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青と作家と解読不能  作者: 空白のワンダーランド
1/2

青霞

劣等感と小説家の話。

 知らなければよかった。


 空は今日も青い。ずっと、何処かへ逃げてしまいたかった。息苦しさに胸が押しつぶされそうだった。なぜ、出会ってしまったのだろう。彼に出会わなければ俺の心はずっと穏やかだったに違いない。

 汗が流れ落ちた。高くそびえ立つのは入道雲。夏は俺にとって創作の季節だった。暑くて青すぎる夏に期待していた。創作のアイデアを。何か、傑作の元となるものを。

 書けば書くほどに自分の才能のなさを知った。前に書いていたものの方がよっぽどよく見える。どんどん下手になっていくように、納得のいかない作品ばかり溜まっていく。

 もう、おれには書けないのかもしれない。

 書きたい、書きたい。足りない。もっと。あとどれだけ書けばこの心は満たされるのだろうか。

 満たされない心を引きずるように、重い体を動かした。体を焼くように照り輝く太陽は夏のものだった。そうだ、あの日もこんな風に暑い日だった。

 あの日、俺は死のうと思っていた。ほんとうなら、今頃俺は死んでいるはずだったのだ。先にお前が死んだりしなければ。

◯ ◯ ◐

 桜の散る頃、夕焼けの誰もいない教室。小説でよくあるような、そんな出会いだったと思う。放課後一人で小説を書いていた俺に話しかけてきたのがあいつだった。

「何書いてるの? それって小説?」

 よく通る声、整った顔立ち。絶対に関わることのないと思っていた、クラスの中心にいるような人物。そんな奴が隅で本を読んでいるような俺に声をかけてくるなんて思わなかった。

 俺は手でノートを少し隠しながら小さく頷いただけだった。

(こういうのには興味はないだろう)

(早く、何処かへ行けばいい)

 そんなことを考えてた俺とは反対に、奴は目を輝かせた。

「やっぱり! そうだと思った! 実は僕も書いてるんだよ」

 カーテンが静かに揺れる。外で桜が散っているのが見えた。

 驚いた。こんなやつが小説を書いているなんて、思わなかった。こんなに友達が多くて、明るくて、容姿も頭も何もかもが完璧なやつが、俺と同じように小説を書いているとは思わなかった。

「今度、僕にも読ませてくれない? 君の作品を読んでみたいんだ」

「じゃあ、完成したら……」と俺は顔を上げた。 

 単純な俺は自分の小説に興味を持ってもらえたことが嬉しかったのだ。

「その代わり、お前も見せてくれよ」

 続けて俺はそう言った。こいつの書くものは果たしてどんなものなのかと気になっていた。

「うん」

 彼はそう返事をして笑った。

 俺はこの出会いを一生忘れることはできないだろう。俺はこのときの選択をずっと後悔している。

◯ ◯ ◐

「〝青霞〟……? これが題名か?」

 数日後、俺は彼の小説を見せてもらうことになった。彼に渡された紙の端に書かれた小さな文字を見る。

「あんまり大きな声で言わないでよ」と辺りを見回す彼に、「どうせ誰もいないじゃねえか」と言って俺は誰かの机の上の消しカスを見た。

 次々に綴られた文字を読み解いていく。文字の上を歩くように、ただ目を滑らせる。文字の上を歩く。走る。息を吸う。読みやすく淡々としているものの、絵画のような美しさも感じる。絵の具をたっぷり付けた筆で色を塗るような、心地良さ。気づけば俺は、何枚ものそれを読み終えていた。

 顔を上げると壁の時計が見えた。まだあまり時間は経っていない。集中して読んでいたようだ。

「凄いな、お前」笑った俺の口から息が漏れた。彼はキョトンとした顔で突っ立っている。

「お前がこんなに凄いものを書いてるなんて思わなかった、ほんとうに凄いよ」

 俺がそう言うと彼はぱあっと笑顔になった。

「本当? 僕、人に小説を見せたの初めてなんだよ。だから怖くてさ……」

「ありがとう、面白かった」

 俺は小説の書かれたノートを彼に返す。一瞬触れた彼の指は冷たかった。

(俺はこんな奴に自分の小説を見せたのか)

