第1話:さよなら現世。こんにちは来世
――それは、まどろむような不思議な感覚だった。
眠っているような、脳だけが起きているような。体はろくに動かせないものの意識だけは存在する、曖昧な状態だった。何かあった気がするのに思い出すことができない。ぼんやりとした意識で時間が過ぎるのを待つだけだ。
そうして一体どれだけの時間が過ぎたのか。意識が少しずつ形を作り、それに伴って様々な感覚がほんの僅か、指先に血が通うようにしてゆっくりと明確になっていく。
今の状態になって過ぎた日は、一体どれぐらいになるのか。既に数年過ぎた気もするし、数ヶ月、あるいは一ヶ月も経っていないのか。
感覚こそ明確になっていくものの体は思うように動かず、視界はぼやけてほとんど見えない。時折ざわつくような音が鼓膜を震わせるが、意味のあるものとして捉えることができない。
いつしか不規則に訪れるようになった空腹や眠気、尿意や便意が時間の経過を伝えてくるものの、我慢できない不快感が同時に襲ってきて勝手に泣き喚くような声が漏れ、涙が溢れてしまう。
そんな自分の状況に、なんだこれ? と疑問を抱くこと幾日か。ようやく視覚と聴覚が正常に近付いてきたことで得られた情報は、俺が抱いていた疑問を混乱へと変貌させた。
視界に真っ先に映ったのは、見覚えのない木製の天井。視線を動かしてみれば自分の体が白い布地に埋もれている。そしてなにやら天井がゆらゆらと前後に揺れていて……あ、これって揺れているのは俺? 地面? というか体が小さい?
「あら? 坊ちゃま、どうされたのでしょう?」
「本当ね。自分の手を不思議そうに見てるような……」
自分の手を観察しているとそんな言葉が聞こえてきた。それにつられて視線を向けてみると、俺よりも年下……多分、二十歳すぎぐらいの女性が二人、覗き込むようにして俺を見ている。
片や、肩口で切り揃えた綺麗な金髪と赤い瞳が特徴的な、ゆったりとした形のドレスに身を包んだ女性。
片や、赤みを帯びた長い茶髪と茶色い瞳が特徴的なクラシカルなメイド服に身を包んだ女性。
どちらも聞き覚えがあるような声を俺に投げかけながら、楽しそうに微笑んでいる。
(……ああ、夢か)
そして、そんなことを思う。だってそうだろう? 明らかに外国人と思しき見た目だっていうのに、喋っているのは俺にも理解できる言語――日本語なのだから。
「坊ちゃま? どうされましたか?」
「お腹が空いたのかしら? アンヌ、少し見てちょうだい」
そんな会話をしつつ、茶髪の女性がなにやら俺の両脇に手を差し込んで持ち上げた。すると平均よりは身長があるはずの俺の体が軽々と持ち上がって……え?
「…………」
突如として逆バンジーのように全身が浮き上がった俺は、思わず無言になる。視線を動かしてみれば眼下にベビーベッドらしき物体が見えた。それも、体の何倍もの高さを隔てた先にだ。俺の感覚でいえば、三階建てぐらいの高さまでの急上昇である。
俺を持ち上げた茶髪の女性がとんでもない巨人だったのか、部屋の大きさや家具もそれに見合った巨大さなのか。
(いや、この場合は逆……か?)
