解読不能
前作の青霞とは別の運命の話。
青いペンで殴りつけるように文字を綴った。解読不能だって構わない。ただ、聞いて欲しかった。思いを届けたいとか、最後の気持ちだとか馬鹿馬鹿しいと自分でも思う。自分だけ言いたいことをあいつに押し付けて自分だけ死ぬなんて、自分勝手か、迷惑か。でも、書き終えた手紙はもうポストに入れてしまった。もう、終わりに向かうだけだ。
海が好きだったから海で死にたい。そんな単純な理由だ。もう生きているのが辛いんだ。家族ももういないんだし、誰も悲しまないだろう。
ずっと勉強も必死にやった。それなのに、試験に落ちた。資格も取ることが出来なかった。浪人? 嘘だろ。いくらかかると思ってるんだ。
試験に落ちた後、これで最後にしようと小説を応募した。俺の最高傑作だ。一次通過、二次通過、三次通過……。きっと今までで一番良い成績だった。あともう少しで夢が叶いそうだった。やっと報われると思った。でも、俺は落選した。
受賞以外の結果は全部同じだ。必死に書いたのに、何にも伝わらなかった。これ以上のものを書かなければ、受賞なんてできないんだ。これが俺の全力だ。これ以上なんて、書けるわけもない。これじゃあ、俺は一生小説家になんかなれやしない。
だから、もうやめようと思った。
最後の酒を飲んだ。酔っ払ってふらふらの足取りで海に向かった。暑い。蝉の声がうるさかった。後悔はない。
彼がずっと羨ましかった。俺が死んだら漣はどう思うだろう。
俺は飛んだ。夏でも冷たい水に潜った。空も青いのに、水の中はもっと青が澄んでいた。水を吸った服が体にまとわり付いた。
俺は最低だ。
◯ ◯ ◐
春の夕暮れ、桜の散り始めた頃。夕焼けに染まる教室で、彼と出会った。放課後、他の誰もいない教室の隅で、彼は一人座っていた。僕はこの出会いを忘れることはできないだろう。この時、この場面が呪いのように染み付いて、頭から離れない。
先輩との話がきっかけで、香羽を怒らせてしまったあの日から彼とは話していない。僕が香羽に近づこうとすると、香羽はすぐにそれを感じ取って逃げてしまう。彼に謝りたくて携帯でメールも送ったが既読もつかなかった。そして彼の進路も知らないまま、僕は高校を卒業した。
ある日街を歩いていた時に香羽を見かけて、慌てて彼の名を呼んだが、彼は振り返らなかった。それが彼を見た最後だった。
僕が幼い頃母は父と離婚していて、母と二人で暮らしていた。お金に特別困っていた訳ではないし、暴力なんかもなかった。でも、僕は常に生きづらさを感じていた。きっともっと辛い人がいるのだろう。それに比べたら僕の悩みなんて小さなものだから、と思って生活していた。高校も将来の夢も、母が決めた。でも、成績が良ければ褒めてくれた。だから僕は必死に努力した。
大学のため僕は一人暮らしをしていたが、母の健康状態から、母の家に通うようになった。母が買い物や病院への送り迎えを頼むようになった。買い出しも掃除もご飯を作るのも、ベットから母を起こすのも、全部僕の役目になった。そのために友人からのご飯の誘いも断ることは何度もあった。バイトを辞めなければいけなくなった。自分の時間も無くなって、勉強時間も少なくなった。小説なんて書いている暇もなかった。
彼女を母に合わせたくなかった。結婚しても自分の世話をすることと、結婚相手にも世話をしてもらうことをいつも言っていたからだ。きっと彼女にも自分の価値観を押し付けるだろう。
ある時、本屋の前を通ってその時気が付いた。もうずいぶん小説を書いていない。本も読んでいない。
本を書きたいと思った。解放されたかった。
別に特別不幸なわけじゃないんだ。死にたいわけでもないけど、生きていくのは辛いんだ。
それでも、美しい音楽を聴いて涙が流れた時とか、誰かと美味しいものを食べた時とかは、生きていてよかったって思える。生きる意味って何だろう。優しさって何だろう。駄目だ、一人でいると考え事ばかりして止まらなくなってしまう。
何故だろう、ふと香羽のことを思い出した。彼は今、どうしているだろう。
あの時、「お前はいいよな」と涙目にそう言い放って、彼は廊下へ飛び出した。──ああ、そうか。
きっと羨ましかったんだ。あんな風に思ったことを自由に言える彼が羨ましくて仕方がないんだ。怒りも悲しみも全部態度に出すことのできる彼が羨ましかった。
表情を感情のままにころころと変えることのできる彼と、僕は違う。僕はきっとどんな感情に関しても鈍くなっていたに違いないだろうから。
◯ ◯ ◑
夜の道を歩く。随分遅くなってしまった。今日もあまり眠る時間はなさそうだった。
