第1話 転校生は、前世の敵でした
朝のホームルームが始まる三分前、わたしは窓際の席でそっとため息をついた。
今日も平和だ。
誰もわたしに話しかけてこない。隣の席の子はスマホを見ているし、後ろの男子は友達とくだらない話で盛り上がっている。わたしの存在なんて、教室の空気と同じくらい薄い。
(最高。これが理想の高校生活)
桜山凛花、十七歳。前世の記憶を持つ、ごく普通の女子高生。
「ごく普通」という部分に少し無理があることは、自分でもわかっている。前世のわたしは、乙女ゲーム「薔薇と剣の聖戦記」に登場する悪役令嬢・ヴィオレット=ローズクレアだった。ゲームの中では主人公を苛め抜いた挙句に国外追放されるという、どう考えても救われないキャラクターだ。
しかも、その前世のスキルがちょっとだけ……いや、だいぶ今世に持ち越されてしまっている。
たとえば昨日。廊下でクラスメイトの女の子が泣いていた。近くにいた別の女子グループが、いかにも意地の悪い目で彼女を見ていた。
普通の女子高生なら、そっと通り過ぎるはずだ。
でもわたしの前世スキル「感情読み取り」が勝手に発動して、グループのリーダーの子が実は家庭問題を抱えていることを察してしまった。そのまま何となく近づいて、何となくふたつの単語だけ言ってしまった。
「お母さんのこと、大変だったね」
彼女は目を丸くして、それから泣いた。嗚咽が廊下に響いた。なぜかグループの子たちまで一緒に泣き出して、最終的に五人で号泣していた。泣いていた女の子もつられて泣いていた。
いじめがどこかに消えていた。
(……また、やってしまった)
こういうことが、週に三回くらいある。前世の悪役令嬢スキルは、どうやら現代の学校でも十分すぎるほど機能するらしい。使うつもりがなくても勝手に動いてしまうし、使うと大抵「問題が全部解決される」という謎の副作用がある。
おかげでわたしのクラスは、入学当初と比べて不思議なくらい平和になっている。
そしてわたしの周りには、なんとなく「近づきがたいオーラのある子」という評価が定着していた。それはそれで構わない。目立たなければいい。ひっそり生きていければいい。
担任の橋本先生が教室に入ってきたとき、その後ろに見慣れない影があった。
「みんなおはよう。今日から新しいクラスメイトが来ます。入って」
転校生。その言葉が頭に浮かんだ瞬間、わたしはなぜか背筋が冷たくなった。
前世のスキル「危険感知」が、微弱に反応していた。
(え、なんで。転校生ごときで……)
教室のドアが開いた。
入ってきたのは、黒髪の男子だった。背が高くて、制服の着こなしが妙に様になっていて、ガラス細工みたいに整った顔をしている。
女子たちがざわめく声が聞こえた。当然の反応だと思う。あの顔は反則だ。
でもわたしがぞっとしたのは、顔のせいじゃない。
「黒瀬宙です。よろしく」
その名前を聞いた瞬間、前世の記憶が怒涛のように流れ込んできた。
黒瀬宙。くろせそら。
それは、乙女ゲーム「薔薇と剣の聖戦記」に登場する、攻略対象キャラクターの名前だ。前世の世界に置き換えると、「アスター=クロフォード公爵令息」。冷静沈着で頭が切れて、ヴィオレット——つまり前世のわたし——が最終的に国外追放される引き金を作った人物。
(なんで、なんでいるの、なんでここに、なんで現代に――っ)
パニックを顔に出しそうになって、前世の訓練が自動的に作動した。表情筋が完璧に制御される。「何も感じていません」という顔が完成する。
これが前世スキルの便利なところでもあり、厄介なところでもある。
黒瀬くんが教室を見渡した。そして——まっすぐわたしを見た。
教室の中で、たったひとりだけを選び出すみたいに。
その瞳に、見覚えがあった。ゲームのキャラクターとは違う、現代の制服を着た男の子の目。でも、その奥に揺れる光は、前世で何度も見たものと同じだった。
「空いてる席、ここでいいですか」
先生が「どうぞ」と言うより先に、彼がわたしの隣の席を指差した。
なぜよりによって、わたしの隣なの。
席に着いた黒瀬くんは、それ以上わたしを見なかった。授業が始まり、ざわめきが収まり、いつも通りの退屈な午前が流れていく。
わたしが心臓をばくばくさせながら、ひたすら黒板を見つめていると——
「……久しぶりだな、ヴィオレット」
声は小さかった。先生には絶対に聞こえない音量。前を向いたまま、ノートにペンを走らせながら、黒瀬くんはさらりと言った。
全身の血が凍るかと思った。
「ヴィオレット」。前世の名前。このクラスでは誰も知らない、この世界では存在しないはずの名前。
(……知ってる。この人、全部知ってる)
前を向いたまま、わたしは静かに答えた。前世仕込みの、完璧に平静を装った声で。
「人違いです」
「そうか」
黒瀬くんはあっさり引き下がった。でも口の端が少しだけ上がっていた。
(あの笑い方、前世と一緒だ。嫌いだったのに……なんで少しも変わってないの)
放課後、わたしは一刻も早く帰ろうと鞄を掴んだ。
でも廊下に出たところで、追いついてきた足音があった。
「逃げなくていい。俺はお前を追放しに来たんじゃない」
振り向けば、黒瀬くんが廊下に立っていた。夕方の光が逆光になって、その表情がよく見えない。
「じゃあ何しに来たんですか」
前を向いて歩きながら、わたしは言った。声が震えないように、前世のスキルを総動員して。
黒瀬くんは少し間を置いてから、静かに答えた。
「前世でお前にしたこと、謝りに来た」
足が止まった。
思わず振り返ったわたしと、黒瀬くんの視線がまともにぶつかった。夕暮れの廊下で、彼は真面目な顔をしていた。ゲームの中の冷酷な攻略キャラとも、今朝の飄々とした転校生とも違う、どこか剥き出しな表情。
(謝りに来た、って。前世で悪役だったのはわたしのほうなのに)
「……どうして」
声に出してしまってから、しまったと思った。興味があるみたいじゃないか。
でも黒瀬くんは嬉しそうに——ほんの少しだけ、でも確かに——目を細めた。
「ゲームの中でヴィオレットがしたことは、全部俺が仕組んだからだ。主人公を追い詰めたのも、お前が黒幕に見えるよう誘導したのも。本当の悪役は俺だった」
廊下に、夕方の風が吹き抜けた。
わたしはしばらく何も言えなかった。前世の記憶が、次々と塗り替えられていくような感覚。自分がずっと「悪女だった」と信じていたものが、ぐらぐらと揺れ始める。
そうして、ようやく口を開いたとき——
「……それを言いに、現代まで転生してきたんですか? あなたって、本当に」
言葉が続かなかった。怒ればいいのか、笑えばいいのか、前世スキルでさえ教えてくれない。
「馬鹿みたいですよね」
黒瀬くんは素直に頷いた。
「自覚してる」
また少し、口の端が上がる。それが前世と同じ笑い方で、でも前世とは全然違う温度で、わたしはなぜかひどく困った気持ちになった。
この人のことが嫌いだった。前世では、ずっと。
なのに今、「嫌いだ」という言葉が、どこかに引っかかって出てこない。
(まずい。これは、まずい展開だ)
わたしは今世でも悪女なのかもしれない。だって——
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ、温かくなってしまっているのだから。