どこぞの風刺小説みたいに周囲が巨大化したのか、俺が小さくなったのか。夢の中なら何が起きても不思議じゃないとはいえ、いきなりすぎて心臓に悪い。
(というか、夢だとしたら俺はいつの間に眠って……)
夢の中だと自覚することを明晰夢というのだったか。珍しい体験だとは思うものの、まるで赤ん坊にでもなったかのような夢となると自分自身の深層心理がどうなっているのか怖くなる。
実は誰かに甘えたいという願望があったのやもしれん。いやいや、それ自体はおかしな願望じゃないのかも、なんて考えていたら眠気に襲われ、あっという間に意識が途切れていくのを感じた。
どれだけの時間が過ぎたのか、目が覚めても赤ん坊のままだった。寝ても覚めても体内時計で何日と経っても赤ん坊のままだった。
茶髪の女性に世話をされ、時折金髪の女性が訪れては笑顔で話しかけられ、寝て起きて母乳を与えられて排泄してまた寝て起きてと何日も繰り返し、それでも赤ん坊のままだった。
体を自由に動かせず、喋ることもできず、逆らえない眠気が一日の間に何度も訪れ、空腹感や尿意や便意その他諸々で泣いてしまう。精神が削られるような日々である。
他に何かあったとすれば会話を聞いて茶髪の女性がアンヌ、金髪の女性がローラという名前だと判明したぐらいだ。アンヌさんは俺の世話係か乳母みたいな立場で、ローラさんは俺の母親らしい。ついでに俺はミナトって名前で呼ばれている。
アンヌさんもローラさんも見た目と名前から外国人だと思うけど、どこの国の人かはわからない。日本語ペラペラだから日系人かもしれないけど。
あと、気が付けばローラさんの腹部が大きくなっていた。服装もマタニティドレスみたいにゆったりとしたものに変わっていて、妊娠していることがうかがえる。
「ミナト坊ちゃま、今日は良いお天気ですよ。さあ、お外を見てみましょうね」
アンヌさんに抱きかかえられ、言われるがまま部屋の窓から外を見る。どうやらこの部屋は三階にあるらしく、窓から見えたのは手入れが行き届いた広い庭と庭の先にある高い石壁。それと雲がまばらに浮かんだ青空と、庭を歩く槍を持った鎧姿の不審者達。
「…………」
きびきびとした動きで庭を歩き回る不審者達に絶句することしばし。コスプレとは思えない重厚な、太陽の光を鈍く反射する鎧を着込んだ三人組が視界の右から左へと歩き去っていく。
「んぁばぁあ……」
んな馬鹿な、と言ったつもりが口から漏れたのは不明瞭な言葉だった。舌が回らないから仕方ないが、不審者を見てもアンヌさんが無反応な点は仕方ないで済ませたくない。
「そうですねぇ坊ちゃま。良いお天気ですねぇ」
「いぁぅ……」
違うよアンヌさん。あの不審者集団について説明を求めたんだよ。でもこんなにのんきな反応ってことは不審者じゃない? 夢にツッコミを入れるだけ無駄なの?
(鎧を着て槍を持った存在が歩き回ってるのにこの反応とか……アンヌさんにとってはこれが普通? やっぱり夢で整合性が取れてないだけ?)
そんなことを考えつつ抱きかかえられたついでに視線を巡らせてみれば、これまで生活してきた部屋にも違和感があった。
まず、電化製品が見当たらない。部屋自体は広いものの壁際にコンセントの差し込み口がなく、木製の棚や椅子、革張りのソファーが置かれているだけだ。金属製の物、プラスチック製の物も置かれておらず、床にはお高そうな絨毯が敷かれている。
俺の世話という仕事に専念しているからか、あるいは存在しないのか。アンヌさんがスマートフォンを取り出していじることもない。
時折アンヌさん以外にもメイド服を着た女性が訪れたり、なにやら執事っぽい男性を連れた若い男性が訪れたりもするけど、現代社会で普及していた様々な代物を見かけることはなかった。
ただ、その若い男性――二十歳前後でスーツを少しばかり派手にしたような衣服で身を包み、御当主様とか呼ばれているお偉いさんっぽい人はどうやら俺の現状における父親らしく、ローラさんを除いて周囲に畏まられていた。
ちなみに今世の父は常に表情をキリリと引き締めて威厳を漂わせているが、俺が笑ったり手を伸ばしたりすると口元が盛大に緩む。
(うーん……まさか、そんな……)
ここまで日が経って、目を逸らしていた事柄に俺は意識を向ける。
俺の感覚としては数週間、実際には既に数ヶ月ほど前になってしまいそうだが、自宅に侵入してきた不審者に刺されてから意識が途絶えたはずだ。
それは良い――いや良くないが、問題はその後である。
ベビー服越しに胸部に触る。そこに傷があるような感覚はなく、痛みもない。まるで何もなかったかのようだ。
傷跡を確認する俺だったが、不審者に刺されたものの近所の人が通報して救助され、今頃病院のベッドに寝かされているものの目が覚めず、夢を見ている可能性が頭を過ぎる。あとは刺されて死んで、何故か記憶を保持したままで生まれ変わった可能性も。
(夢にしては一向に目が覚めないし、感覚がリアルすぎるよな……)
夢を見ているにしては連続性があり、空腹感や眠気その他諸々の感覚もしっかりとあるのだ。
これはもしかすると現実の出来事なのか。いや、そうなるとアンヌさんとローラさんが日本語を話している点がおかしい。やっぱり夢の中の出来事で……と頭の中で堂々巡りする。
「それでは坊ちゃま、ベッドに戻りましょうか」
「あぁい……」
わからないものはわからないし、誰かが教えてくれるわけでもない。俺はアンヌさんの言葉に赤ん坊らしい舌足らずな返事をすると、襲ってくる眠気に抗わず意識を落とした。
そうして、意識がはっきりとして自分が自分であると認識し、日々赤ん坊として生活して早数ヶ月。生まれてからは多分一年と少しが過ぎた日のこと。
(ん? なんかバタバタしてる?)