帰りたい。早く、一刻も早く帰りたい。体が重かった。きっと側から見れば今の僕はたいそう見窄らしいだろう。さっきの出来事がずっと頭の中をぐるぐる回っていた。
「介護士だって? あんたがしなさいよ。親でしょ? 私を捨てる気?」
慌てて母から離れると、母が振り下ろした手は、僕ではなくテーブルを叩いて音を立てた。
(どうすれば)
どうすればわかってもらえるのだろう。本当に辛いんだ。二人で穏やかに生きたかった。解放されたい。
ふらふらと前に進んでいると、ポケットの中の携帯電話が鳴った。はっと顔を上げると赤信号だった。大きなトラックが右折した。ひゅう、と息が鳴った。冷や汗が流れるのを感じた。
「もしもし」
轢かれそうになった恐怖からぼやっとしたまま携帯を耳に当てる。電話の相手は彼女だった。
「どうしたの?」
「今どこ?」
「もうすぐ帰るよ。で、どうしたの?」
「私、早く言った方がいいかなって思って。……それで、香羽くんが」
彼女は何やら言っているが声が小さいのか電波が悪いのか聞こえずらい。それにしても、香羽がいきなりどうしたのだろう。
「聞こえない。香羽が何だって?」
「香羽くんが亡くなったの」
「え、なんで、香羽が?」
乾いた声が喉の奥から出た。
「貴方に手紙が来てる」
「手紙? 僕に?」
なぜ急に香羽が? どうして僕に手紙を? 香羽とはずっと会っていない。どうして? わからないことだらけだった。
僕は妙に落ち着いていた。急すぎたせいか、現実味がなかった。
◯ ◯ ◑
次の日、彼女から手渡されたのは白い便箋だった。遺書、というべきだろうか。僕は手紙をそっと開く。白い花が咲くように、折り畳まれた便箋が広がった。海の匂いがした。
「俺は死ぬことにした。だから死ぬ前に伝えたかったことを書いたんだ。ただ自分の思いだけ押し付けて勝手に死ぬことは迷惑かもしれないが、許してほしい。
お前にはきっとわからないだろう。お前には才能があるから。創作は楽しい、心が満たされる気がする。でも辛い、苦しいのに、やめようとしてもやめられない。
心の穴を埋めるために俺は書き続ける。でも、これじゃあ穴が大きくなるばかりだ。
創作なんか知りたくなかった。この楽しさも心地良さも知りたくなんてなかった。最初から知らなければ、こんな思いをすることもなかった。こんなに劣等感を感じることもなかったんだ。
お前と俺の、何が違うっていうんだ。俺だって必死に書いた。お前の作品を見なければ、自分の作品も傑作だと言えた。あんなに思いを込めたのに、なぜ届かないんだろう。
どうせ俺の作品がお前を越えることはない。そもそも、お前に追いつくことだってできないだろう。今の俺にあるのは、お前に対する嫉妬の心だけだ。書き始める前の期待も高揚感も返してくれ。
こんな俺でも認められたかった。
ごめん。それでも最初は楽しかったんだ、お前と二人で書くのも。いつからこうなってしまったんだろう。今までありがとう。お前は何も悪くない、そんなこと分かってる。それでも、お前とは出会いたくなかった。」
「……なんで」
手紙を持つ手に力が入る。なぜ死ぬ必要があったんだ。
彼は常に劣等感を抱えていたようだった。僕の存在が彼を圧迫していたのではないか。僕と出会わなければ、ひょっとしたら今も彼は生きていたのではないか。あのとき、僕が話しかけたから。僕が小説を見せてと言ったから。
香羽は海へ沈んでしまった。死体も帰るかわからない。
悲しさよりもなぜか悔しさが込み上げた。どうして悔しいのか自分でもわからず、ただ静かに涙を流した。
彼が死んでから数年後、母の容態が悪化し、母は入院した。母が入院してからは随分と楽になった。
暇になった時間の埋め方を忘れていた。久しぶりに書いた小説は飛ぶように売れた。何故だろう、ちっとも満たされた気がしない。
◯ ◑ ◯
「作家になるきっかけなどはあるんですか?」
そうですね、と僕は姿勢を正す。
「ある友人がいたんです。彼も小説を書いていて、僕も何度も読ませてもらった。彼は、なんというか……」
考えながら、視線を落とす。
「特別上手だ、とは言えませんでした。でも彼は、人の感情を書くのがうまかった。特に人間の醜さとか、そういうものを誰よりもうまく書いた」
「へえ、そんな人がいるんですね」記者が興味深そうに言った。
「その人は今どうしているんですか?」
「さあ。海が好きなやつだったから、今頃海にでもいるんじゃないかな」
そう言って角間廉司はにっこり笑った。
読んでくださりありがとうございました。