 以前彼に見せた小説は、どれほど下手だっただろう。自慢げに小説を見せた俺は、こいつの目にどう映っていたのだろう。

(こいつがこんなに凄いなんて知らなかったんだ)

 先に彼に小説を見せてもらえばよかったのだ。彼の実力を知ってから俺の小説を見せるかどうか決めていれば──なんて、馬鹿みたいだ。

「なあ、いつも残って何してるの?」

「えっと、勉強とか小説書いたり、とか……」

「これから俺も一緒に残ってもいい? また俺もお前の小説読みたいし、俺も書きたいし」

 そう俺は言うが、本心ではない。もうこんな奴の小説なんて読みたくない。素晴らしい作品に出会えるのは本来なら嬉しいことだ。でも、それを書いているのが俺と同じ歳の、クラスの奴だなんて言うなら別だ。それでも、彼だけが書き続ければ彼だけが上手くなるような気がして。

(俺ももっと書かなきゃいけない)

「いいの? 一人で寂しかったし、僕は嬉しい。それに、今日君に初めて褒めてもらって自分の小説に少し自信を持てた」

 真っ直ぐな目でそう言う彼に、胸の奥を掴まれたような心地になった。何故だろう。少し、苦しい。

(俺もこいつと一緒に書いていたら上手くなれるかな)

(俺一人だけが上手くなれたら)

 教室は静かだった。俺の心の中だけがうるさかった。

◯ ◯ ◐

 それから放課後は二人で残るようになった。日中教室で話すことはないが、放課後になると俺たちは隣の席に座ってそれぞれ作業をするようになった。勉強をしている時もあれば、小説を書く時もある。彼は絵を描いていることもあった。

 俺は彼のことを名前で呼ぶようになったし、彼もまた俺を名前で呼ぶようになった。彼の名は(れん)と言った。放課後の教室での時間を通じて少しずつ俺たちは距離を縮めていった。

 特に言葉は交わさず、二人で黙々とそれぞれ違うことをするのだが、「ここ教えてくれないか?」と俺が急に話しかけても彼は嫌な顔一つせずに解説してくれた。しばらく漣と勉強していてわかったのだが、漣は俺よりもずっと頭がいい。

 帰り道、二人でいつも駅まで歩く。漣はどうやら俺の家よりも学校から遠いところに住んでいるらしい。

「漣は遠い場所に住んでるくせに、なんでこんなに遅い時間に帰るんだ? もう少し早くに学校を出てくれば、もう一本早い電車で帰られるだろ?」

 俺がそう聞くと、漣は「大丈夫だよ、この時間でいいんだ。なるべく遅くまでいたい」と言った。

「へぇ」

 俺はそれ以上は聞かず、そこで会話は終わった。夕日の赤が漣の瞳にも映っている。相変わらず腹が立つほどに整った顔だ。その美しい顔が、一瞬悲しそうに歪んだのを俺は見逃さなかった。だが、次の瞬間には漣はいつもの表情に戻っていた。ぼうっとしていて、何処を見ているのかわからないような、いつもの顔に。

◯ ◯ ◐

「何見てるの?」

 廊下に貼られたポスターを見ていた俺に、声が聞こえた。漣だ。俺は小さくため息を吐いた。今一番彼に見られたくなかった。そのポスターは創作コンテストと書かれたものだった。俺は小説の応募要項を見ていたのだ。一人でこっそりやりたかった。

「これに出すの?」と漣が聞いたので、「まだ迷ってる」と俺は彼の方を向かずに答えた。

「へえ、僕も出してみようかな」

 勝手にしてくれ、と心の中で呟いた。最近、漣に腹が立って仕方がない。原因は数日前の出来事だ。


「あいつ、何処に行ったんだろ」

 その日はいつも二人で残っている教室に、漣が来ていなくて俺は不審に思った。

(図書室かな)

