29 微笑みの妃
ここから六年、時が巻き戻り、紫蓮の回想になります。
「死に穢れた身で、宮にあがらないでちょうだい!」
女官たちが幼い姑娘の腕を振り払った。
男物の服を身につけた姑娘――紫蓮が倒れこむ。肩にかかるほどにきりそろえられた髪から、濡れた紫の瞳が覗いた。
紫蓮が七歳になったばかりのときだ。
母親が熱をだして、倒れた。うなされながら、皇帝の御名を呼び続ける母親をみるにたえかねた紫蓮は、皇帝が後宮にきていると聴き、逢おうとした。一度だけでもいい、母様に逢っていただけませんかと頼みたかった。
だが、皇帝が御渡りになっているという舎殿の橋にたどりついたところで女官たちに取りかこまれた。
紫蓮は涙をこらえて、女官たちに頭をさげた。
「おねがいします、陛下が、皇帝陛下がこちらにおられるのでしょう? どうか、逢わせてください。ぼくは皇帝陛下の御子です、ひとかけらでもお慈悲があるのならば」
「ねずみのように卑賎な身分で、陛下の御子だと語るとは!」
「なんて浅ましいのかしら。けがらわしい職についているものは、根性まできたないからいやだわ」
母親を侮辱され、紫蓮はたまらずに声を張りあげる。
「違います。母様のおしごとは、けがらわしくなんか、ありません」
紫蓮は幼心ながらに死化粧妃という母親の職を誇りにおもっていた。
母親がいかに誠意をもって死にむきあい、屍を扱っているのか。紫蓮は絶えず、側で見続けてきた。腐敗を遠ざけ、崩れてしまった部分を復元する。おしろいをはたいて紅をさし、最期に一度だけ、死者に息を吹きこむのだ。
それはともすれば、奇蹟のような。
「母様は、ちゃんとなすべきをなして、後宮におります。だれにも、ばかにされるいわれなんてありません」
「なによ、なまいきね」
幼い姑娘がこんなふうに反論するとは想わなかったのだろう。女官たちが眉をつりあげた。
「どうせ、おまえが産まれたのだって、なにか卑劣な手段を弄したに違いないわ」
「ほんとは宦官とのあいだにできたんじゃないの」
「男の服を着せて、男の言葉遣いをさせているのも、皇子ではなかったことを悔やんでのことでしょう? なんて執念ぶかいの」
紫蓮の瞳がゆがむ。
「そんなこと」
ないと言いかけて、声がつまる。
「どっかにいってちょうだい、死の穢れを振りまかないで」
女官が想いきり紫蓮を突きとばす。あ、と声をあげ、紫蓮が橋から落ちた。さすがにまずいとおもったのか、女官たちは慌ててその場を後にする。
「っ……かっ、たす、……け」
真夏のなまぬるく濁った水が喉に絡みつき、呼吸もできない。もがいても水藻を掻くだけだ。
溺れる――
すぐ側に死を感じる。意識が遠ざかっていった。
「まあ、なんてこと」
雲雀のような女の声が聴こえて、腕をつかまれる。抱き締められるようにして紫蓮は緩やかに助けだされた。
「ひどいわ、こんなに幼いこどもを突き落とすなんて。ほら、呼吸をして……」
背をさすられて咳こみながら、紫蓮はなんとか息をする。
華が綻ぶように微笑する妃の姿が、ぼやけた視界に映る。場違いなほどに嬉しそうな微笑。僅かな曇りもなかった。とてもではないが、溺れかけた姑娘に投げかけるものでは、ない。
それが、胡 琉璃という妃だった。
お読みいただき、ありがとうございます。
続けて明日26日明後日27日も回想になりますが、それからは現実の時間軸に戻るので、あとしばらくおつきあいいただければ幸いです。





