45 奇人官吏、刑部尚書を言いくるめる
絳の舌が唸ります
刑部省の尚書室には、年季の入った書物のにおいがしみついている。
宮廷のみならず都から地方までの犯罪を総括する部署ということもあって、文几には刑集や筆録、名簿が積みあげられ、崩れそうな塔を築きあげていた。書の塔に埋もれるようにして老官がすわっている。彼こそが刑部尚書である韋菟仙だ。菟仙というだけあって、白髭を蓄えた仙人のような風貌をしている。
菟仙にむきあい、再調査を訴えているのは姜 絳だ。
「女官たちの直訴によれば、中都督である牟 勇明は妻の胡 琉璃にたいして暴行を繰りかえしていたとのことです。全身の二割から三割にもおよぶ青痣から毒素がまわり、腎機能に障害をきたした。これによって胡 琉璃は暴行から約二十日後に死去。これは刑部が取り締まるべき、れっきとした殺人事件です」
袖を掲げ頭を低くさげながら、絳の声には断固たる響きがあった。
「死化粧妃は宮廷でも唯一、解剖を許されたものです。綏 紫蓮は死斑に紛れた青痣をみつけ、腎を摘出。胡 琉璃の死因が肺の持病ではなく、腎不全であることを突きとめました。事実を訴え、隠された罪状を暴きだすため、あのような死化粧を施した次第です。よって、綏紫蓮は無実であると私は考えます」
「ふうむ、じゃがのう」
だが菟仙は煮えきらない。髭をなぜつけながら、のんびりとした口振りで続ける。
「胡 琉璃というのは確か、下級士族の女ではなかったかのう」
「左様ですが」
「証言も女官だけ」
「仰せのとおりです」
「ならば、いまさら、蒸しかえさずともよいじゃろう」
絳は予想がついていたとばかりに瞼をとじた。
「中都督を弾劾して、荒だてるほどのことではなかろう。皇帝陛下に害をおよぼしたわけでもあるまい。昨今、都でも民の暴動が相ついでおる。些細なことでも宮廷の官吏に民の非難がむくことは避けたい」
事を穏便に済ませるといえば聴こえはよいが、実際のところは宮廷の都合がいいように真実を隠ぺいするということだ。
「ですが、すでに民は疑いをもっています」
絳は努めて冷静に、食いさがる。
「胡 琉璃の葬式はたいそう盛大に執りおこなわれました。異様な遺体が民の眼に触れ、騒ぎになったからこそ、綏 紫蓮は後宮ではなく宮廷の獄舎で処罰を受けている。今後、根も葉もない噂が拡がるよりは、宮廷が制裁をくだして事態を終息させるほうが賢明ではありませんか? 先帝の時のようになっては、それこそ望ましくはないはずです」
先帝の異様な死については、緘口令が敷かれた。だが、民の口を防ぐは水を防ぐより甚だしという。先帝が村を焼きはらったという事実も相まって、無辜の民による祟りだとささやかれるようになり、民の反政意識が高まる結果となった。
「これは皇帝陛下の権威をも害する罪であると、私は考えております」
意外だったのか、菟仙は白髪の混ざった眉をあげた。
「どういうことじゃ」
絳は続きを促されたことに安堵する。
ほかの官吏であれば、絳の意見など頭ごなしに拒絶するだろう。
想いかえせば、菟仙はかねてから先帝派だった。昔乍らの封建主義ではあるが、能があるものにたいしては平等に扱うだけの器量を持っているということだ。
「胡 琉璃は皇帝陛下から下賜された身です。そんな胡を殺害した牟勇明の所業は、皇帝陛下にたいする侮辱と見做すべきです」
女は物だ。という考えを、絳は好まない。
皇帝の物。夫の物。
所有物で、貢物であるという意識は強く根を張っている。それを覆すことはできない。だから、いまだけは、それを逆手に取る。
「皇帝陛下は幼少の身であり、後宮は特例としてひらかれている。いわば、恩寵です。なればこそ、このような事態は看過せずに取り締まるべきではありませんか。それが陛下の権威を表すことにもつながるかと」
菟仙はふむと感心して、呻る。
「理にかなっておるな。……先帝陛下が可愛がっていただけある」
一瞬だけ、絳は唇の端を強張らせた。自嘲ともつかない乾いた嗤いを洩らしかける。だが、それをかみ砕いた。
菟仙が「わかった」と頷き、命令をくだす。
「姜 絳に命ずる。都に赴き、牟 勇明を捕縛せよ――――」
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いよいよ暴力夫の罪を裁きます! 引き続き、お楽しみいただければ幸いでございます!





