35.定期便に乗り込んで、さぁ、出発しよう。
緑の砂漠へ行くための定期便は、四、五日に一便の割合だ。時に十日以上開くこともあるので、行きの便だけではなく帰りの便の日時も考えなくてはならない。
定期便の予定は、組合の掲示板に二周期分が張り出される。そこで確認をして、都合のいい日を選ぶのである。
とはいえ、時刻に正確さをあまり求めないこの地域では、書かれた時間通りに来ることはほとんどないといってよい。
時刻よりも早く出発することは無いが、遅れることは多々あるのだ。遅れは終点に近づくにつれて、顕著になっていく。
魔物や盗賊が現れたとなれば、それの対処のため、目的地に着くのが一日二日遅れるということさえあるのだ。遠出をする時は余裕を持って行動しないといけない。
目的の定期便は早朝にフェルミの町から発つ。乗ろうとする便は、この町が始発なのでほぼ定刻通りの出発となるだろう。
乗り遅れることのないように、オキシは少し早めに観察を切り上げ、部屋を出た。
空には巨大な月が浮かんでいる。太陽は隠れてはいるが、月の端からほんの少し青味を帯びた光が漏れている。もうすぐ夜が明け、新しい一日が始まるのだ。
この世界に来てひと月程は視界に入るたびに、あまりの大きさに驚いて、ついつい二度見してしまっていたが、最近では月に対する違和感も薄れつつあった。
二十年近く常識であったものが大きく変化しても、案外すぐに慣れてしまうものなのだなと、空を見上げたオキシは思う。
目的の定期便はすでに停留所に停まっていた。出発まではまだ時間はあるが、もう何人かは乗り込んでいるようだ。
ウェンウェンウェム地方行きの定期便は、もともとは食糧などの物資を売り歩く行商のついでに人を運んでいたのが始まりだ。そのため、座席の後ろ半分以上がそういった物資で埋まっている。人は乗れても十人程度と少なめだ。不毛の地であるウェンウェンウェム地方へ行く、そんな物好きは多くはないので、それでも充分に機能していた。
箱のような車体は新緑のような鮮やかな色に塗られ、二頭のモモーロがそれを引いていくという形をとっている。ウェンウェンウェム地方では魔力が貴重である。魔力が補給できる方法が少ないので、この地方へ行く定期便だけは動力に魔力を使う魔動車ではなく、昔ながらの仕様となっている。
しかしながら、客車は宙に浮かぶ車輪のない車体が使われている。箱を浮かばせるだけなら消費魔力は少なく、内蔵されている魔蓄器だけで、こと足りるのだ。
魔法技術が発達し、そのため車輪が発達しなかったこの世界では、大容量の魔力を蓄えられる魔蓄器が発明されるまで、ウェンウェンウェム地方へ大量の荷物や人を運ぶことは、難しいことだったのだ。
「おはよう、これはウェンウェンウェム地方行きだよ。どこまで行くのかな」
オキシが近づくと、運転台に二人いる御者のうち、一人が声をかけてきた。最初に御者に行き先を告げ、そこで料金を支払うのだ。
「緑の砂漠の入り口まで」
オキシは目的地を告げた。
「緑の砂漠へ、かい? そんな軽装で?」
御者はオキシがほぼ手ぶらことに疑問を持つ。何の目的で、どれくらいの期間、緑の砂漠に滞在するのかはわからないが、隣街へ行くのとは訳が違うのである。
「あぁ、僕の荷物はほとんどポケットに入っているので」
白衣のポケットから、保存食の入った瓶を取り出して見せる。瓶の中身は発酵食品であり、もちろん移動中に食べるためではなく、暇な時に見るためのものだ。
「変わっている外套と思ったら、そういうことか」
外套は羽織るだけのもの、ポケットはおまけ程度のことが多い。そんなポケットにたくさんの荷物を収納できるとは、思いもしなかったのだ。
「この白衣は特別製なんだ。必要なものは、一通り揃えたつもり」
実際には荷物の大半は観察に必要な道具で占めている。食糧や水はほとんど持っていない。
