33・魔力を変換すれば魔法が発動するという現象は、知識の上では理解している。
黄を帯びた光が巨大な月の端から顔を覗かせ、空はだんだんと明るんでくる。
オキシは夜明けと同時に部屋を出た。部屋でおとなしく待っていられなかったのだ。
町の大通りは賑わっていた。祭りの影響か、早朝にも関わらず人通りは多かった。
夜通し祭りを楽しんだ者や、これから活動を始める者たちへの朝食を提供する露店が、ちらほらと営業している。しかし、夜が明けたとはいえ、ほとんどの商店はまだ開店前、目的の店が開くまではまだまだ時間がある。時間が来るまで朝市を楽しもうと、オキシとロゲンハイドは露店の合間を歩いた。
そして、たくさんの瓶や壺が並んでいる店の前で立ちどまり、いつものように「確認」をする。数ある露店の中でも、この店が一番のお気に入りなのだ。
「今日も元気に醗酵しているな」
容器からあふれ出んばかりに増殖し、今もなお活動している微生物たちにオキシは思わず、感嘆の息をはく。
顕微鏡の眼の能力を使えば、見たい場所の見たい対象をピンポイントに狙うことができる。雑多な微生物がいたとしても、視線で調整でき、対象が紛れることがないので、非常に効率よく観察ができるのだ。
(あぁ、カビってどうしてこんなにも綺麗な菌糸で出来ているんだろう)
食品を網羅する菌の糸は、肉眼では確認できない。ところが、ひとたび顕微鏡で覗けば繊細な硝子細工にも劣らない芸術品が現れる。糸のように細い透き通った細胞が連り、枝分かれした微生物の体は複雑に絡まっている。オキシは微生物が織りなす奇妙な世界に見取れていた。
「オキシは、この店好きだよねぇ」
ロゲンハイドはそう言葉を発したが、微生物に夢中になっている者の耳にその言葉は届かない。身じろぎ一つなく没頭している。
ロゲンハイドは、ため息をつく。仕方がないので、定位置であるオキシの肩にトンと乗り、周囲の警戒にあたる。
フェルミの町は治安が良い方とはいえ、どこにでも犯罪を働く者はいる。無防備な雰囲気しか持たないオキシは、精霊を連れていなければ、スリや引ったくりの格好の獲物でしかない。
(スリ程度なら、おいらでも充分対応できるけど)
戦闘向きではない小さな精霊とはいえ、生み出される魔法は一般人では適わないほど強力。精霊が共にあるという存在を示すだけで、取るに足らない小物たちは寄りつかない。
しかし、この前現れた殺人犯のような腕のたつ者に対応するには、まだまだ荒事の経験が足りなかった。
(この前みたいな失態は、しないようにしないと)
蠍種の持つ特有の毒のせいで動けなくなるということがないように、対策を練っっていた。
かの毒は一度体験しているので成分は体に記録されている。それを元に、その毒が体内で感知された時、自動的に毒に冒された部分を魔力の膜で隔離し、外へ排出する魔法を組み上げた。
体のほとんどが水で構成されており、体の大半を失っても魔力があれば再構築できる身体だからこその荒技だ。発動したら魔力をごっそり持っていかれるが、これであの毒を受けても体が動かなくなり、何もできなくなることは避けられるだろう。
(こんなこと、オキィシの話を聞いていなかったら、考えもつかなかったことだよ)
生物には、体内に侵入した異物を排除する働きを持つ「免疫」というものがあると知った。その話の中で、予防接種の知識を得たのだ。いくつかの病原菌は事前に対策をすることで免疫をつけ、感染の影響を防いだり、発病しても症状を軽くすることができるというのだ。
オキシの説明は例によって次々に進んでしまうので、ロゲンハイドは半分も理解できなかったが、基本的な部分は理解したつもりでいる。
しかし、精霊は基本的に病気というものには縁がない。そもそも「免疫」というものが精霊にも存在するのかも分からない。そのため、免疫に直接働きかけるような魔法を開発するのは難しい。だが、その概念を魔法で再現は可能であろう、とロゲンハイドは考えた。もとより毒を感知することは得意分野なのだ。
持てる知識を総動員し、組み合わせ、そして、蠍種の毒に対してのみであるが「体内で毒を発見したら、毒そのものを外へ排することで症状を防ぐ」という形の疑似的な免疫機能を魔法で作りあげたのだ。
急いで構築した無駄の多い試作段階の魔法なので、その毒を経験したことがある精霊に対してしか使えず、定期的にかけ直さなくてはならない欠点がある。実情、ロゲンハイドにしか効果のない魔法なのである。
いずれは改良し、自身だけではなく、精霊以外の者にも使えるようにしたいと思っている。さらに、蠍種以外の毒にも対応できるようになれば、魔法で毒に冒されなくなるようにすることも可能になるのだ。
ささいなことではあるが、やりがいがある。精霊は魔法を探求することが好きな種族なのである。
ロゲンハイドは、ふと朝の往来を眺める。早朝とはいえ、仕事へ向かう人で賑わっている。怪しい気配は感じない。いつも通りの日常だ。
視線を上げれば、店の主は朝食を求める客の対応に追われている。オキシがずっとここにいることには気がついているだろう。たびたび店に訪れて、いつも醗酵食品ばかりを買っていくので、すっかり顔なじみになっている。
オキシはいつも一通り眺めてから買う商品を決めているので、購入するまで時間がかかるのをこの店主は知っている。彼も心得たもので、今ではオキシが動き出すまで基本的に放置している。
それでも話好きな商人の性だろうか、客足が途絶えると、店主は店の片隅でじっと瓶詰めの商品を見ているオキシに声をかけるのだ。
「おはよう、今日はどれを買うの?」
今日もまた、じっと商品を見つめている。声をかけても、返事はいつも「あと、もう少しだけ」だ。
店主は苦笑いをする。何をそんなに迷っているのか疑問に思っているものの、店に並ぶ商品の種類は多い、目移りしてしまうのは仕方のないことだろうと、深く考えたことはなかった。
