【短編】イリーナ様は転生者!
予定より三日も遅れて、ようやく首都アストリアの門をくぐった。
旅の間の災難は数えきれない。御者は道を間違え、馬車は川に落ちかけ、豪雨にさらされる。さらには滅多に姿を現さない魔物にまで襲われる始末。もはや呪われているのではと本気で疑ったほどだ。
そんな苦労の末に辿り着いた首都は、想像をはるかに超えていた。地元の祭りでも見たことのないような人混みと喧騒に、思わず立ち尽くす。
せっかくのローブもシワシワのヨレヨレ。ここで暮らしていくと決めた決意も萎み始めていた。
「ーー引ったくりだ!」
追い打ちをかけるように、誰かの叫びが喧騒の中を裂くように響いた。
視線を走らせた先にいたのは、深く黒いフードをかぶった男。動きに無駄がなく、足取りも軽い。ケチな犯罪者にしては、妙に体格がいい。
おそらく、財政削減を唱える宰相によって再編された近衛騎士団の、あぶれ者か何かだろう。腕は立つが、行き場を失った連中はこうして街の闇に紛れていく。
いつもの俺なら、こんな騒ぎには関わらない。
犯人の顔を一瞥して、あとは知らんふり。そのはずだった。
だが、今回はそうもいかない。考えるよりも先に体が動いていた。フードの男が向かう先に、俺と同じ赤いローブをまとった黒髪の少女が立っていたのだ。
周囲が騒然とする中で、彼女だけが動かない。小さく口を動かしているが、足は地面に縫い付けられたようだった。
まずい。
犯行が露見した今、男が焦って危険な行動に出る可能性がある。
咄嗟に彼女を抱きかかえ、その勢いのまま地面へと倒れ込んだ。背中に鈍い衝撃が走り、土の匂いが鼻をついた。
彼女の体が密着する。柔らかな髪が頬に触れ、わずか数センチの距離で互いの呼吸が交差し、熱が肌を通して感じられた。
あわててあたりの様子をうかがうと、フードの男は足を止めることなく、そのまま通り過ぎていったようだった。
「……行ったみたい。もう、大丈夫だ」
そう告げると、すぐさま返ってきたのは、容赦ない一言だった。
「あなたが余計なことしなければ、捕まえられたんですけど」
氷のように冷えた視線が突き刺さる。言葉の鋭さに気圧され、立ち上がることすら忘れていた。なるほど、美人が言うと凄みが増す。
先に立ち上がった彼女は、服の裾をそっとつまみ上げて、泥の染みを見つめた。
「うわぁ……最悪。どうしよう、これ……」
思わずこぼれた声には苛立ちよりも戸惑いが混じっていた。
俺も立ち上がり、軽く息を整える。助けたつもりだったのに、この態度。いったい、どういうつもりなんだ。
「……じゃあ、あの状況でどうする気だったんだよ。その赤いローブ、俺のと同じエレベイト魔術学園のものだろ? あそこは全寮制だ。こんな時間にここにいるってことは、俺と同じ新入生ってことじゃないか。入学時に中級魔術がひとつでも使えれば主席になれるって噂なのに、新入生に何ができるって言うんだ」
「精霊魔法」
「……は?」
今、魔法って言ったか? それも、精霊魔法。
人の理を超えた現象をこの世に顕現させる魔法。その中でも、とりわけ上位に位置づけられる精霊魔法は、四大元素を司る精霊に認められなければ使うことができず、いたずらに魔力を消費させるだけだ。
俺の尊敬する大賢者アミア様だって、学生のころに精霊魔法を使えたなんて話は聞いたことがない。
こいつ、嘘つきだろ。
それでも、落ち込んでいるのは本当のようだった。うっすらと涙まで浮かんでいるように見える。
家業を投げ出してここへ来た俺とは違い、彼女は田舎の期待を一身に背負ってこの地に立っているのかもしれない。
ほんの少し、胸が痛んだ。罪悪感なのか、それとも別の何かか。
自分でも、どうしてこんな行動を取ったのかよくわからない。
気がつけば、俺は自分のローブを彼女に差し出していた。
「え……いいの?」
「まあ、そのままじゃ入学式どころじゃないしな。俺のはそこまで汚れてないし、いいよ」
助けたいというより、彼女の困った顔を見ていられなかった。それだけだった。