普通の人間ならば、今から行く不毛の地域で生きていけるかどうかも怪しい装備なのだが、普通ではないオキシには関係のないこと。そして、荷物の詳細などは、御者が知らなくともいいことだ。
「じゃあ、安心だな。緑の砂漠までの料金は……」
御者は、料金の書かれた板を確認しながら値段を告げる。ちなみに精霊には料金がかからないので、ここでは一人分支払えばいい。
「これ乗車券、目的地に着くまで無くさないようにね」
「ありがとう」
御者から目的地が印字された薄緑色の紙切れを受け取る。ちなみに料金は子供料金を提示された。安く乗れることのはいいこととは思うものの、素直に喜べないオキシだった。
乗車券を白衣の内ポケットにしまうと、オキシは定期便に乗り込んだ。
車内の壁際には長い椅子が向かい合って並んでいる。後半分は荷物が天井まで積まれていた。それが崩れないよう、魔力を帯びた網でしっかりと固定されている。車内は狭い空間なので、非常に圧迫感があった。
客席に座っているのは三人でいずれも男性だった。そのうちの一人、彼は非常に見覚えのある鱗の顔であった。
「あれ、キセノンもどこかへ出かけるの?」
「オキシ、か」
こんなところで出会うとは思っていなかったのだろう、普段は縦に細い瞳孔が、少し膨らんだ。
「いや。俺は定期便の護衛のひとりだ」
キセノンは仕事で乗り込んでいた。
危険な場所を走る場合や多くの荷物を運ぶ場合、数人の護衛が乗り込む。ウェンウェンウェム地方へ行く者は少ないので、客よりも護衛の方が多いことさえある。
「そういうお前は、どこへ出かけるんだ?」
定期便に乗っているということは、そういうことなのだ。
「僕は、緑の砂漠へ行く」
ウェンウェンウェム地方を通る定期便はいくつか出てはいるが目的の緑の砂漠までの路線は少ない。そのうえ、他の場所も巡るので無駄な回り道も多い。目的の場所までは、おおよそ三日ほどかかってしまう。
「それにしては、ずいぶんと身軽だな」
キセノンも御者と同じ疑問を持つ。オキシは先ほどと同じ説明を繰り返した。
「荷物のことは分かった。だが、何をしに行くんだ?」
不毛の大地であるウェンウェンウェム地方の中でも特に過酷と名高い緑の砂漠に行くというオキシに思わず尋ねてしまった。
「色々、見に行くんだ」
見たいものはただ一つ、彼の地の微生物である。
身近にいる微生物たちも美しい造形をして、不思議で満ちあふれてはいる。しかし、それ以上に「人にとって過酷な場所に住む極限環境微生物」という、その響きだけで、微生物好きの心は踊るのだ。
「しかも、ひとりでか? 相変わらずの破天荒だな」
オキシの感性はかなり普通とはズレているとは思っていたが、緑の砂漠を観光したいと思うほどに酔狂だったとはと、キセノンは呆れかえる。
「ひとりじゃないよ、ロゲンも一緒」
「それはそうだが、あの場所では大精霊でもない限りあまり役に立たないだろう。せいぜい魔物の気配を察知して、知らせることができる程度じゃないか」
魔法の使えない精霊は非力なのである。キセノンの言葉に、ロゲンハイドも同意し頷いている。ロゲンハイドも同じようなことを言い、オキシの計画を止めようとしたのである。しかし、これぞと決めたオキシに対して、何を言っても無駄なのである。
「魔物の気配がわかるだけでも、僕はそれで十分なんだけれどね」
人間を捕食の対象にしている魔物は案外少ない。さらに捕食対象以外の生物を積極的に襲う魔物も一握り。森の中では魔物との遭遇率は高いとはいえ、慌てず騒がず、そっとその場を離れれば、問題はないことの方が多い。魔物は他の野生動物同様、非常に臆病なのだ。
「オキィシは危険に疎いから、心配なんだよ。もしも魔物に遭遇してしまっても、対処できないでしょ」
戦うにしても、逃げるにしても、それなりの技術を必要とする。いつもぼんやりとしているようなオキシが、魔物を牽制できるとは思えない。
「精霊の言う通りだ。ウェンウェンウェム地方をうろつく時は、魔物を倒せる者を何人か連れていないとな」
