第146話:野外実習 その5
ダンジョン探索のチュートリアルとも言える今回のイベントで、主人公の性別が男性の場合起こるカリン関係のイベント。
それは透輝がカリンを押し倒す、俗に言うラッキースケベイベントである。うっかり躓いた拍子に近くにいたカリンを押し倒し、押し倒されたカリンが即座にそれを利用してミナトを煽り、透輝に決闘を挑ませるのだが――。
(嘘だろ……なんでほんの数秒目を離した隙にそんなことに……いや待てよ? 『花コン』だと透輝がカリンを押し倒すのは戦闘中じゃなかったし、まったく同一のイベントじゃない? 誤差か? こういうのってなんていうの? 因果律が収束した? 運命は決まっている?)
俺は絶賛混乱中だった。なんで? と疑問符が脳裏を飛び交い、それまで監督していた生徒から『助けてください!』とヘルプが入ったため『一の払い』を飛ばしてファングウルフを両断し、どうしたもんかと心底悩みながら透輝を見る。
「…………」
透輝は無言だった。無言でカリンを押し倒し、錆び付いたロボットのような動きで顔を上げ、俺を見て、目が合って。
「あ、あわわわ……」
すごい、顔色が一瞬で青く染まった。血の気が引くってああいうのをさすんだ、なんて思わず考えてしまうほど、さっと真っ青になる。
そんな透輝の下では、何が起きているのか理解できていないように目を瞬かせるカリンの姿があった。しかし自分が透輝に押し倒されている、という事態が徐々に理解できてきたのか、カリンの目の端に涙が溜まり始めているのが見える。
その体勢だけ見ると前世で聞いたことがある壁ドン……いやさ、地面だから地面ドン? 地ドン? そんな状況に置かれていると理解し、感情が溢れ出したのだろう。
「透輝……」
思わず透輝の名前を呼ぶと、バネでも仕掛けてあったかのように透輝が身を跳ねさせ、カリンの上から飛び退いた。そして少し目を離した隙に倒したであろうファングウルフの死体に躓き、盛大にひっくり返って地面を転がる。
「いだっ!? い、いや、違うんだミナト! モンスターを斬ったら勢い余って地面に足が引っかかって、そしたらその先にカリンさんがいて! ほ、本当なんだ!」
地面に転がった状態で透輝が必死に、慌てた様子で言い募る。何をそんなに慌てている? わざとじゃないんだろう?
(カリンからの俺への誘導は……ないか。というか大丈夫か? 固まっているんだけど……)
俺はとりあえずカリンの方へと歩み寄る。するとそれに気付いたのかカリンが顔を上げ――ポロリと、涙を零した。
「え……あ、あれ? わ、わたし……」
「カリン……」
こういう時にかけるべき言葉は……いや、どんな言葉をかければいいんだ? さすがにこういう時の対処法はアンヌさんからも習ってないぞ。
それでも俺はカリンの傍に膝を突くと、手を差し出した。
「怪我はないか? すまない、俺の注意が行き届いていなかったな」
さすがにこんなことになるとは思わなかった……というのは言い訳か。でも本当に予測できなかったわ……こんなことにならないよう警戒していたのに、ほんの少し目を離した隙に透輝がカリンを押し倒しているんだから。
(というか、近くにナズナもいたのになんでこんな……)
ナズナなら距離的にも透輝を止められたはず。そう思って視線を向けると、ナズナはオロオロと視線を彷徨わせている。
(あれは……ナズナも目を離していたな……その間にあんなことが起きて対応に困っている、と)
透輝もファングウルフをしっかりと仕留めているし、他のモンスターがいないか索敵していたんだろう。そう思えばナズナを責めるのはお門違いか。
「立てるか? ほら、手を……おっと」
とりあえずカリンを正気に戻さなくては。そう思って手を引いて立ち上がらせたが、膝から力が抜けたように倒れそうになる。そのため即座に正面から抱きかかえ、カリンの顔を覗き込んだ。
「大丈夫……じゃ、なさそうだな。ナズナ、手を貸してくれ」
「は、はいっ!」
俺がこのまま抱き上げてもいいが、可能なら女性に手を貸してもらった方が良いだろう。そう考えて声をかけると慌てた様子でナズナが駆け寄ってくる。
「さて……」
どうしたもんか、なんて呟きながら透輝へと視線を向けた。『花コン』の通りに進めるのなら、カリンに促された場合、俺は透輝に決闘を挑まないといけないんだが……。
そう思っていると、いつの間に立ち上がったのか、透輝は妙に緊張した様子で気を付けをしている。
「ミナト……本当にすまねえ。わざとじゃないし、本当に偶然転んじまっただけなんだ……お前の奥さん……じゃない、婚約者……候補? を押し倒すつもりなんてなかったんだ……本当にすまんっ!」
そう言って盛大に腰を折って謝罪する透輝。すると、そんな透輝の隣にアイリスが立って俺をじっと見てくる。
「ミナト様、わたしの方からも謝罪いたします。ミナト様は断るでしょうが、今回ばかりは謝罪せずにはいられません」
透輝と比べれば僅かな、しかしたしかに頭を下げるアイリスに、俺は思わず天を仰ぎそうになった。
(アイリスに頭を下げられたら決闘は挑めない、か……まあ、『花コン』みたいにカリンの方から決闘を挑めって誘導してくるわけじゃないし、妥協するならこのタイミングか……いや、待てよ?)
