろう。人型の時には目や口といった凹凸を作っていたあの膜だ。ロゲンハイドという生命体の本質はこの膜なのだ。この膜の中にその精霊の属性たる現象が取り込まれ、ひとつの個体として存在しているのである。
「まるで水たまりに擬態する生物だ」
平たい精霊は、不定形な体を変形させながら移動する。まるでアメーバのように形を自由自在に変えるので、精霊は巨大な単細胞生物だった、と説明されれば、納得してしまいそうなほどであった。
「これが本来の姿で、人型の方が作り物なんだけれどね」
人型への擬態は、契約を結んで魔力をもらうためヒトに接する時、親近感を持ってもらうための知恵である。人型に擬態しないで契約を迫る精霊もいないことはないが、それはごく少数の、力ある存在であることが多い。多くの精霊は本来の姿のままでは、契約はなかなか困難なのである。精霊も、契約し魔力を得るために様々な工夫してきたのだ。
「精霊って、ヒトと共生関係にあるんだなぁ」
魔法の提供という報酬を提示し、契約者という名の宿主から魔力を得る。それは宿主と寄生者の共生関係と言えなくもない。
「こんな形でも生命と言えるのがすごいや」
オキシはすっかり平たくなったロゲンハイドに興味津々であった。
(おいらの体、そんなに興味深いのかな)
液状化した姿で這いながら、じっとオキシを見上げる。ロゲンハイドを見つめる黒い瞳は、よく知っている輝きを持っていた。そう、微生物を観察している時と同じなのだ。
(これは、しばらくこのままだな)
ロゲンハイドは今までの経験上、そうなると知っていた。
ロゲンハイドは夢中になっているオキシを放っておいて、車内を見渡した。オキシを含め車内に人は三人しかいない。三人のうち一人は休憩中の護衛だ。護衛の者は定期的に交代し休憩をする。他の護衛たちは今も荷台の上から、周辺の警戒に当たっているのだ。
ロゲンハイドも護衛の人たちと同じように、周囲の気配に気を配っていた。彼らの手伝いをしているというわけではなく、それが精霊の五感だからだ。
精霊は自分を中心にある程度の範囲を、肌で感じ知ることができる。客車の壁や木々の向うだったとしても、感知することができるのだ。これは生まれついての能力で魔力を必要としない。水の精霊であるロゲンハイドは、周辺の水分量の微妙な変化によって、生物の気配を知ることができるのだ。
個人的に辺りを警戒していると、上から誰か降りてくる気配がした。どうやら交代の時間になったようだ。
客車に降りてきたのは、キセノンであった。次に休憩に入るのは彼のようだ。キセノンは車内で休憩していた者に声をかけ交代を済ませると、車内を見渡した。
キセノンはじっと床を見ているオキシに気がつき声をかける。
「……オキシ、体調は問題ないか?」
ウェンウェンウェム地方の空気が合わず、頭痛や吐き気、眠気という症状が出る者もいるのだ。そのような症状がでなくとも、この地方の空気は体に何らかの負荷を与えており、疲労しやすくなるのだ。それに加え、オキシは床をじっと見ていたので、乗り物に酔っていないかも心配であった。
「邪魔しないで」
キセノンの気遣いもよそに、オキシは常時運転だ。いつも通りの様子を見せるオキシにキセノンは軽く息を吐く。
それに気がついたロゲンハイドは体を薄く伸ばして、キセノンから見える位置へ移動する。そして、腕を細く伸ばして揺らし気を引いた。
「お仕事、お疲れさま。今のところオキィシは元気そのものだから、放っておいても大丈夫だよ」
平たいロゲンハイドが、体を震わせそう声を発する。液状化した姿に口という器官はないので、音を発するのは全身を使った運動である。
「……オキシは精霊の状態変化が不思議で仕方なかったんだな」
オキシが床を見ていたのは、すっかり形の変わってしまった精霊のせいだと分かり、キセノンは納得した。
「旅は順調?」
ロゲンハイドはキセノンに尋ねた。
「少し遅れ気味だな。もしかすると、日が隠れる前には最初の休憩地点に着かないかもしれない」
今回も魔物は何回か出現したが、こちらが威嚇行動に出れば何もせず去り、本格的な実力行使に出ることはなかった。しかしそれでも、多くの時間は失われ、予定は遅れていくのである。
「野宿か。何も起こらなきゃいいね」
「そうそう起こるものではないさ」
多くの場合、大事は起こらないことの方が多い。
「でも、警戒する仕事はあるんでしょ? 大変だよね、護衛って」
必ず現れるとは限らないからといって、警戒を怠るわけにはいかないのである。人を襲う魔物や野党という類のものは、確かに存在するのだから、いつ現れても対処できるようにしておかなくてはならないのだ。
「これも仕事だからな……にしても、よく酔わないな」
キセノンはずっと同じ姿勢のオキシを見つめる。揺れにくい構造の車とはいえ、ずっとうつむいたままで、よくも平気なものだと感心する。
「オキィシは放っておいていいから。せっかくの休憩時間なんだし、しっかり休んでよ」
オキシの行動をいちいち気にしていたら、気力が持たない。
「あぁ」
キセノンは客車の隅の方へ移動し、休憩し始めた。
ちなみにオキシは、野宿のため車が停車し、野営の準備やら、夕食の誘いやらで、車内が慌ただしくなるまで、その状態であった。