今日は何やら朝から妙に騒がしい。屋敷全体がざわついているような、浮足立っているような、そんな空気が漂っている。
そのためアンヌさんや他のメイドさん達の会話に耳を傾けてみると、どうやらローラさんが産気づいたそうだ。
俺が生まれて一年ちょっとで次の子どもかー……今のところわかっている情報だと中世から近世、あるいは近代っぽいし、多産が当たり前、年子が当たり前って感じなのかな?
その場合お偉いさん――貴族みたいな家に生まれても乳幼児の死亡率が高い時代かもしれないから、弟や妹が生まれる慶事も素直に喜べない。
(いやちょっと待とう。それはそれ、これはこれだな)
どんな時代でも子は宝だ。それに前世では一人っ子だったから弟や妹が生まれるのなら構い倒してみたい。一人っ子や末っ子なら弟が欲しい、妹が欲しいと両親にねだったことも珍しくないだろうが、俺もそのクチだった。
(……よし。行くか)
思い立ったが吉日である。俺はベビーベッドから立ち上がると、アンヌさんへと両手を伸ばす。ベビーベッドから下りたいけど、頭が重くてバランスが取り辛いのだ。自力で下りようとしたら絶対に失敗する。だから他人の手を借りる。
「まぁまー。まぁまー」
ローラさんのところに連れて行って、と言いたいが上手く喋れない振りをする。赤ちゃんが喋り出す時期を詳しく知らないからだ。そのためママ、と連呼してアンヌさんにアピールをする。
「アンヌ様、お坊ちゃまが……」
「まあ……もしかして奥様が大変だってわかってるのかしら?」
部屋にいたメイドさんが話を振ると、アンヌさんは驚いた顔で俺を抱き上げてくれる。
アンヌさんは意図を汲んでくれたのか、俺を抱き上げて部屋から出てくれた。そして部屋の入口に立っていた二人組の兵士に声をかけると、そのまま二人を引き連れて廊下を歩き出す。
最近気づいたけど、俺の乳母兼世話役をやってくれているアンヌさんも身分が高い人なのかもしれない。他のメイドさんは様付けで呼ぶし、兵士の人達もどこか緊張気味だ。
(その辺も昔の日本みたいな……あれ? 乳母と世話役が別なのは西洋だっけ?)
どうだったかなぁ、なんて考えているとアンヌさんが足を止める。それにつられて視線を向けてみると、何やら騒がしい部屋が一つ。そしてその部屋の前に父の姿があった。
「…………」
普段は表情を引き締めている父がオロオロと百面相をしつつ、扉の前を行ったり来たりしている。産気づいたローラさんが心配で仕方ないといった有様だが、傍にいても出来ることはないからと追い出されたのだろうか? 素人がいても邪魔だし、弱った母体にとって何かしらの病気の感染源になるかもしれないから当然か。
「ぱぁぱー、ぱぁぱー」
まあ落ち着けよ。そんな気持ちを込めて呼んでみると、父は音が立つような速度で振り返った。そしてアンヌさんに抱きかかえられている俺、アンヌさん、その後ろに続く兵士二人へと視線を移し、こほん、と小さく咳払いをする。
「ミナト、それにパストリス夫人か。どうしてここに?」
態度を取り繕って尋ねてくる父だが、俺が抱っこをせがむように両手を伸ばすと頬を緩ませながら受け止めてくれる。それを見た兵士二人――ベテランっぽい年嵩な男性二人が微笑ましそうに目を細めているのが見えたけど、父は気付いていないようだ。
「お坊ちゃまが奥様を呼ばれておりまして……どうやら心配になったご様子で」
「なんと……うぅむ、一歳になって間もないというのに母親思いな。この子は天才かもしれん」
前半と後半がつながっていないぞ。母思いと天才はイコールじゃない。見ろ、兵士さん二人が笑いを堪えてるじゃないか。でも俺を抱っこするのに意識が向いているのか気付いた様子はない。
「おいうぇー、ぱぁぱー」
「……うむ、そうだな。お前の弟か妹か、どちらかはわからんが、お前は兄になるのだ」
落ち着けって言ったつもりだったけど、通じなかったらしい。通じたらそれはそれでまずいかもしれないけど、とりあえずは俺に構うことで手持ち無沙汰が解消されたようだ。
「生まれた子の手本となり、できれば……そう、できれば仲の良い兄弟として育ってくれ」
「あい!」