彼は「何を購入するか迷っている」と思っていたが、もちろんそういうわけではなく、ご存じの通りオキシは「微生物の観察している」から時間がかかっている。
「精霊さんも大変だね。長い買い物に付き合わされて」
「いつものことだよ、でもさすがにそろそろ終わりにするように言い聞かせるね」
「急かしたわけじゃないんだ。じっくり考えて選んでって」
「いやいや、さすがにそろそろ決めてもらわないと」
ロゲンハイドは、水の体を震わせ語りかける。生まれるのは音の波ではない、別の力だ。直接脳内へ響かせた声でないと、オキシは話し掛けられていることにさえ気がつかないのである。
『お店の人、呼んでるよ? 早く買う物、買わないと』
「……あ、あっと、そうだった。もう、こんな時間か」
気がつけば、行こうと思っていた店の開店時間はとうに過ぎていた。微生物を眺めている場合ではないと思い出す。
醗酵食品の入った瓶から視線を外すと、凝り固まった背骨を伸ばしつつ立ち上がった。
「どれにするか決まった?」
店主は問いかける。
「えっと……」
店主には申し訳ないが、今日は時間をつぶしに寄っただけ。今日はいろいろと買い物をする予定なので、微生物の購入して無駄使いをするわけにはいかなかった。いけないのは分かりつつも、微生物の誘惑には勝てない。結局、ひとつ買っていくのである。
「次はどの店へ行くの?」
ロゲンハイドはオキシの後をふよふよと浮かびながらついていく。
「僕が行こうと思っているのは鞄屋」
調査へ行くにあたって準備する物で、特に奮発すると決めていたものがある。それは収納のための道具である。この世界には魔法があり、地球の法則では考えられない収納力を持つ鞄が存在するのだ。
今から向かう鞄屋には、収納系の魔法に長けた人がいる。オキシの目的は、その魔法をあるものに付加してもらうことであった。
商店街の並びにあるその店は古くからこの町にある。建物自体は古いが、内装は手入れが行き届いており雰囲気は明るい。
オキシは店の木製の扉を開いた。店内は革製品の独特な匂いが満ちている。奥には壮年の男性がおり、店の戸を開けたオキシをちらりと見やる。この店は子供が来るような場所ではない。訪れた馴染みのない、かわいらしい客に彼は目を細めた。
「いらっしゃい、坊や」
オキシの小柄な風貌を見て、そう勘違いする店主。店主のその言葉に、いつものことながらオキシはめげそうになったが、何とか持ちこたえ要件を伝える。
「これに空間拡張の魔法を付加してほしいです」
「……それにかい?」
オキシの差し出したものを見て、店主は唸る。鞄や袋の持ち込みはよくあることなのだが、それの持ち込みは初めてであった。
「やっぱりこれは難しいですか?」
オキシが持ち込んだものは鞄といった収納のための道具ではない。
勝手の異なる対象に魔法を付加することは、大変なのかもしれない。魔法というものにあまり詳しくないオキシは、そう懸念する。
「いや、可能だが。今まで扱ったことがないので、少し驚いただけだ」
今までそのようなものは扱ったことはないとはいえ、その魔法を付加することは理論上は可能だろう。それは一応、物を入れることができるのだから。
「しかし、本当にいいのかい? その鞄じゃなくて」
その子供が肩からかけている鞄から、ずいぶんと弱いが収納系魔法が感じられた。しかし、その鞄の強化はしなくていいと言う、なんとも不思議な要求をする子供だと、店主は思った。
オキシが持ち込んだ物は普段扱わない品物で、基準となる価格が存在しない。そのため、値段の相談をすることとなる。相談といっても、オキシは交渉ごとが得意ではなく、しかもまったく相場が分からないので、大体は店主の言い値に従う形となった。
店主の方も心得たもので、オキシが価格交渉に不慣れであることをすぐに感じ取り、あまり意地の悪い提案はしていない。というよりも、むしろ破格の値段だった。店主の判断が甘くなったのも、オキシが子供に見えたということが大きいだろう。
オキシは黄金色の硬貨を二枚、支払った。
「魔法の付加には、少し時間がかかるから、菓子でも食べながら待つと良い」
お互いに納得がいくところで落ち着くと、店主は引き出しから煎餅の入った箱を取り出した。
「わざわざありがとうございます」
オキシが煎餅を一枚とったのを見届けると、店主は作業に取り掛かるため、奥の工房へ向かった。
工房の戸が開かれると、独特の匂いが漂ってくる。獣臭さに混じって、鼻の奥にツンと来る嗅ぎなれない刺激臭に、オキシは思わず咳が出てしまう。
「おや、坊やには少しきつかったかい?」
咳込んだオキシを見て、心配そうに尋ねた。
「ちょっとだけ。これは何の臭いですか?」
「獣の革を加工する時に使う魔法の媒体の匂いだ。今朝方に一つ処理したからな、まだ臭いが残っているんだ」
皮とはいえ、生物の屍骸を使っている。敏感な者なら、加工前の皮から漂う微かな死臭を嗅ぎとることもあるだろう。それに加え、加工に使う媒体が曲者だった。革を加工する工程で、獣皮にこびりついた肉を処理する魔法を使う時には、媒体として魔物から取れた「肉を溶かす液」を使っている。この原液がなかなかの刺激臭を放つのだ。
魔法の力で肉だけに働きかけるので、皮に液体が染みて臭いが移るということはないが、空気中に発散した臭いの成分はしばらく消えずに残ってしまうのだ。
「魔物の……」
この前初めて見たあの魔物の姿を思い浮かべる。死と同時に塵となった不思議な生物、魔物。その魔物も確か肉を溶かす毒を持っている種類だったはずだ。
(こんなに臭うのか……)
一時は非常に欲しいと思ったものであるが、このように臭いが鼻については、虎狛亭の部屋で気軽に扱えるものではないだろう。オキシは対策を思考していた。
