65 死に時を捜す
大好評につき、日曜日も2話投稿にいたします!
始まった時とおなじく、嵐はいきなり終わった。
雷がやみ、雨があがる。
朝を待たずに晴れたせいで、これまでは嵐に紛れていた筝や琵琶の音色が絶えまなく聴こえてきた。ただでさえ絳の臥榻を借りている、というだけで落ちつかないのに、ときどき妃妾たちの嬌声があがり、うとうとするたびに眠りを破られる。
ひらかれた後宮は、いまとなっては妓院と大差なかった。
「眠れませんか」
硬い長倚子に横たわっていた絳が声をかけてきた。
「きみだって、ちっとも眠れていないじゃないか」
「私はもとから、眠るのがにがてなんですよ」
雲のすきまからは月が顔を覗かせているが、風だけはまだ強かった。吹きつける突風が時折強く窓を揺する。
「眠りというのは、死に似ているとおもいませんか」
意識もなく、動かず、なにも感じず。
ひと時、魂が躰から遠ざかる。
「似ているもなにも、僕らは毎晩のように死の境界を踏んでいるのさ。逝きつもどりつを繰りかえして、着実に終わりにむかって進んでいくんだよ」
「眠るごとに死にむかっていくのに、眠らなければ衰弱して死に絶えるなんて、ままならないものですね」
燈火はすでに落としてある。絳がどんな顔で死について語っているのか、紫蓮にはわからなかった。
「死ぬのがこわいのかな」
「ふふ、逆ですよ。死に惹かれているんです、私は」
希死念慮とは違う、憧憬じみた響きがあった。
「でも、私はまだ、死ねない」
「そうか。きみは死に誘惑されるのがこわいんだね」
誰だってつらいときには楽なほうを選びたくなるものだ。
だが、かといって死は安楽たるかと尋ねられたら、紫蓮は頭を横に振る。死は救いではなく、裁きでもない。死をもって報われるものなどはなにひとつ、ないのだ。
でも、そういえばと紫蓮は想いだす。
「離宮では、熟睡していたように想うんだけどね?」
確か、命婦の復顔をしていたときだったか。疲れていたのもあるだろうが、絳は倚子に腰かけ、頬杖をついて転寝をしていた。息絶えたように眠る彼の姿が、紫蓮はいまだにわすれられない。
「あれは」
絳が一瞬だけ、言葉を捜してからつぶやいた。
「あなたが側にいたからです」
絳は緩やかに寝がえりをうち、臥榻のほうをむいた。
「だって、あなたならば、かならず、よみがえらせてくれるでしょう?」
潤んで弾む声を聴いただけで、絳が眸を蕩かせて微笑んでいるのがわかる。紫蓮に惚れたといったあの時と一緒だ。
「あの時だけは、私も屍になれた。あなたに愛おしむようになでられ、髪を梳かれ、葬られる屍のひとつに――ふふ、他愛ない妄想です。ですが、そんなことを想像していると奇妙に心が落ちついた。そのうちに眠ってしまったんですよ、お恥ずかしいですが」
絳が喋っているうちに窓から差す光が細くなって、臥房のなかが段々と昏くなる。遠くから平旦(午前四時)の鐘が聴こえた。朝にさきがけて月が眠りについたのだろう。伸ばした指先もぼやける冥昏のなかで視線だけを感じる。
「きみは死に時を捜しているのか」
「あなたは違うのですか」
絳の視線が、紫蓮のなかを覗こうとする。
紫蓮自身も覗いたことのない水鏡の底を。
「……どうだろうね」
宵の帳のような睫をふせる。
父親が死に、母親も死に、紫蓮だけが残された。齢九つだった。それからは他人の死に殉じてきた。強い望みを持つこともなく、あらゆるものを端から諦めて。達観といえば、聴こえのいい諦観めいた考えかたが、紫蓮には根づいていた。
「僕は死んでいると変わらないからね」
「あなたは」
死んでなんかいない、と続くであろう言葉を想像して、紫蓮が唇の端をゆがめる。ありふれたなぐさめだ。
だが、彼は紫蓮が想いも寄らなかった言葉を続けた。
「死んでいたいのですね」
真綿をふわりとかけられたような。
「構いません。構わないことだ。それでいい。あなたは死者の側にいるべきだ。こちらではなくて」
絳の声はなぜだか、祈りに似た響きを帯びていた。
「どうか、変わらずにいてくださいね、紫蓮」
死者は浄らかだ。嘘もなく利害もなく、他人を傷つけることもない。それは紫蓮のありように等しかった。
「そうか、そうだった、きみはそういう男だね」
愛でるような眼差しを感じながら、紫蓮は微かに息をつき、瞼をとじた。
後宮の喧騒は絶えることがない。
それなのに、先程までとは違って、胸のうちが静まりかえっている。絳のお陰だとは想いたくなかったが、水底に吸いこまれるようにして紫蓮は眠りに落ちていった。
お読みいただきありがとうございます。
ついに1000pt突破いたしました! 皆様の応援のお陰様でございます!
つきましては三部完結後にお祝いSSを投稿させていただきたいとおもいます。いましばらく連載を追い掛けながらお待ちいただければ幸いでございます。
続きは今晩5日(日)20時以降に投稿いたします。どうぞお楽しみに!