 階段を降りる途中、窓から夕暮れの中、運動部の生徒が走っているのが見えた。他の教室から吹奏楽部が演奏する音が聞こえて、青春という言葉が似合いそうな風景だった。

 ドアを開けて入ると、図書室は静かだった。漣を見つけたが、俺は声を掛けることが出来なかった。漣は一人の女子生徒と話していた。普段なら何とも思わなかっただろう。でも、俺がその場に突っ立っていることしかできなかったのは、彼が話している生徒が俺が好きな先輩だったからだ。二人とも笑顔だった。ここからはあまり聞こえないが、何やら本の話をしているようだった。

(いいな、あんな風に話せて)

 先輩と俺は図書委員会で同じ日の担当だったから、話をすることはあるが、あんなに話したことはない。誰にでも優しく、綺麗な人だった。人をよく見ていて、俺の具合が悪かった時にもすぐに気づいてくれた。読書を愛する人で、俺と同じ作家が好きだったことから話も合った。

(別に、あいつが話してるからって気にすることじゃない)

 そう言い聞かせて、俺はその場を立ち去った。その後遅れて教室にやってきた漣にも、俺は何も言わなかった。そうして、何事もなかったかのようにその日は過ぎ去った。


 数日後、学校へ行く途中歩いていると見慣れた後ろ姿を見た。それは漣と先輩だった。随分と仲のよさそうに見えたし、距離も近かったと思う。

(まさか、付き合ってるんじゃないだろうな)

 美男美女でお似合いじゃないか、と俺は石を蹴った。後で聞いてみようか。でも、もしもそれで「そうだよ」、なんて軽く言われたら。

(嫌だな)

(こんなの、ただの嫉妬じゃないか)

 そんなことがあったせいで、漣と話すのが辛くなった。

 漣にイライラする日が続く中、前にあった創作コンテストの結果が発表された。高校生しか応募できないため、学校名や学年も必要となるものだった。そのため、受賞者は学年と本名が公表される。ホームページを開いて、俺はそのまま動けなかった。

(嘘だろ)

 小さな賞とはいえ、彼の名前が載っていた。漣の小説は凄いものだとは思っていたが、まさか入賞するなんて、思ってもいなかった。もちろん、そこに俺の名はない。


 それから一週間後、また彼が図書室で先輩と話しているのを見た。

「お前、先輩と付き合ってるのか?」

 教室にやってきた彼に俺は言った。予想していた答えを恐れながら、俺はじっと彼が口を開くのを待っていた。

 彼の口元が緩む。

(まさか)

「……うん。実は」

 漣は顔を赤らめてそう言った。彼は嬉しそうだった。

(もしかしたらと思ってはいたけれど)

(だとしたら、なんで俺に言ってくれなかったんだ?)

香羽(こう)

 彼は俺の名を呼んだ。

「どうしたの?」

 漣が俺の顔を覗き込む。やめてくれ、聞かないでくれ、見ないでくれ。

(なんで、こいつだけが上手くいくんだ?)

 ふうと息を吐いた。落ち着け。こんなことで。

「大丈夫?」

 顔を上げると漣と目が合った。綺麗な顔だった。この距離で話しかけられたら、皆こいつのこと好きになるんじゃないのか? だから、先輩も……。俺よりもこいつの方が頭もいいし、話しやすそうだし、俺みたいに捻くれてなんかいないだろうから。

「俺が、好きだったのに」

 声に出てしまっていた。慌てて彼を見ると、漣はじっと俺を見ていた。

「え……」

 漣は俯いた。その時、漣が「言ってくれれば」と呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。

 限界だった。

「〝言ってくれれば〟? 俺が、先輩のことが好きだって、お前に言っていればお前は先輩に告白しなかったのか? 俺にその権利を譲ってくれるのか? 言っていればお前は諦めてたのか?」

 いきなり声を荒げた俺に、彼はびくりと肩を震わせた。

「ごめん、違……」

「もういい。お前は俺の気持ちなんてわからないだろ。俺が作品を応募しようとしたら、お前も応募するって言って、お前だけ賞を取るよな。お前だけ皆からも人気があって、俺なんかとは違って」