「魔物の呪いが怖いかもしれないけれど、これは臭うだけで害のあるものじゃないから安心しな」
店主はオキシが急に黙りこんだ様子を見て、魔物の呪いに怯えていると勘違いした。魔物の毒袋は適切に処置して、肉を溶かす成分のみを精製しているので、呪いを受けることはほとんどない。とはいえ、魔物といえば呪いで病気になることを連想してしまうのは仕方のないことだと、店主は思う。
「あぁ、まぁ、はい……」
オキシにとっては毒など何も恐れるようなものでもないので、どうということはなかったが、どのように返事を返していいかも分からず、何ともおぼつかない返答になってしまった。
「店の風通りはいいから、工房さえ締めればすぐに臭いはなくなる。それと、菓子は好きなだけ食べていいからな、遠慮はいらないよ」
そして店主は工房へ入っていき、作業に取り掛かった。
店内にはオキシとロゲンハイドだけとなった。
「……あとで、魔物の液はどこで手に入るか聞いてみようかな」
「そんなもの、何に使うの?」
今までオキシの肩の上でおとなしくしていたロゲンハイドは、オキシの独り言を聞いて言葉を発す。
「いや、なんとなく……」
臭いはいただけないが、魔物の液に強い微生物を見分ける時には便利かもしれない、と思ったのだ。特に深い理由はない。単に思いつきだ。
「なんとなくで、危険物をほしいと思わないでよ。それに、あれは取り扱いが難しいから、ちゃんとした資格がある人じゃないと売ってもらえないよ」
時々、オキシはとんでもない物を欲しいと言いだすので、それを諌めるのも仕事のうちなのだ。
「そうなのか……危険物を取り扱うための資格なんてものが、ここにもあるんだ」
「危機感がいまいちなオキシは、十年修業してもあれを入手するのは無理かもね」
「僕だって、やるときはきちんとやるよ。これでもそれなりに危険な薬品を取り扱ったことがあるんだから」
大学では研究でそこそこ危険な薬物を扱ったこともある。使用上の注意点さえ、教えてもらえれば、正しく扱える自信はあった。
「オキィシが危険な薬品を取り扱うなんて……考えただけで恐ろしい」
常識知らずなオキシの生活を見ていると、ロゲンハイドにはそう思えてしまうのだ。
「酷い言いようだな」
「だってそうでしょ。おいらはいつも、ハラハラなんだから……落ち葉や木の実や何かの卵はまだ分かるよ。でもキノコやカビ、それに生き物の屍骸や排泄物。落ちているものなら、なんでも拾ってきてさ。普通の人が見たら気絶ものな、そんなものを何が面白くて自分の部屋に置いておくのさ」
オキシの部屋は人様に見せることができない空間になっている。程々に整頓された部屋は、一見すると何の問題も無いように見えるのだが、きれいに積まれたアレらが大問題なのだ。
「危険があろうとなかろうと、あの子らの扱いには、かなり気をつけているよ。細心の注意を払って。脱走者も侵入者も許さないほどに」
危険な微生物は、厳重に管理された飼育箱や保管箱の中だ。ロゲンハイドはカビやキノコを危険物扱いしているので、なおさら気をつけて扱っていた。魔法と組み合わせることで、それはより強固に実現していた。
オキシは微生物の扱いに関しては慣れているからといって、油断はしていない。多大な影響を出てしまうこともある恐ろしさを、充分に理解している。何かが起きてしまっては遅いのだ。
たとえ人に害のないからといって手を抜くことはしていない。危険は今まで大切に育ててきた微生物たちの方にも起こりうるのだ。
例えばミドリムシを育てている容器とミジンコを育てている容器があったとする。ミジンコ、ミドリムシ、それらは人の害にはならない微生物であるのは、ご存じの通りだろう。しかし、ミジンコが少しでもミドリムシを育てている容器に紛れ込めば大変なことになってしまう。ミドリムシはミジンコの餌、下手をするとミドリムシは全滅してしまうのだ。それは些細なことで起きる。しっかり洗っていない器具を使ってしまった時、ミジンコの乾燥卵が体についていてミドリムシの容器に落ちてしまった時、本当にちょっとしたことで起こるのだ。
実験や観察を台無しにしてしまうので、外に漏れないことはもちろん、外部からの雑菌混入も、避けられる限り避けなくてはならないのだ。
「確かに、これでもかってくらい対策をしているのは分かるけどさ……」
それはロゲンハイドにとっては驚くべき方法で成されている。それを作成するのは主にロゲンハイドの魔法であるが、オキシの言う通りに構築されたその魔法は、外と中を隔絶する。危険物をその中だけに留め、外には決して出さない。日々改良を加え、改善も怠らない。その知識だけは確かなのだ。
「今さら一つ二つ、危険物が増えたところで変わらないと思うけど。変わった生活をする微生物たちの生態、興味深いじゃない。危険物なんて些細なことだ」
「その考え方が大問題なんだよ……好奇心と探求心の塊みたいな人種はどうして、みんな、こうなんだろう?」
ロゲンハイドは、決して反省の色を見せないオキシに、頭を抱えるしかなかった。
そんなたわいもない話をしているうちに、作業は終ったようだ。
「待たせたな、ほら」
魔法を付加したばかりの品物を手渡した。オキシは受け取り、お礼を言う。
「ありがとうございます。これで、四次元白衣のできあがりだ。ちょっとだけ憧れだったんだ、この四次元なポケットってのは」
オキシは頼み込んで白衣のポケットに拡張魔法を付加してもらったのだ。
白衣のポケット。同じ白色でも、お腹にくっついている半円形のものでもなく、無尽蔵に収納できるわけでもないが。オキシにしてみれば、やたら物が入る物というのは鞄でも袋でもなくポケットという印象が強かった。
「そのヨジゲンというのは何なのかはわからないが、いい刺激になったよ」