「……ありがとう。ほんとに助かる」
彼女は少し恥ずかしそうに笑って、ローブを肩に掛けた。少し大きすぎたけれど、それがまた、やけに似合っていた。
「どう? 変じゃない?」
彼女がくるりとその場で回ってみせる。
その光景があまりにも美しくて、つい見惚れてしまった。問いかけが自分に向けられたものだと気づいたのは、彼女が不思議そうに首をかしげてからだった。
「……やっぱり、きみに悪いし、せめて入学式の間だけでも借りられないかな。こんなにぶかぶかだと、ちょっと変かもだけど……」
戸惑うように笑いながら、彼女はローブの裾をつまむ。
胸の奥が、ふわりと温かくなる。言葉にしなければと思いながらも、どこかくすぐったくて、落ち着かない。
「そ、そんなわけないって……なんて言うか……すごく、かわいいよ」
気づけば、自然とそんな言葉が口を突いて出ていた。
彼女は目をぱちりとさせ、すぐに頬を染めてうつむいた。
「そ、そんなこと言われなくても、私がかわいいのは知っているし……」
その返しが、嬉しそうなくせにちょっと照れてる感じで、なんだか自分まで照れくさくなってしまい、俺たちは慌てて視線を逸らした。
「わ、私行かなくちゃ! じゃ、またね!」
そう言ってイリーナはぱたぱたと駆け出した。俺のローブを羽織ったまま、泥にまみれたローブも抱えて。
「……おい、ローブ……!」
呼び止める間もなく、彼女は角を曲がって姿を消した。
俺だってこれから入学式なんだ。小さい泥だらけのローブでもないよりマシだったのに。
制服のシャツだけで残された俺は、風に肩をすくめる。
「入学式前からこんな調子じゃ……先が思いやられるな」
それでも、胸の奥にはなぜか不思議な高揚感があった。まるで、何かが始まる予感に包まれているようで。
♢♢♢
石造りの取調室は薄暗く、壁に取り付けられた蝋燭の火が、かすかに揺れていた。
なんとか新入生の波に紛れて魔術学園の門をくぐろうとしたが、ローブを身につけていなかったせいで、あっさりと侵入者扱いされ、衛兵に捕まってしまった。
それからしばらく経つ。もう、入学式は始まっているはずだ。
なんとかしてこの状況を脱したいのに、初級魔術を披露した程度では、石頭の衛兵は首を縦に振らない。
もどかしい時間だけが、ただ静かに過ぎていく。
……彼女は、無事に式に出られただろうか。
気づけばなぜか、彼女の微笑んだ顔が頭に浮かんでくる。
鈍い時間がさらにひとつ、積み重なろうとしたそのとき。
重たい鉄の扉がギィと音を立てて開いた。
現れたのは、雷のような髪色のショートカットの二十代くらいの女性だった。軍服のような仕立ての上着に、きっちりと磨かれたブーツ。優しい目つきは余裕を含んだ微笑みを浮かべている。
「お待たせ。ちゃんと確認が取れたわ。あなたがエレベイト魔術学園の新入生で間違いないって。ノード・ゲートウィルくん」
微笑みながらそう告げる女性の声は、まるで緊張をほどいてくれるように穏やかだった。
彼女は片手に書類のようなものを持っており、それを衛兵に軽く見せながら部屋の奥へと進んできた。
「入学登録はされてるのに、ローブが支給されてなかったのか、忘れてきちゃったか。それとも、人助けのためかしら。珍しいケースだけど……まあ、初日から災難だったわね。ついてきなさい」
ようやく自由の身になったという安堵よりも先に、俺の心を満たしたのは、目の前の女性が持つ不思議な安心感と、どこか惹きつけられるような存在感だった。
ルーシェと名乗ったその女性に案内され、俺はようやく学園の敷地内へと足を踏み入れた。
石畳の通路を歩くたび、靴音が静かに反響する。高い天井にアーチを描く回廊、磨き抜かれた大理石の柱。白く広がる回廊の先に、光を受けてきらめくステンドグラス。幾何学模様を描く床と、魔法の紋様が刻まれた天井。
どこか王宮を思わせるような、荘厳で静謐な空間だ。ここが俺が憧れていた場所、エレベイト魔術学園。
立ち止まった俺は、しばし呆然とその光景を見上げていた。