 力任せにドアを開けた。「お前はいいよな」

 そして俺は廊下を走った。逃げ出したかった。あいつから離れたかった。

 廊下の角を飛び出すと、人とぶつかりそうになり、俺は足を止めた。先輩だった。

「香羽くん?」

 彼女は俺を凝視している。きっと俺は今、酷い顔をしているだろう。

「先輩」

 声が出たことに自分で驚く。「こんなこと言って困らせるだけかもしれないけど」と俺は息を吐いて少し笑った。先輩の顔は見ずに、下を向いたまま言う。

「おれ、先輩のこと好きでした」

 俺は何を言っているのだろうと思った。こんな思い伝えたって意味ないのに。

 返事はなかった。彼女はまだ、何を言われたのかわかっていないようだった。

「返事はいらないです。急にこんなこと言って、ごめんなさい」

 そのまま俺は先輩に背を向けて走った。

(何をやってるんだ、おれは)

 誰もいない空き教室に飛び込んで、膝を抱えた。

 廊下を他の生徒が通っていく。楽しそうな喋り声が聞こえた。

 俺は声を殺してじっとしていた。口から呻き声が漏れる。制服の膝の部分に熱い涙が染みていくのを感じた。

 その日から漣を避けるようになった。漣から謝罪のメールもあったが、それも無視した。漣は俺と話さなくなっても、他の奴と上手くやるだろう。俺が思っていた通り、漣が他の友人と楽しそうに会話しているのを見た。彼との思い出は、それで終わりだ。

◯ ◯ ◐

 彼は高校卒業後、小説家として名を上げていた。

(本当に、あいつは小説家になったんだ)

 いくら小説が上手くても小説家にはなれはしないだろうと思っていたが、漣は本当に売れる小説家になった。俺はただ、羨ましいと思った。

 彼の小説はそこそこ人気だったし、順調に思われていた彼だったが、その後事が大きく変わった。

 八月一日、彼は死んだ。暑い夏の日の事だった。

◯ ◯ ◐

 彼が死んだと先輩から電話があった。俺が彼の死を知ったのは彼女の電話ではなく、とあるネットの記事だった。なんで先輩はわざわざ俺に連絡してきたのだろう。彼のことをずっと気にしていて、俺は彼の小説も全部持っている。でも、きっとこんなに意識しているのは俺だけだろうと思っていた。漣は俺のことなんて気にはしていないだろう、どうでもいいだろう。もう俺のことなんて忘れてしまっているだろうとばかり思っていたから、先輩から連絡が来た時には驚いた。

 数日後、俺は先輩と小さな公園で待ち合わせをしていた。彼女が来た時初めに口を開いたのは俺だった。

「先輩、よく俺の連絡先覚えていましたね」

「慌てて探したの。携帯に残ってたから」

 彼女はそう言うと、俺の隣に腰掛けた。彼女はあの頃と変わらなかった。艶のある髪の毛も、ゆったりとした仕草も。ただ、少し疲れている様に見える。それもそうか。

「漣とは高校卒業後会った?」

「会ってないです。俺が一方的にキレて、離れたから。──いや、会ったかな。会ったけど、俺が逃げたんだ」

そう言うと、彼女が「そっか」と悲しそうな顔をしたので、「ああ、先輩のせいじゃないんですよ」と慌てて言った。

「全部俺の所為です。先輩にも迷惑をかけてしまいました。今更かもしれないけれど、ごめんなさい」

「……そんな、二人の仲を壊したのは私」

 黙ったままの先輩に俺は言った。

「俺、ずっとあいつが羨ましかったんですよ。俺だって小説家になりたかった。高校卒業以来会っていないけど、俺はあいつのことを忘れてなんかいなかった。ずっと知ってましたよ。あいつが小説家になったことも。いつ、何の賞を取っていたかも全部」

「漣は香羽くんのことをずっと気に掛けてた。『香羽に連絡したいな、今更かなあ』ってよく言うから、『連絡してみれば?』って言ったのに、しないの。漣が初めて本を出した時だって、香羽くんと話したいって言ってた。でも結局一度も連絡しなかったみたいだね」