空間拡張魔法は本来、鞄や袋にかける魔法である。ポケットは鞄と同じ「物を入れるという機能」を持つが、衣服という職種の違いもあり、彼には「服のポケットへ魔法を」という発想はなかったのだ。
「それにしても、その服はポケットが多いな」
彼は白衣すべてのポケットにその魔法をかけたのだ。
普通であれば体積の小さなポケットは魔法をかけても鞄ほどの収納は期待できない。そのため需要も無いに等しかった。しかし、そこを数で補うという発想は、なかなかに新鮮であった。収納できる総量でいえば、下手な鞄よりも多いだろう。
「でしょう? 服なら袋よりかさばらないし、着ていればひったくりとか盗難って、なかなか考えられないし」
オキシは物をよくポケットにしまってしまう、そのような人間だった。そのような者にとってはポケットに魔法をかけてもらう方が非常に効率が良かったということもある。
「さすがこの町一番の職人さんだ。愛用の本も簡単にポケットに収納できるようになるとは思わなかった」
オキシは魔法を付加したばかりの白衣を羽織り、出来具合を確認する。この調子だと、うまく収納していけば、部屋にある「今まで集めた微生物たち」が入った容器も、かなりの量を持ち運びできそうだ。脅威の収納力である。財産のほとんどを使ったが、本当に良い物を手に入れたと、オキシは非常にご満悦だった。
「その服の素材は普通の綿に見えるが、余計な魔力にあまり染まっていない。だから近年稀にみるほど、綺麗に魔法が決まったんだ」
魔法がよく馴染んだため、品質も良くなっている。つまり、この場合は、収納能力が大幅に増えていた。
「それにしても、魔法を使わず生産された木綿があるんだな。それを精製して作った白い糸を、丁寧に織っていった……今の時代、魔法に頼らずこれほどの布がつくれる人がいるとは、世界は広い」
物によって付加できる魔法の容量が決まっている。この世界では一般的に何か物をつくる時、大量の魔法が生産・制作過程で使われている。時とともに魔力は散っていくとはいえ、長期間に渡って使われた魔力は深く染みつき、その物質が持つ空き容量を削ってしまうのだ。
「……そんなことも分かるんですか」
魔法のない地球生まれの白衣には、もちろん魔力の残留物があるわけがない。ロゲンハイドにたまにかけてもらう洗濯の水魔法の魔力が残留していたとしても、すぐに散ってしまうほどごく微量の魔力。そのため、ほぼまっさらといっていい。
無地の生地が染料に染まりやすいように、魔法にあまり晒されたことのないその白衣は魔法がよく馴染むのだ。
「魔法具を扱っているからな、素材の品質を見極められなくては、良い魔法具は作れんよ。その服を作ったのは名のある者だったのだろうなぁ。一度、会ってみたいものだ」
「これは……遠い故郷で買った物ですし。誰の作か、詳しいことは……」
(この白衣を作るのに魔法は使っていないけれども、代わりに色々なところで薬品や機械を使っている、科学の産物だ。大量生産品だし、店主の考えているような職人が手間暇かけてとは、全くないだろうなぁ)
この世界にない技術を述べても仕方ない、オキシは白衣を見つめながら、そう思う。
「そうか、それは残念だ……。さて、その服には念入りに魔法を付加したが、年に一度くらい、手入れを行うことが長く使う秘訣だ。手入れはどこの店でもやっているが、うちにおいで。安くしておくから」
「その時は、お願いしますね。では、また」
オキシは上機嫌で鞄屋を後にした。
「次は……組合の地下かな」
組合の地下には道具屋がある。そこは普通の道具屋ではなく、中古を専門に取り扱っていた。旅などに必要なものを安くそろえたいのならば、そこを利用するに限る。運がよければ掘り出し物が手に入るかもしれないのだ。
「ところで、オキィシは何が欲しいの?」
オキシは買うものをメモしていたが、ロゲンハイドにはその紙に書かれている文字は読むことができなかった。
「欲しい物はいくつかあるんだけれど……」
日本語の読めないロゲンハイドのために、メモを読み上げる。
まずはナイフ。手元にはカッターナイフはあるが、野外で活動する時には、もっとしっかりとした刃物の類があった方が何かと心強い。絡まる蔦や邪魔な草を切る時、果物の皮を剥く時はもちろん、気休め程度ではあるが、いざという時に護身用にも使えるのだ。
これは最低でも切れ味が保たれる魔法が付加してあるものが望ましい。
次に、水を弾いて毛布代わりにもなりそうな大きな布だ。基本的にどこでも眠れるオキシではあったが、森の湿った地面に直に休憩するよりも、何か敷いていた方が心地は断然良いと思うのだ。そして雨が降った時、雨避けのちょっとした屋根を作ることもできる。
他にも採取した物を入れる容器なども、探すつもりだった。
ウェンウェンウェム地方ではロゲンハイドの魔法はあてにできない。出かける前にある程度は生成して持っていくつもりだが、この際だからロゲンハイドの魔法では制作できない環境の容器もいくつか入手しようと思ったのだ。
採取系の依頼で求められる品の中には、扱いが特殊な採取物もあり、それに合わせて様々な魔法のかかった容器があるのだ。
例えば、日光を通さない容器であったり、逆に光で満たされている容器であったり、容器の中で空気が常に循環している容器であったり、熱かったり冷たかったり、様々な魔法の容器があるのだ。
「こんな感じ」
「基本は押さえてあるね。あとは、他にも火をつける道具や縄や予備の袋なんかがあると、いいかもよ。効果の弱い物ならタダ同然で手に入るけれど、予算と相談して少しでも良い魔法が付加されている物を持った方がいいよ」
オキシの買う物の内容を聞いて、旅をするにはいくつか不足があったので、あると便利な道具をいくつか助言した。
「うん、そうする。でも、どんな物が良いのか迷ってしまうね。本当に色々な魔法が使われているから」
特に日用品は最下品から最上品までの差が大きい。ナイフ一つとっても、属性を付加していたり、切れ味を強化したりと様々なのだ。