ここでなら、何かが変わるかもしれない。そんな根拠のない期待が胸の奥で膨らむ。
「驚くのも無理ないわね。初めて来たとき、私も立ち止まって見惚れたもの」
落ち着いた声。どこか懐かしいような、包み込むような響きだった。さっきまで取り調べ室にいたことが嘘のように、肩の力が抜けていく。
彼女は一歩前に出ると、ゆるやかに振り返った。
「そうそう。私があなたの担任のルーシェ・ヴァレンティナ・グランヴェール。わからないことがあれば、何でも聞いて。ここでの生活に不安があるのは当然だもの。でも、大丈夫。焦らず、少しずつ慣れていきましょう」
優しく微笑むルーシェ先生の顔を見て、思わず頷いていた。この人なら、きっと俺のことをちゃんと見てくれる。そう思わせてくれた。
「でも、せっかく遠くから来たのに、入学式に遅れたらもったいないでしょ? さあ、行きましょう。……私、ちゃんと送り届けたかって聞かれるのよ?」
ルーシェ先生は、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべながら、そう言った。
ほどなくして、学園の外れに広がる開けた広場へと出た。
白い石で組まれた円形のステージが設けられ、その中央では、ひとりの少女がまっすぐ前を見つめていた。
あいつだ。
間違いない。あの時、泥だらけになっていた少女。今は整えられた髪ときちんと着付けられたローブを身にまとい、まるで別人のような凛々しさを湛えている。
少女の口から、堂々とした声が放たれる。
誰よりも静かに、誰よりも強く、空気を支配するような言葉だった。
「……新入生代表の挨拶? まさか、あいつが?」
小さくつぶやいた俺の隣で、ルーシェ先生がふっと笑った。
「才女よ、あの子は。本当に優秀。成績も、血筋も、申し分ないわ……でもね、それだけじゃない。ああ見えて誰よりも努力してるのよ。イリーナ・ソフィア・ル・モリス、名前くらいは聞いたことあるんじゃない?」
「あいつが、あの噂の?」
思わず息をのむ。王の妾腹として生まれ、政争に巻き込まれて田舎に追いやられた少女。その名は、貴族ならず民の間でもさまざまな噂としてささやかれていた。
ある者は、彼女が王の血筋を引くため王位を狙っていると囁き、また別の者は、ただの道具に過ぎないと冷ややかに語っていた。いずれにせよ幸せには死ねないだろうとも。
そんな彼女が、成績トップの者に任される入学の挨拶を務めるなんて。
「この学園の伝統、知ってる? 新入生代表の挨拶の最後に、自分の得意な魔術を披露するのよ。いわば、最初の見せ場ね。代表って呼ばれるくらいだから、その出来によっては、学年全体の印象を左右することもあるの。それに、ついた評価やレッテルは、卒業後にまでついて回ることだってある。だから、みんな本気になるのよ。新入生たちの純粋な期待だけじゃない、いろんな思惑が入り混じってる」
ルーシェ先生は、どこか哀れむような表情を浮かべて、視線を会場の方へ向ける。その真意を探ろうとしたそのとき、挨拶の終わりを告げる拍手に会場が包まれた。
会場は魔術の披露を今か今かと待ちわびる熱気に包まれている。新入生たちは目を輝かせ、来賓たちは興味深げに目を細める。そのざわめきに紛れ、俺はふと、異質な気配を感じ取った。
それは風にまぎれるほどに微細で、けれど確かに魔術の気配だ。
「まずい……!」
直後、空気が焼けるような音を立てて、炎が渦を巻く。直径が数十メートルもある巨大な火球が現れ、中心は白金色に近い白光をしている。
上級攻撃魔術《ルミナ=ソレアレイス》だ。
実体を持つ太陽の欠片のような存在が、空間そのものが歪むほどの熱と魔力の奔流を伴い、轟音と共にステージに向かって放たれた。
叫ぶ間もなく、火球はステージへと叩きつけられた。だが、爆発の直前、あらかじめ張られていた防御結界がそれを受け止めた。
ただの式典用の防壁とは思えない強度だ。それでも、ひと目でわかる。今の一撃で、すでに限界に近い。
「ルーシェ先生!」