魔物の侵入防止の柵が整備されている比較的安全な道を走るこの定期便でさえ、時折迷いこむ魔物に対しての護衛が必要なのだ。柵のない原生林の中を行こうとするのならば、魔物退治に精通した者の手を借りる必要がある。
「今回は緑の砂漠がどんな感じの土地なのか見に行くだけ。休憩地点に二、三日も滞在したらでフェルミに戻るつもり」
今回は仮調査だ。簡単にサンプルを取ったり、周辺地域の状況を事前に知ることで、準備に不備がないかを調べ、本調査の失敗を防ぐのである。
「観光って言っていなかったか?」
「色々見るけれど、観光とはちょっと違う」
「あの拠点には何も見るようなものはなかったと思うが」
定期便で行くことができるのは緑の砂漠入り口にある休憩地点までだ。そこは最低限の宿泊施設と対魔物の小さな砦があるだけで、観光して楽しいものはないはずなのである。
観光に耐えうるものは、さらに森の深くに入ったところに存在しているのだ。
「僕は金持ちがありがたがるような絶景にはまったく興味がない」
ウェンウェンウェム地方の観光情報は、調べたので少しは知っている。
色とりどりの光る虫が飛び交う湿地帯や、純白の結晶で覆われた鍾乳洞などは、一生に一度は見てみたい景色の一つらしい。が、しかし、オキシはその景色にはあまり興味がなかった。どちらかといえば、おおよそ生物が住めそうにない毒の沼地や、キノコが生い茂る洞窟というように、緑の砂漠の超危険地帯と言われる場所に行きたいのだ。
しかし、それらの場所に関する情報は少なく、巷に出回る書物や噂だけでは、不十分だった。遠く離れた町で話を聞くよりも、近くの町で情報を集めた方が、信頼のできるものが集まるだろうという、考えだった。
「それに現地の人とも、少し仲よくなっておこうと思って」
緑の砂漠をよく知る彼らと仲良くなっておけば、いい情報を聞けるかもしれないという目論見もある。
「現地の人というと、妖精か?」
「うん。彼ら気ままな性格というから、あまり期待はしていないけれど、案内とか頼めるかもしれないし」
妖精はその体に似合わず、大抵の魔物は退治できるほどに、身体能力は高い。魔物のいる森で暮らしているだけのことはあるのだ。
「あぁ、彼らを雇おうと考えているのか……実力的には下手なやつよりはましだが」
しかし、実力はあれど性格が難儀であるので、妖精とうまく付き合えるものは少ないのが実情である。
「オキィシだったら、大丈夫だよ。きっと気にいられるよ」
ロゲンハイドは「間違いない」とばかりに、自信を持って言う。
「そうだな、確かに、そうかもしれないな」
キセノンも眉間にしわを寄せてはいるものの、それに同意する。
「それは、どういう意味?」
「妖精に興味を持たれそうなおかしな行動を、いっつもしているから、だよ」
妖精と精霊は種族的にはまったく異なるが、好奇心が旺盛という性質は似通っている。
「いつも? そんなことないよね」
時々は自分でもおかしな事をしているという自覚を持つことはあったが、それは、あくまで時々だ。普段は、至って普通に過ごしていると思っていた。
ロゲンハイドの言葉に不服なオキシは、確認するようにキセノンを見る。
キセノンはそっと目をそらした。
「……」
少し気まずい沈黙が、三人を支配する。
沈黙は数分続いたが、それを破ったのは気配に敏感なロゲンハイドであった。
「……あ、そろそろ、出発するみたいだよ」
ほどなくして、御者が鞭を入れる音が響く。
モモーロが大地を蹴り、外の景色はゆっくりと動き出した。
「どんなところなのか、楽しみだ」
まだ見ぬ未知なる土地に思いをはせ、期待と不安を乗せて、オキシは後ろへ流れていく街並みを眺める。
これから向かう先では、一体何が待ち受けているのか。それは神のみぞ知ること。しかし、何が起ころうとも、オキシはいつも通り、それだけは確かであろう。
こうして、ひとまず舞台の中心はフェルミの町から、緑の砂漠へと移るのであった。