9 正しさを通すのは愚か者
夏の朝は青い。
早朝から蟬の声が絶えまなく続き、離宮の静寂を緩やかに掻きまわしていた。離宮に客が訪れることはまず、ない。宮つきの女官はおらず、官吏たちは声もかけずに荷車をおいていく。
だから、後宮丞が再訪してきたときは、紫蓮はがらにもなくびっくりした。
「君は」
「姜絳です。昨晩ぶりですね」
絳はみだれなく結わえた髪を、朝風になびかせて、涼やかに微笑みかけてきた。
「黄妃の事件に進展がありました。昨晩、大理少卿が妃殺害の容疑で逮捕され、朝から取り調べを受けています。これにより死刑が確定していた女官は再審理となりました。大理少卿の有罪がきまるまでは女官も勾留されることになりますが、面会はできます。あなたのお陰です」
紫蓮は事態を理解して、たまらずに笑った。
「は……はは、そうか、おどろいたな。きみはずいぶんな愚か者だったらしいね?」
辛辣な言葉を投げかけられても動じず、絳はいっそうに笑みをふかめた。
「女官の冤罪を解いて、大理少卿を逮捕するなんて、命知らずもいいところだよ。功績をあげたと、勘違いして喜ぶほどに純朴なわけではないだろう?」
微笑は変わらず、絳の眸が陰る。
「ああ、やはり――――貴女は聡明だ」
紫蓮は絳の真意を測りかねて、ため息をついた。
「君にとっては損しかないはずだけどね?」
「ええ、そうです。けれども、それはあなただって一緒だ。これまでも不可解な屍を視ては、あれこれと語ってきたのでしょう?」
聴かれたら、語る、と紫蓮はいった。
だが、ほんとうは「語られたからには、語る」というのが紫蓮の信条だ。官吏が尋ねようが尋ねまいが、屍が語ったことは伝えるのが誠実さだ、と紫蓮は受けとめていた。屍の声を聴けるのは彼女だけ、なのだから。
官吏たちが紫蓮を徹底して避けるのは、紫蓮が死の穢れをもっているとおもっているから、というばかりではない。
知りたくないことを語るからだ。
「誣告罪に問われたら、即、死刑だ。あなただって、命を危険にさらしている」
風が吹きつけてきた。
遠くから運ばれてきた梔子の香が漂う。強すぎる花の香はなぜか、死を連想させた。風に袖をはためかせながら、紫蓮は静かに微笑する。
「僕は死をおそれないからね」
ああ、でも、そうだねと紫蓮は続けた。
「ありがとう」
これはいっておくべきだろう。
絳が意外そうにする。紫蓮は彼のことを愚かだといった。
だが、嘲ってではない。事実としていっただけだ。損か得かで論ずれば、彼はあきらかに損を選んだわけだ。だがそれによって、救われたものはある。
紫蓮もしかりだ。
「これで、女官に会って、話を聴けるね。黄妃を最良のかたちで葬るためにも便宜をはかってくれるだろう? 後宮丞」
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続きは11日19時頃に投稿させていただきます。
ここからはひとつ、事件を終え、いよいよ「後宮の死化粧妃」の真髄であるエンバーミングの話に移ります。エンバーミングについてご存じの御方もそうでない御方も、現実にこういう技術があることを知りつつ、楽しんでいただければ幸いです。
ただ、その前に誰がために死化粧を施すのかを知らねばなりません。
死化粧妃の本領発揮まであとしばらくお待ちください。