すがるように名を呼ぶ。その瞬間、彼女の姿は閃光に包まれ、雷鳴とともに消えた。いや、彼女は雷そのものとなって広場へと駆けたのだ。
「雷の魔術っ……!」
次の瞬間、轟音とともにステージ脇の地面が弾け飛んだ。雷撃、それも尋常ではない高位の魔術だ。
まばゆい閃光が敵の姿をあぶり出す。黒衣の刺客が瞬きをする間もなく、雷の槍がその足元を穿ち、さらに二発、三発と連続して大地を叩いた。
雷は地を這い、空を裂き、音と光の奔流が会場を支配する。
その中心、ステージの手前に現れた彼女は、まるで嵐の化身のようだった。
「生徒に手を出すなら、まず教師の私を倒しなさい」
雷の鞭が彼女の周囲に奔り、まるで守護するように周囲を巡る。
炙り出された刺客から息をのむ音が漏れる中、その眼差しだけは、冷たく、揺るぎなかった。
雷鳴の余韻が空気を震わせる中、雷光とともに舞い上がったルーシェ先生は、観客席の上空に鋭い視線を投げた。
黒いローブの男がそこにいた。隠密の魔術で姿を隠していた刺客が、詠唱もなく魔力を収束させる。
「まさか、結界を……!」
次の瞬間、男の指先がきらめき、ステージを覆っていた結界が鋭利な刃のような光に裂かれた。まるで紙を裂くように、魔術の防壁が音もなく崩れ落ちる。
「……っ!」
ルーシェ先生が空中で方向を変え、急降下する。雷撃の矢が放たれ、男の魔術に割り込むように飛んだ。
「させないわよ……!」
ローブの男の魔術を寸前で打ち消すことに成功したものの、完全に無力化はできない。男はすぐさま地面を蹴り、別方向へ跳躍する。ルーシェ先生もそれを追わざるを得なかった。
彼女は、もうイリーナの傍にはいない。この隙を見逃すほど敵はやさしくなかった。
空気が震えた。ステージの上、結界を失ったイリーナの頭上に、太陽のように燃える火球が再び迫る。
再び放たれた火球は、先ほどよりも遥かに大きく、灼熱の渦をまとってイリーナへと迫る。
守るものは、誰もいない。
俺の足は勝手に動き出していた。何ができるかはわからない。でも、行かなくちゃならなかった。
悲鳴と怒号が飛び交う中、俺はステージへと歩を進めた。逃げ惑う学生たちをかき分けながら、一歩ずつ。
その混乱の中心にいるイーリスだけが、まるで嵐の中の静寂のように、微動だにせず前を見据えていた。
ふ、とイリーナが微笑んだ。その微笑みは、まるですべてを見通していたかのように余裕を湛えていた。そして、まるで呼吸をするかのように、両手を広げたイリーナの背後に、ひとしずくの雫がふわりと浮かび上がった。それは淡く光りながら、少女の姿となる。
透き通るような肌。水面のように淡くゆれる髪。その少女は、ふわりと空中に立ち、まるでくらげのように揺れるスカートをはいていた。そのスカートは水でできているのか、ひとたび風が吹けば、水面の波紋のように光を反射し、七色の輝きを帯びる。
その小さな手が、イリーナの肩にそっと触れる。
目を細めて微笑む彼女の表情は、無垢でやさしく、それでいて星々が流れる夜のように神秘的だった。
「イリーナ。お願い、わたしに命じて」
声にならない声が、確かにそう告げた気がした。
その声にこくりと頷いたイリーナが詠唱を始める。
「蒼き水よ、ひとひらの夢を紡げ。命なき熱を鎮める 儚き羽となりて舞え《エル・シエル=グラシエル》」
次の瞬間、少女のスカートがふわりと広がる。波紋のような魔力が空気中に解け、すべてを静かに、そして美しく包み込んでいく。
舞い上がる水の蝶。青く透き通った羽ばたきが、無数に夜気を舞い踊る。
静かに、優雅に、それでいて確かに、灼熱の火球を包み込み、呑み込み、跡形もなく消し去った。
幻想的な光景に、会場全体が言葉を失う。
その静けさを破ったのは、バタリという鈍い音だった。
会場の一角、ざわめく人波の隙間で、アーシェが黒衣の男たちを雷の鎖で足元から縛り上げていた。足元から絡みつく蒼白い稲妻が、彼らの動きを封じている。
フードの男が悔しさがにじむ表情で反撃の隙を探そうとしたが、その瞬間アーシェ先生は素早く踏み込んで腕を取り、関節を決めてねじ上げる。