「魔法を知らないオキィシから見たら、信じられないでしょう?」
「まぁね。こんなこともできるんだって、びっくりする魔法がたまにあるよ」
鞄の拡張であったり、浮かんで走る車であったり、これらは地球の科学ではまだ実現していない技術である。ただし、魔法も万能ではなく、科学と同じように秩序だった法則があり、その上に成り立っているのだ。
科学と魔法、発達の差異は多少あるが、生活水準を考えると日本にいた頃と大きな差はない。それが科学で行われているか魔法で行われているかの違いである。カビ避けしかり、自動車しかり、地球では化学が担っていた技術は、この世界では魔法が行っているのだ。
オキシとロゲンハイドは、組合の地下へやってきた。日光の当たらない地下で眠るのは、今は持ち主がいない道具たち。その古びた物たちが放つ香りは、地下空間に満ちている。
「ここに来るのも、久しぶりだ」
隣の部屋にある書物庫には、文字の練習と知識を得るために、たまに訪れていたが、中古の道具が置いてあるこの場所へはキセノンに連れられて以来、訪れていなかった。
「どこから回ろうか」
「せっかくだから高級品をちょっとだけ見ていきたい」
あまり高価な物は予算的に厳しいので、本当に眺めるだけだ。
別に道具そのものに興味があるわけではなく、実にオキシらしい理由がそこにはあったのだ。
高級品は盗難防止のためか、棚の周りが透明な板で囲まれていた。板と板、そのつなぎ目は綺麗に接着されている。この世界では釘や螺子、接着剤の類は一般的に使われていない。魔力を打ち込んで物質と物質を馴染ませてくっつけているのだ。
「やっぱりすごいな、高級品は。存在感が違う。強力な魔法が付加されている道具がたくさんある」
堂々とした風格を見せる道具たちは、さすがといったところである。
「……ん? この脛当て……これはすごい。魔力がいっぱい込められているのかな」
その脛当ては森の奥に住む部族が制作したかのような、鮮やかな鳥の羽で装飾されていた。見た目は非常に派手で、とても実用的には見えない脛当てである。
「まさか、魔力が見えるの?」
道具に宿る魔力を視覚にとらえられるのは、並みの感知能力では不可能だ。ロゲンハイドは驚いた。
「魔力そのもの、というわけじゃないんだけれど。何というのかな、魔力がたくさん込められている、というのが予想できるだけ」
オキシが見ているもの、それは魔力そのものではなく、魔力に集まる性質を持つ微生物だ。
魔力に惹かれてやってくる微生物は、鞄や保存容器の周りで、ちらりちらりと舞っているのをオキシは何度か見たことがあった。しかし、これほどまで密集してひしめきあっているのは今まで見たことがない。
「実際どんな効果の魔法が付加されているのかまでは、まだ分からない。どんな魔法があるのかもあんまり分かってないし」
道具に付加された魔法によって、種類の異なる微生物が集っていることを、オキシは知っている。
もっと多くの好魔力微生物を識別できるようになれば、微生物を見てどのような魔法が宿っているのか推測できるようにもなるだろう。しかし、見極められるようになるにはまだまだ、観察や経験が足りなさすぎた。
「魔力そのものは見えないのか」
しかし、何らかの方法で魔力を感知していることは確かである。魔法を知らないと言うオキシが、魔法にあふれたこの世界に触れて、何かを感じている。魔法を使うにあたって必要な感覚というものが、オキシの中で生まれつつあるのかもしれないと、ロゲンハイドは細やかではあるがオキシの成長を喜んだ。
オキシにしてみれば、単に魔力に集う微生物の大群に見とれていただけであったのだが。
「魔力は見えないけれども、強い魔法が付加されている物は目立つから、なんか気になってしまうんだ」
そう、集まる微生物の集団から、目が離せなくなってしまうのだ。
「その気持ちは分からなくもないよ」
思い出してみれば、オキシは市場を見て回る時も、強い魔法のかけられた品の前で立ちどまることが多かったかもしれないと思い出す。
「おいらも魔力が強いと目が行っちゃうことはあるから。でも、オキィシみたいには、ならないなぁ。些細なことに夢中になっちゃうなんて、ほんと子供みたいだよね」
魔力の塊である精霊は、質の良い魔力に敏感である。気が付きはするが、気にするのは一瞬だ。ずっと見ていようとは思わないのだ。
「う……」
それを言われてしまうとオキシは反論ができない。ごまかすように、その脛当ての詳細が書かれた紙を手に取る。
「さ、さて、と。この脛当ては……ええと……etnematla moam euq?」
特殊な読み方の単語や、専門的な単語でなければ解読できる程度には慣れてきていたとはいえ、まだまだ完璧には程遠い。
「だいぶ、文字を読めるようになってきたね」
「ゆっくりとならね。この脛当てで、空が飛べるの?」
「高く跳ねれるといった方が正確かな」
人間の能力には限界がある、それを補う脛当てだ。ジャンプ一つで崖や大岩の上へ、大きな魔物の背へ、遠くを見るため、様々な場面で活躍する。
「森の移動にも便利そうな機能だ。サイズと懐具合が合えば、欲しいところだけれど、やっぱり高い」
脛当ての値段を見てオキシは短くため息をつく。オキシの所持金よりも桁が2つほど多い数値がそこには書かれていた。それでも新品で買うよりはかなり安くなっている。
オキシは値札から視線を移し、脛当てを眺める。それは決して名残惜しいからではない。
『その脛当てに見とれている暇はないよ』
さっそく脛当てを凝視し始めてしまったので、それを諌め、現実に呼び戻す。
「う……もうちょっと見ていたいけれど」
好魔力微生物の観察をいつまでもしていたいが、今日は買い物をしなくてはいけない。オキシは欲望を理性で抑え、脛当ての前から去ることにする。