「俺と話したいって? そんなこと、あいつが言うんですか?」

「本当に話したがってたよ。でも」

 彼女は視線を落とした。イヤリングが揺れる。

「漣は香羽くんに対して罪悪感があったみたい」

「罪悪感? 俺から先輩を奪ったとか?」

「いや、小説ことで、かな」

「俺はなれなかったのに、あいつが小説家になったからか。あと、あいつだけが何回も賞を取ったりしたからか。俺がいつも羨ましがってたの、漣は感じてたのかな」

「そうみたいだった。でも、私もわからない。結局、漣にしかわかんないよ」

 そう言って彼女は視線を上げた。彼女の目線を追うと、視界に入ったのは青い海だった。

「二人は」

 俺が声を出すと、彼女は俺の方を見た。彼女の瞳に俺は映っているのだろうか。

「ずっと一緒にいたんですか」

「え?」

(今のタイミングで聞くのは急すぎたか)

(聞いてもいいのか?)

 俺が言葉に迷っていると彼女は言った。

「ずっと付き合っていたっていうこと?」

「そうです」と俺は言った。

「そうだよ。あれからずっと続いていたよ」

 彼女は平然とそう言う。

「漣は優しくて、私を本当に大事にしてくれていたと思う」

 彼女は髪の毛を耳に掛けた。海の匂いの風が彼女の髪の毛を揺らす。

「本当はね、結婚の話も出ていたの。両親に紹介もした。でもね」

「うまく、いかなかったんですか?」

「そうなの。彼の母が難しい人だった。彼は母の介護をしていたの。でも彼は忙しそうだったし、精神的にも追い込まれていた」

 風が吹いて木が鳴いた。彼女はなぜか申し訳なさそうな顔をして言った。

「私、仕事で他の県に行くことになって、漣も一緒に行きたいって言ってたんだけど、彼のお母さんがそれを許さなかった。介護士の人にお願いして、漣は私と一緒に引っ越そうとしたんだけど、『他の人は嫌だ、漣じゃなきゃ嫌だ。結婚したら来なくなるだろう』って騒いで、どうしようもなかったみたい。彼の父はもう亡くなってるし、頼れる人も周りにいなかった。漣はその後も何度も話をしてみたけど、話をする度にお母さんは怒鳴ったり、暴れて物を壊すようにもなって漣は私と引っ越すことは諦めた。結婚の話なんてできなかった」

 知らなかった。あいつはただ全てがうまくいっている奴だと思っていた。才能の塊で、何にも苦労なんてしていなくて、完璧な奴だとばかり思っていた。

 ふと、漣の笑顔が浮かんだ。俺はあいつの笑った顔しか知らない。

(俺はあいつの何も知らなかった)

 一番近くにいた友人だと思っていた。彼のことを知った気でいた。

(偉そうなことを言って、俺はあいつのこと、ちっともわかってなかったじゃないか)

 彼女の肩は震えていた。

「八月一日だったよね。あの日も漣は母親の家に行っていた。その帰りだったかな」

「交通事故、ですよね」と俺は言った。

「うん。車に轢かれてそのまま」

 何度もニュースで見たから覚えている。俺はそれを見た時衝撃を受けたが、ニュースに出られるくらい有名な小説家になったことが羨ましいとか、そんなことを思っていた。

「呆気ないですね」

 他人事のようだと自分で思った。何か言って他人事じゃないと示したかった。俺も驚いたとか、悲しいとか、何か言いたかったが、続ける言葉が口から出てこなかった。

 彼女の目が歪んで、大粒の涙が溢れた。彼女は拳を握りしめた。

「まだ、信じられない」

 こう言う時、何と言うのが正しいのだろう。

(最低だ、俺は)

 ただ、残された彼女を哀れに思った。でも、それだけしか思えない。

(悲しいと思えない俺は、最低だ)