俺はふと、これはチャンスではないか、と思い至る。
「殿下に頭を下げられてはこちらも拳を下ろさざるを得ません……が、透輝」
「な、なんだ?」
どこか怯えたように俺を見てくる透輝。なんだ? 俺がいきなり斬りかかるとでも思っているのか?
「今回の件、悪いと思っているんだな?」
「あ、ああ。もちろんだ」
「そうか……いやなに、俺としてもモンスターとの実戦の最中に起きたことだし、カリンに怪我を負わせたわけでもない。本当は決闘を挑もうかと思ったが、殿下に謝罪された以上、この件は水に流そうと思う」
俺の言葉を聞き、どこか安堵したように息を吐く透輝。しかし俺は、押し倒されたカリンには申し訳ないが、せっかくの機会だからと利用することにした。
「だが、以前バリーの剣を蹴り飛ばしたこともそうだが、どうにも足元が疎かというか、不注意が目立つ。今回の件も躓くことがなければカリンを押し倒すようなことはなかっただろう?」
「それは……多分?」
剣士にとって、何かに躓くというのはかなり致命的だ。それも他人を押し倒すほど盛大に転ぶなんて滅多にあり得ることじゃない。
「アイリス殿下の剣として振る舞うのなら、その迂闊さは看過できん。この実習が終わったら俺の自主訓練に参加してもらおう。躓いて転ぶことがないよう、基礎を叩き込んでやる」
「えっ!? それってもしかしてミナトみたいな達人になれるってことか!?」
下げていた頭を上げてどこか嬉しそうな声を上げる透輝。違うよ、俺みたいな達人じゃなくて、俺以上の達人になってもらうんだよ。そうじゃないと『魔王』どころか『魔王の影』も倒せないだろ。
「今後も殿下の傍に侍るというのなら、俺程度の腕前で満足してもらっては困るが……足腰がしっかりとしていれば何かに躓いても転ぶことはなくなるし、注意力がつけばそもそも躓かなくなる。こうして他人の婚約者候補を押し倒して大問題になった、なんてことも避けられるはずだ」
「それは……はい……すいません……」
俺の言葉を聞いて恐縮した様子で透輝が頭を下げる。まあ、本当に大問題に発展しかねないからね?