「おや……」
欲に勝ち脛当ての前から去れたと思っても、すぐに別の事に捕われてしまう。ロゲンハイドは一向に歩の進まないオキシを見て、「またか」と肩を落とし息を吐く。
「オ キィ シ~」
「ねぇ、ロゲン、これは材料が特別とか、何か特殊な魔法かかってない? 保存系の魔法とか」
そう、その道具の周りにだけ、好魔力微生物がいなかったのだ。だからといって魔法が何もかけられていない偽物の魔道具というわけでもなさそうだった。
そう、その道具の周辺にあまりにも居なさ過ぎたのである。この道具が置かれた場所だけ、ぽっかりと穴があいたように好魔力微生物がいないのだ。明らかにこの道具に近寄るのを避けていた。
このように特定の微生物が避けるという現象が起きるのは、保存系の魔法がかかっていることが多い。オキシはそう推察した。
「あたり。これには『魔法の効力が長続きする』保存の魔法が付加されているね。魔力が散って魔法が消えるのを防ぐんだ」
物体にかけられた魔法は、時間とともに散ってしまう。そのため、定期的に魔力を補充が必要となるのだ。この道具には、それを防ぐため「魔法の効力を長続きさせる」保存の魔法がかかっているのだ。
「魔法が散る、ねぇ」
「イメージし辛いかな?」
魔法が何たるかを知らないオキシにとって、魔法が現れたり消えたりするのは想像のできないことだろうと、ロゲンハイドは思う。
「この魔法が付加されていると結構長持ちするんだよ。すごい名器になるとほぼ永久的に魔法が失われない、なんてものもあるんだ」
「……言いたいことは分かる。分かるけれど、なんと言うかね」
好魔力微生物は魔力を糧とする。この微生物が魔力を取り込み分解し己の栄養としてしまうために、道具にかけられた魔法の効力は時とともにだんだんと弱くなってしまうのだ。
微生物が何たるかを知らないロゲンハイドたちは、その現象を魔力が「自然に」消えていくように感じているので「散って消える」という表現を使う。一方のオキシは彼らとは異なる感覚でそれを見ているので何となく違和感があるのだった。
食べ物にカビが生えるのはなぜか。
死体にウジが沸くのはなぜか。
昔、それらは「自然に」現れると思われていた。
今ではそのメカニズムは解明されており、科学を学んだものであれば、カビやウジといった生命が自然発生すると思う者はまずいないだろう。
そう、オキシは微生物の働きを「自然に発生している」と言われることに抵抗を感じているだけなのだ。それを訂正したいという欲求にかられているだけなのだ。
「これは僕のこだわりみたいなものだから、気にしないで……それにしても、魔法の効力を長続きさせることもできるとは、魔法は本当におもしろい。この魔法を開発した人は尊敬に値する」
魔法の効力が長続きする魔法やカビ防止の魔法を始めとした保存の魔法の一部は、特定の微生物が嫌う効果があり、まるで抗菌物質のように思えてならない。
微生物の存在を知らないにも関わらず、そのような魔法が生まれていることに、オキシは「先人たちの経験と直感からくる生きるための知恵」というものに、敬意を払わずにはいられなかった。
「オキシは妙な観点から魔法に興味を持つよね」
魔法に興味を持ち始める時、それは多くの者の場合、幼少期に通る道であるが、大抵の場合は、激しい舞いを見せる炎や大地を割るというような、派手なふるまいを見せる魔法に憧れるものである。しかしオキシが興味を持つ魔法は、視覚的にこれといって目立つような効果もない非常に地味なもの。魔法の対象となった物も破壊されたり変質したりせず、一見してはっきりと作用が見えない魔法ばかりなのである。
オキシはもちろん炎や氷といった分かりやすい魔法にも興味はあったが、そのような魔法よりも微生物を寄せ付けない保存の魔法に目がいってしまうのであった。
「そのうち色々な魔法で微生物を集めて、何かしたい」
「したい、って言われても……。それ、何の役に立つのさ」
「微生物は、役に立つかどうかではなく、役に立たせるんだよ」
何の役に立ちそうになくとも、何かの役に立つのではないかと考えることができるのが人間の強み。そうやって探し出したものは、意外な用途で使われるようになったこともある。
「例え何も思いつかなくても、好奇心が満たせれば、それだけで僕の役には立っている。自己満足、大事!」
魔力に集まる性質の微生物を観察することで得られるものは何であろう。それを考えるだけで心が踊るのだった。
オキシは買物メモを片手に持ち眺めつつ、辺りを見渡しながら道具を探し求め、購入を決めたものは手に取っていく。
今、視線の先の棚に並ぶのは刃物たち。非常に質素なものから、生物を象った装飾が目を引くものまで、様々な色・形状の刃物が並んでいる。怪我防止用の透明な箱に入ってはいるものの、刃の持つ何とも鋭い輝きは遮られることなく、その姿を魅せている。
オキシはふと、足を止めた。似たような品質の刃物が並ぶ中、目を惹くものが1本あったのだ。
黒味が強い銀色の金属で仕上げられ、少し反った剣身は中間部分に膨らみがある。装飾は無く、無駄のない形というものを追及して仕上げられたかのようなナイフだった。
面白みのないといえば、そうなのかもしれないが、機能美というのだろうか、無駄を排した道具に宿る美しさがあった。
何より、このナイフは集っている好魔力微生物が多いような気がしたのだ。
「これ、値段の割に良い魔法が付加されている気がする」
好魔力微生物が多くいるということは、それだけ強い魔法が付加されているということなのだ。
「そういうのが掘り出し物なんだよ。オキィシはほんと、目ざといというか、良い『目』をしているよね」
オキシは魔力を帯びている道具を、ある程度見分けることができている。それは注意を促さなくとも、形だけの偽物や低品質の物を掴まされることは、そうそう無いということ、その点では安心であった。