 俺は彼女に何も言うことができず、ただ隣で黙っていた。

◯ ◯ ◐

 彼女と道で別れた後、ふらりと立ち寄った本屋に彼の小説のコーナーが設置されていたのを見た。追悼と書いた紙が飾られていて、積まれた本の山に手を伸ばして、小説を取っていく人も見た。全部俺の部屋にもある本だ。不思議な感覚だった。


 物語を最後まで書き切ることができなくなった。書き出しは良かったのに、終わり方が気に食わなかった。良い終わらせ方が見つからなかった。書きかけの話だけが転がっていった。もう、しばらく話を書いていない。もう書けないのかもしれない。今までどうやって話を書いていたっけ? 書き方もわからなくなってしまった。

 幼い頃から、小説家になりたかった。画家でも、作曲家でもよかった。芸術家になりたかったんだ。それを職業にできたら、どんなに幸せだろうって思ってた。自分の作品を見てもらいたかった。認められたかったんだ。

 芸術は自由だ、なんて言って、そんなことないじゃないか。上手な人が絶対にいて、「上手な書き方」なんてのが絶対にあるじゃないか。「下手な作品」っていうものがどうしても存在してしまって、それがきっと俺なんだ。

 俺の作品を好きになってくれる人なんて、いるのかな。こんなんじゃ、きっと誰も読んでくれない。読者ってのは、人生の貴重な時間を使って読んでくれるんだ。だから、それに値する作品を書かなきゃいけない。

 何度も作品を応募した。賞なんて取ったこともない。ずっと小説家に憧れていた。それなのに、最近始めたばかりの彼がどうして。俺はなれなかったのに漣は作家になった。彼は[[rb:角間廉司 > かくまれんじ]]と言う名前で本を出していたが、それは彼の名前を軽くいじっただけのものだったし、検索すれば顔も出てくるので漣だとすぐにわかった。彼のデビュー作、「劣等と解読不能」は名作だと謳われた。

 俺だって、書けるのに。


 大好きだった本のはずだ。それなのに、最近は読書さえしたくなくなってしまった。本を読むことは生き甲斐だった。でも今は苦痛でしかない。本を出版できていることが羨ましく感じてしまうのだ。きっとこの本の作者だって苦労して一生懸命頑張ったから作家になれたのだろう。それでも羨ましい。俺の作品は人の目には触れない。読んでももらえない。ネットに投稿したことは何度もあった、だが、人の目に触れないのだ。作品を応募したこともあったが、それも落選した。俺は小説家になる夢を捨てた。


 呆気ない、と思った。あんな大作を書いた小説家が交通事故で死ぬなんて。漣は完璧な人間だった。ずっと憎かった。

(こんなにすぐ、死ぬなんて)

 どうしてお前が死ぬんだ。才能に溢れて全てがうまくいっているようなお前が。

 どうしてお前なんだ、どうして俺じゃないんだ? おれの方が死ぬべきじゃないのか?


「『劣等と解読不能』の著者の角間廉司さんが交通事故で亡くなりました」

 何気なく付けたテレビのニュースで、また彼のことが話されていた。

 喉の奥が痛かった。息を止める。息が詰まる、息を吸う。それを何度も繰り返す。意識しなければ、息を吸うことさえ忘れてしまいそうだった。苦しい。

 漣は「劣等と解読不能」の作者で、沢山の傑作を生み出した、角間廉司だ。そして八月一日に亡くなった。

(でも、それだけじゃない)

 彼は俺の友人だった。家族のことで苦しんでいた。完璧人間なんかじゃなかった。ただの一人の人間だった。俺が初めてあいつの小説を褒めた時、本当に嬉しそうだった。自分の作り上げた小説で読者が楽しむことを誰よりも喜んでいた。そしてたくさんの読者を魅了し、メッセージ性の強い話を書いた。

(あいつはほんとうに小説家に向いていたんだ)

(誰よりも、小説家が合っていた)

 悔しい。あいつが急にこの世から消えて悔しい。何事もなかったように、呆気なく死んで、悔しい。

「……あ、」

 目から溢れたものが信じられなかった。

 悔しいんだ。悔しいだけのはずなんだ。

読んでくださりありがとうございました。

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