「カリン、今回の件を水に流せとは言わない。だが、二度と同じようなことが起きないよう、俺が透輝を殴ってでも鍛えよう。それで少しは溜飲を下げてはもらえないだろうか?」
俺はナズナが抱きかかえるカリンの顔を覗き込みつつ、そう尋ねる。そして内心で少しだけ不安に思いつつ言葉を続けた。
「君が望むのなら、透輝に決闘を挑んで矯正してもいい。だが、透輝に悪意がなかったのなら許してやりたい、とも思うんだが」
こればかりはカリンの気持ち次第だ。カリンが透輝に決闘を挑んでほしいと願うのなら、婚約者候補としてそれに従わざるを得ない。
そんな意図を秘めつつ尋ねると、カリンの視線が俺へと向く。なんとも感情が読みにくい、怯えるような、戸惑うような、そんな瞳だった。
「……ミナト様は……」
「うん?」
小さく首を傾げると、カリンの目線が下を向く。
「……いえ……戦いの最中に、起きたこと……ですから……」
「……そうか」
どうやら『花コン』の時みたいに、透輝に決闘を挑ませて俺の評判を落とす、なんて考えはないようだ。まあ、『花コン』のミナトと違って、俺が何のハンデも付けずに透輝に決闘を挑めば間違いなく勝てるからな。少なくとも現状では、だが。
(しかし、なんというか……)
これって本当にグラウンドエンド狙える? カリンから透輝に対する好感度が上がるどころか下がっていてもおかしくないんだが。いや、下がってるよね絶対。
だからこそ透輝がカリンを押し倒すイベントは発生させたくなかったんだが、何の因果か、発生してしまった。
(アイリスによる透輝の召喚、俺との決闘で少し追い込んだだけで『召喚器』を発現する透輝、そして今回のイベント……その後の流れは違うけど、カリンを押し倒すイベント自体は発生している……)
これは偶然なのか、それとも必然なのか。しかし透輝を図書館へ連れて行ってメリアに合わせた結果、次回ではなくその場ですぐさま好感度を教えてくれたように、『花コン』では見られなかった事象も起きているわけで。
そういう意味では現時点でメリアが学園の中を歩き回り、こちらに接触してくるというのも異常といえば異常だ。
(……わからん……誰か、教えられるのなら教えてくれ……これからも『花コン』のイベントが起きるのか? それとも俺の存在が影響して変化する? もしくは全然知らないようなイベントも起きる? 全部が複合する?)
人生ってそういうもんだよ、未来のことなんてわかるはずがないよ、なんて言われたら納得するしかないが、それでも俺としては切実に答えが欲しかった。
そうやって色々と悩む俺だったが、ひとまず事態の収拾を付けなければならない。
「ひとまず、透輝はもっと周囲に気を配って行動してくれ。今回は押し倒す形になったが、剣を持った状態で躓いたらそのまま人を斬ることもあるんだ。カリンに毛ほどの傷でもつけていたら――わかるな?」
俺は声を一段低くして、脅すように言う。押し倒したのも大概だけど、怪我をさせていたら立場上、本気で怒らざるを得ない。いやもう、押し倒したのも本当に大概だけどな。
「お、おう……ごめん、本当にわざとじゃないんだ……」
透輝は申し訳なさそうにして縮こまる。それを見た俺は意識して、周囲に聞こえるよう大きな息を吐いた。
「ふぅ……仕方のない奴だ。カリンも怪我はしていないし、今回は水に流そう。ただ、俺が鍛えるっていうのは本気だからな?」
「あ、ああ。それは俺としても大歓迎なんだけど……」
本当にいいのか? と言わんばかりに尋ねてくる透輝。本当も本当、本気だよ。以前から鍛える口実を探してはいたんだが、今回のことを上手く利用させてもらうとしよう。
(そうだよな……これから透輝を鍛えるきっかけになった、と思えば結果オーライだ。ちょっと強引だったけど、透輝の方から望んだのなら色々とやりやすい)
何やら透輝も乗り気だし、俺も前向きに捉えることにする。ポジティブシンキングだ。そうしないと胃が痛くなる。
「そういうわけではとこ殿、学園に戻ったら貴女の剣を鍛えさせてもらおう。以前から考えてはいたんだが、貴女の傍に侍るのならもっと腕を磨いてもらわないといけないからな」
一応、アイリスにも話を振って許可をもらうとしよう。ただ、アイリスの傍にいるのならもっと強くなってもらう必要があるっていうのは本当だ。
透輝はアイリスの傍にいるという立場上、周囲からやっかまれる可能性が高い。それを黙らせるのに手っ取り早いのが剣の腕だ。強くなればアイリスの護衛として傍にいるという説得力が生まれる。
(ずっと傍にいれば自然とアイリスとも仲が良くなるだろ……透輝は強くなり、アイリスは透輝との仲が深まり、グッドエンドにいきやすくなる……完璧じゃないか?)
俺は自画自賛するようにそう考える。グランドエンドは難しくても、アイリスのグッドエンドは狙いやすいだろう、と。
警戒していたのに『花コン』通りのイベントが起きたことに対し、不安にも似た感情が沸き上がってきたことを努めて無視するように、そう考えたのだった。