「それは訓練の賜物かな。最近はだいぶ慣れてきて、いつでも見つけられるように、暇さえあれば『見て』いるから」
「その訓練は良いこととは思うけど、さ。それで妙な食品ばかり見つけてもねぇ」
オキシが訓練と称して鍛えているその能力は、奇妙な食品を見つけることのためだけに、専ら使っているようにロゲンハイドは思えるのだ。
「発酵食品探しは、いい練習になるんだ。おもしろい微生物もお手ごろ価格で入手できるし」
オキシが目ざとく醗酵食品を見つけることができるのは、見た目が醗酵しているように見えるという経験則だけではなく、顕微鏡の目で見ているからであった。
最初の頃は、漠然と眺めようとすると雑多な微生物の大波に面食らっていたが、最近は人ごみの中にいる時と同じように、それら微生物を視界に収めながらも、日常を過ごせるようになった。「微生物を見る」という能力は、確実に使い勝手は良くなってきていた。
一方でそれは気になる微生物がいれば、それだけを目で追ってしまえる状態にもなれるということ、人の多い場所では避けているとはいえ、時に往来の真ん中で突然立ちどまることもあるので、実に迷惑な事ではあった。
「ビセイブツってのが好きなのは分かるけど、もうちょっと役に立つ使い方があると思うのに」
便利な能力を有しているのに、使い方を間違えている、というか、方向性がおかしいような気がしてならなかった。
微生物という、あまりに小さすぎて、存在するのかしないのか判別の難しい、訳のわからない生き物を見る為だけに使われていることに、納得がいかなかったのだ。
「僕は微生物を見るためだけに、この能力を手に入れて、磨いているんだから、いいの! それに微生物を知ることは、非常に有益だ。食品などを醗酵させるのはもちろん、有害な物質を分解させることもできるし、それに彼らが作る酵素や抗生物質なんかは……」
オキシの口調はだんだんと早口になり、表情も晴れ晴れとにこやかになっていく。
「あ、あああああ~。うん、そうだね、そうだったね。ビセイブツは役に立っているモノもたくさんいたね、いつも聞いてたから分かるよ」
突発的に始まるオキシの講義をいつも聞いていたので、最近では少しだけ理解できるようになってきた。とはいえ、「コウソ」だの、「コウセイブシツ」だの、ロゲンハイドにとって馴染みのない単語が何の説明もなく出てくることも多く、それが何のことをさしているのか分からないことも多い。そして、最終的には、何を言っているのかさっぱり分からなくなるのだ。
「ビセイブツの話も良いけど、そのナイフ! そのナイフは、いいと思うよ」
いつものように長い語りに入りそうな予感がしたので、ロゲンハイドは即座に話題を逸らした。
「んん? あぁ……ナイフ、ね」
水をさされたが、オキシは本来の目的を思い出す。
「このナイフは……」
そのナイフの横に置いてある性能について書かれた紙を手に取り、黙読しはじめた。
このナイフの材質は普通の鉄。錆を防止する保存の魔法はもちろん付加されている。加えて火の属性も付加してあった。
「火の属性、というと、もしかして火が出せる、とか?」
刀身に炎をまとわせることができるのだろうか。オキシは期待してしまう。
「このナイフの場合は燃やすというよりは焼き切るといった方がいいかな。刃がすごく熱くなるんだよ。使用中は火傷するから刃に触っちゃだめだよ」
再生能力の高い動植物を焼き切り、再生しにくくしたい時に役に立つナイフだ。しかし、便利な魔法の道具も、使い方を間違えれば怪我をしてしまう。魔法という現象をよく知らないオキシは、興味本位で熱くなった刃に触ってしまうかもしれないと、ロゲンハイドは危惧する。
「子供じゃあるまいし、さすがに触らないよ。ところで、そんなに熱くなるなら、このナイフに魚を刺したら焼ける?」
火傷をしてしまうほど熱いということは、それなりの熱を発しているはずだ。
「肉を焼く人はたまにいるらしいけど……」
使い方としては奨励されたものではないが、火をおこすのが面倒な者が肉を乗せて焼く事例は実際にあるということを、ロゲンハイドは知っていた。
「じゃあ、水に入れたら沸騰する?」
「沸騰は……無理だと思う。せいぜい温い水になる程度かも。それなら、おいらが作ったほうが効率が良いよ」
熱を出すといっても、出力はそんなには高くはない。刃に触れた部分が非常に高温になるだけで、熱源から少し離れただけで熱は簡単に失われてしまうのだ。
「でも、緑の砂漠で水を温めたくなった時は、使えるかな?」
緑の砂漠では魔法は発現しにくいと言われているが、「魔力が魔法に変換される」という現象が著しく起こりにくいだけである。すでに魔法を付加した道具は魔力さえ与えることができれば、発動するのだ。しかし、緑の砂漠では魔力の回復も遅いので、乱用ができない欠点はあるが。
「緑の砂漠でなら、そのナイフの方が……いやいや、燃える物集めて火を起こして水を温めた方が早いし、魔力も温存できるよ。わざわざ、ナイフを水に沈めて沸かそうとする人はいないよ」
「火事の心配が無い、と思ったんだけど」
「それでも、火をおこす方が断然いいよ」
ナイフに魔力を流し続けて水を温めるという行為は魔力の無駄使いである。魔力の回復が遅いような場所で、貴重な魔力を闇雲に消費するものではない。
ロゲンハイドにそう指摘を受け、オキシはナイフを見つめ、しばし考える。
「でも……熱を帯びるのは便利そうだし、これにしよう」
「おいらも、おすすめするよ」
「そういえば、この魔法の道具……僕に扱えるだろうか」
何を今更という気もするが、魔法に関することはロゲンハイドに任せっきりだったのだ。自身の力で何かをした事はなかった。
魔道具には大まかに2種類ある。自分の魔力を込める必要が無いものと、あるものだ。
