66 奇人、菓子を焼く
眠らない後宮の朝は宵よりはるかに静かだ。
窓から日が差しこんで、紫蓮の睫にふれる。紫蓮は微かにうめいたが、日を避けるように頭まで被子をかぶり、寝がえりを打った。だが、何処からか漂ってきたあまい香りに誘われ、瞼をもちあげる。
見なれない板張りの壁だ。側にいるはずの猫たちもいない。
紫蓮は寝ぼけた頭でしばらく考えたあと、官舎に泊まったのだと思いだした。長倚子で眠っていたはずの絳はすでにいなかった。
それにしても、この香りはなんだろうか。
芳醇な乳酪の香りにこんがりと香ばしいにおいもまざっている。紫蓮は食欲というものがとぼしく、日頃から空腹を感じることもないのだが、この香りには強烈に惹かれた。
ふらふらと、あまい香りのもとを捜しにいく。
離舎に備えつけられている小さな庖を覗いた紫蓮は眼をまるくした。
「おや、起きられたんですね。あなたのことなので、もうしばらく眠っているものとおもっていたのですが」
絳が振りかえって、微笑んだ。かまどからおろしたばかりの鍋を持っている。鍋といっても煮炊きするための鍋と違って、底がひらたくて浅い。
「とてもいいかおりがしたからね」
「ああ、甜菓を焼いていたので」
「きみが、かい?」
意外だ。絳は恥ずかしそうに微苦笑する。
「笑わないでくださいね。細やかな趣味なんです。眠れなかったり、こんなふうに早すぎる時間帯に眼がさえてしまったときは、こうしていれば気が紛れるので」
鍋のふたをはずせば、魅惑の香りがいっきに拡がる。
「酥じゃないか」
桜や梅のかたちに型抜きされた生地がぷっくりと膨らんで、きつねいろに焼きあがっていた。花びらに似せた切りこみからはとろとろの白餡が覗いている。都の甜菓職人でも舌を巻くほどのでき映えだ。
「すごいね。結構な量だけれど、渡すあてがあるのかな」
「靑靑にやろうかとおもいまして。私がつくったものを食べてくれるのなんて、靑靑くらいのものですから」
「ふうん、……僕もいただいていいのかな?」
紫蓮が欲しがるとは想ってもみなかったのか、絳は鍋を落としかけるほどにおどろいてから、顔を輝かせた。
「ほんとうですか! すぐに支度をしますね。甘い物にあう茶も淹れないと。白芽奇蘭茶で構いませんか?」
絳は慌ただしく走りまわる。確か、ここに賓客がきたときのための茶杯が、なんて声を聴きながら、紫蓮は房室に戻り身支度を調えた。
ちょうど帯を結び終えたところで、盆に茶を乗せて絳が房室に帰ってくる。
「どうぞ、桜花酥です」
「ありがとう。いただくね」
楊枝でふたつに割る。酥生地はさくっと崩れた。頬張ると、さらにほろほろと砕けて、まだ熱を残した白餡があふれてきた。乳酪の香りと絡まりあいながら、桜の香が微かに鼻先を抜けていく。
ほおっと紫蓮が感嘆の息をついた。
「桜の葉を練りこんであるのかな」
「若葉を塩漬けにしておいたんです」
「夏に春の香を楽しめるというのはなかなかに雅だねぇ」
食べ終わり、茶をのむ。白芽奇蘭は梔子を想わせる芳香がさわやかで、甜菓にあう茶葉だ。ひとくちで華やかな余韻が残る。
「もうひとつ、どうですか」
「いいのかい?」
「もちろんです」
絳は今度は梅花酥をもってきてくれた。梅花酥は梅ではなく、完熟の杏の実をとろとろに煮て餡にまぜたものがたっぷりとつまっていた。甘酸っぱくて、品のいい味わいだ。
紫蓮が嬉しそうに甜菓を食べる姿を、絳は終始穏やかな笑顔で眺めていた。彼自身は食べてはいないのに、紫蓮よりもはるかに満たされているような。
「ずいぶんと幸せそうだね」
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