「逃がさないよ。訊きたいことは山ほどあるの。これでもこの学園の先生なんだから」
騒ぎの余韻が残る会場に、重たい沈黙が垂れ込めていた。
無理もない。入学早々、こんな騒動だ。訓練でも試験でもない、本物の戦闘。恐怖のあまり泣いている者もいた。
その空気を軽やかに振り払うように、アーシェ先生はイリーナに向かっておどけたようにウインクを送った。
「そろそろ見せてくれるよね? 新入生代表のお得意魔術ってやつ。みんな待ってるし、先生、楽しみにしてたんだから」
その明るい声に、会場に漂っていた緊張がすこしずつ解けていく。
イリーナは力強く頷き、詠唱を始める。
「澄みゆく水よ、祝福の願いに応えて。静けさに満ちた心を映し、いま、光のしずくをこの空に咲かせて《グラシエル=ルミエール》!」
きらきらとした霧のような粒子が会場全体に降り注ぐそれは雪ではなく、水の精霊が祝福として贈る魔力の結晶。髪や肩に触れても冷たさはなく、触れた人の心に安らぎと癒しをもたらす。
「……本当に精霊魔法を使えるんだな」
こうして二度も目の当たりにすると認めざるを得ない。
あれはただの噂じゃなかったのか。王家の血を引く少女、イリーナ・ソフィア・ル・モリスは、平和な世に似つかわしくない強大な力をその身に宿し、それを恐れた宰相によって追放されたという噂は。
水の精霊が微笑みながら彼女の周囲を漂う。あれほど繊細で、そして優しく美しい魔法を、俺は今まで見たことがなかった。
王の血を引き、精霊に愛され、誰もが息を呑むような魔法を使いこなす。まるで物語の中の存在だ。俺たちとは、住む世界が違う。
ふと、イリーナがこちらを振り返り、ふわりと年相応のあどけなさすら残る笑みを浮かべた。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
やめろと言い聞かせても、無駄だった。
あの微笑みを見てしまった一瞬で、彼女がとても近くに感じられてしまったのだ。魔法でも、血筋でもない、ただのひとりの少女として。
けれど、それは許されないことだった。
これほどまでの魔力と実力。学生の領分を超えている。
「……まさか、彼女は転生者なのか」
呟いた声は、誰にも届かないほど小さく。その響きに、自分でもわずかに身を竦めた。
彼女は噂されている以上に、特別な存在に違いない。我が家に伝わる家訓にあまりにも当てはまりすぎる。
あの日、父から聞かされた家訓が脳裏をよぎる。
――門の一族は、転生者と交わってはならぬ。
この世界に“外の理”を持ち込む者と我が一族が縁を結ぶこと、それ自体が災いの種となる。
いかなる理由があろうとも、家訓を身と心に刻み、転生者には決して近づくな。
1.黒髪の者は、転生者を疑え。
2.衆目を引く美貌の者は、転生者を疑え。
3.人智を超える力を持つ者は、転生者を疑え。
4.世界を救う者と呼ばれし者は、転生者を疑え。
5.転生者と結ばれてはならぬ。
「ふざけてるよな、こんな掟」
笑おうとしても、うまく笑えなかった。
ただの迷信。そう割り切れたら、どれほど気が楽だったか。
だが、門の一族に生まれた以上、身に刻まれたその教えは伝承では済まされない。
過去には、掟を破って転生者と結ばれた者が一族を滅ぼしかけたという記録すら残っているのだから。
だけれど、そんなそんな苔の生えた掟から逃れるために、ここに来たんじゃなかったのか。
広場の騒ぎもようやく落ち着きはじめ、関係者たちの動きが慌ただしくなっていく。視線の先に彼女がいた。
イリーナ。騒動の中心にいて、誰よりも静かに、そして美しくあの魔法を使った少女。
その彼女が、こちらに気づいた。
目が合う。ぱっと花が綻ぶように、年相応のあどけない笑みを浮かべて、手を振ってきた。
「……ローブを返してもらわないとな」
そんな些細な理由を口実にして、自分に言い聞かせる。
距離を取るべきだと、頭ではわかっているのに、彼女に向かって歩き出していた。