できれば、なんて寂しいことを言わないでほしい。可愛がるし構い倒すぞ、俺は。
「……パストリス夫人、やはりこの子は天才では? 今、ちゃんと返事をしたぞ? 賢い……賢くないか?」
「御当主様……赤子は日々成長するものですが、さすがにそれは早すぎます。偶然かと」
アンヌさんが少しばかり呆れたように言えば、父は視線を逸らしながら咳払いをする。
「私としても可能な限り成長を見守りたいし、構いたいのだがな。少し見ないだけで一気に成長したように感じるのだ……ん?」
そこでふと、父が目付きを鋭いものに変えた。そして俺の耳にもその理由が聞こえてくる。
それまでバタバタしていた部屋の中から響く、たしかな産声。それは俺の弟か妹かはわからないが、新たな命が誕生した証拠である。
「どうやら無事に生まれてくれたようだな……良かった」
小声で心の底から安堵の言葉を吐く父。それを聞いた俺は手を伸ばし、父の頬をぺちぺちと叩く。
「あぁう、いーえー」
早くローラさんの傍に行ってあげなよ、なんて意味を込めて声をかける。すると父は俺をアンヌさんに渡そうとした――が、それよりも早く、部屋から中年の女性が一人駆けてくる。
ローラさんも催促したのかな、なんて思った俺だったが、中年女性の表情は真剣かつ切迫したものだった。
「御当主様。どうやら御子は一人ではなかったようで」
「双子……か?」
険しい表情と口調で、愕然としたように呟く父。俺はそれに首を傾げたが、父は数秒もしない内に中年女性へと問う。
「……先ほどの産声を上げたのは? 男か、女か」
「男児です。奥方様は今、二人目をお産みになられております」
「三つ子、四つ子ということはあるまいな……いや、いい。悩むのは後だ。まずはローラが無事で、赤子も無事に産まれてくれれば……それで、いい」
父に向かって一礼し、部屋へと戻っていく中年女性。父はその背中を見送ると、アンヌさんに俺を渡そうとして動きを止める。
そしてじっと、俺の目を覗き込むようにしてじっと、見つめた。
「ミナト……嫡男としてこのラレーテを、いや、ラレーテを含めたサンデューク辺境伯家を継ぐべき者として、それに足る人間になっておくれ……」
父は心から願うようにして、そう言った。
その声があまりにも真剣で、切実すぎて、俺は返事をすることもできずに目を瞬かせる。
「パストリス夫人、ミナトを頼む」
「は、はい」
アンヌさんは気遣わしげにしながらも俺を受け取り、この場を後にする。俺にできることはなく、されるがままに自室へと運ばれるだけだった――が、ふと、引っかかるものを覚えた。
(……ん? ラレーテ? サンデューク辺境伯家?)
先ほどの言葉が気にかかるというか、聞き覚えがあった。
自分から尋ねることはまだできないし、赤ちゃんである俺を相手にしてその辺りを話す人もいなかったから知らなかったが、どうやら我が家はサンデュークというおうちらしい。しかも辺境伯ということは貴族で、割と偉い方ではないだろうか。
そして多分、ラレーテというのは地名かサンデューク辺境伯家が領有している町か何かだろう。サンデュークの方に辺境伯ってついてるのなら家名ではないはずだ。
そこまで考えた俺は脳みそが震えるような、切れていた紐同士がくっつくような感覚を覚えた。
(ミナト……ラレーテ……サンデューク……ミナト=ラレーテ=サンデューク!?)
心の中で繰り返し、最後には魂消る。
――ミナト=ラレーテ=サンデューク。
それは、俺が不審者に刺される直前にプレイしていたゲームに登場する人物の名前である。
ゲームの主人公ではなく、攻略対象のキャラでもない。それでいてそれなりに登場する機会があるが、その扱いは――。
(ひゃ、百通りあるルートのほぼ全てで死亡するキャラと同じ名前……?)
まさか、と思う。そんな馬鹿、とも思う。ただの偶然だ、とも思いたい。
だがもしも、もしもの話ではあるが。現状が夢の世界ではなく、不審者に刺されて死んだ後の世界か何かだとすれば。
俺はゲームでほぼ確実に死亡する、主人公のライバルとも呼べないかませ犬的なキャラに生まれ変わってしまったのかもしれない。
――俺、そんな目に遭わなきゃいけないぐらい前世で悪いことしたっけ?