前者の場合、道具に宿る魔法の効力が続く限り常に発動し続ける物だ。たとえば物がたくさん入る鞄があげられる。
後者の場合は、使用者が魔力を込めたり、魔蓄器を使ったりするなど外部からの供給がきっかけとなり効果を発する物だ。自分の魔力を利用する場合は、ある程度の魔力がないと、その道具は扱えないことになる。
「オキシには魔力あるし、大丈夫だよ」
「でも、道具に魔力を込めれば、発動するというのは分かるんだけれど、魔力を込めるってどうやるのだろう。そもそも魔力って何?」
値段も手頃なのでオキシはこのナイフを購入すると決めたいところであるが、扱えるか不安に思うところがあった。魔力の扱いがまったく分からないのだ。
「そこから教えなくちゃいけないのか」
「ぼんやりとは分かるよ。魔力は魔法を使うのに必要な材料であること。それが体内や大気中にあること。意識して感じ動かすものだというのも分かる。その魔力を制御することによって様々な魔法に変換できる性質があることも分かる」
「……そこまで分かっていて、何が分からないのか、おいらには分からないよ」
魔法という現象を、生まれたときから何の疑問も持たずに当たり前のように使ってきた。魔力と言うものはわざわざ説明しなくとも、幼いころからの習慣や感覚で身についているものだ。
魔法を常に使っている者たちにとって、当たり前のように存在し、当たり前のように使っている、そんな現象はあまりにも身近すぎて説明するのが難しかった。
「分かっているのと、実際にできるのとはだいぶ違う。詳しい説明が難しいなら良いや。素人が説明するには面倒くさくて難しい感じだろうし……」
呼吸をしている人間に、どうやって酸素を吸って二酸化炭素を吐き出しているのか聞くことに近い。どのような経緯を持って酸素が二酸化炭素になっていくのか、詳しく説明しようと思ったら、専門の本などを参考にしないとできる気がしなかった。
それに人間なんて現金なもので、例え仕組みは分からなくとも、使い方が分かっていれば平気で使う。
例えば全身麻酔がなぜ効くのかはっきりと「これだ!」という説明ができないにもかかわらず、何十年も経験的に使われてきた。仕組みは分からずとも、その現象が便利だから使っているのだ。
実際のところ、魔力と言う未知のエネルギーがどういう働きを持って魔法となるのかなんて詳しい仕組みは、どうでもいいのだ。
「でも、世の中には、自分にとってそれが起こるのが当たり前すぎることを、知らない人に説明したいと思うことがあるんだ。僕もここに来てから、そんなことだらけだ。頭の中には話したいことは山ほど浮かぶのに、それを説明したくともうまく言葉にできない、このもどかしさ!」
幼少のころから培ってきた科学の知識の上に成り立つ会話も数多く、魔法という地球とは異なる理がある世界ではそれらがほとんど通じない。科学の叡智はあまり役に立たないのだ。
「……オキィシの話は、難しいもんね」
オキシの説明が下手というのもあるが、話を理解するための最低限の知識をロゲンハイドは持っていないことも原因の一つなのだ。
「色々とたらたら言ったけれど、僕が今、知りたいのは魔法がよく分からない僕でもこの道具を扱えるのかということ」
すべてはそこに集約される。
「それは大丈夫、使えるよ。実際、ウェンウェンウェム地方出身の人で、大人になってから初めて魔法に触れたという人でも使えたし」
そもそもオキシは小難しく考え過ぎなのだ。魔法を使うには集中力が求められる。雑念に気を囚われていては、使えるものも使えなくなってしまうだろうと、ロゲンハイドは思ってしまう。
「そうか、それなら希望は持てそうだ。魔法を発動するには、何か呪文を唱えるものなのか?」
キセノンが魔法を使うとき、何かを唱えていたような気がするのだ。呪文で魔法が発現するのなら、手を前に出して「ファイア!」といえば火が出る、そんなファンタジーが現実となるのだ。
「呪文を唱える行為は魔法を使うにあたって集中するための自己暗示みたいなもので、必ずしも必要というわけではないんだ。精霊にはそんなもの必要ないしね。
精霊と人とでは魔法の扱いがちょっと違っているから、一概に同じ感覚で教えられるわけではないけれども、基本は似ている。
己の魔力を感じることが始まり」
精霊は自然を形にした塊、自分の属性であるならば思うだけでそれが世界に干渉して魔法が成り立つ。しかしそれは、ヒトが魔法を使うときとは異なる方法だ。それでも、根本は同じである。
「魔法は体内をめぐっている魔力を、手のひらなり指先なり、意識を集中しやすい場所に集めて、使いたい魔法に変換するというのが基本的な流れかな。
魔力の操作ができなきゃ、魔道具も使えない。魔力操作は本当に基本なんだ。
適性で向き不向きは多少あると思うけれど、魔力の操作ができれば、魔法への変換は難しくはないはず」
「魔力を感じるとか、体内をめぐっている、とか、変換とか……まずそもそも、魔力というものがどこにあるのか分からない。僕は自分の魔力を感じたことはないからなぁ」
魔力があると考えたことも無い世界から来た者が、魔力があると分かったからといって、すぐに使えるようになるわけではないだろう。
背中に突然翼が生えたら、それだけで飛べるだろうか。
突然できた器官は動かし方を知らない、うまく動かせるようになるだけでも時間がかかるだろう。動かせたとしても、その羽で風を捉え飛ぶことなど、すぐにはできないだろう。
何度か練習しコツをつかみ、慣れていって、いつか上手に飛べるようになるものだろう。
「やっぱりまずはそこからかなぁ。今から、魔力を感じる練習してみようか」
「うん」
とは言ったものの、道具売り場で魔法を使うわけには行かない。二人は買うものを買った後、魔法を使っても迷惑のかからない町の広場へ移動することにした