28 新たな死が舞いこむ
「紫蓮」
響きのよい静かな声だ。
振りかえれば、さわやかでありながら、どこか陰のある風姿の官吏がたたずんでいた。夏の暑さをいっさい感じていないかのような涼やかな眼もとを細めて、彼は微笑みかけてきた。
姜絳だ。
「げ」
紫蓮があからさまに後ろにさがる。
「ひどいな、そんなにいやがらなくてもいいじゃありませんか」
絳はこまったように微笑んだ。
「反省がない、というのはどうかとおもうよ」
最後に逢ったとき、絳は紫蓮に依頼をもちかけてきた。いわく、先帝の死の真実を解いてくれと。紫蓮は拒絶したが、絳は「死に呪縛されたあなたは、この依頼から遁れられない」と揺さぶりをかけてきた。
警戒されても致しかたがないというものだ。
「そうですか? 私はあなたとの約束を破ったりはしていませんよ。あの晩だって、あなたには指先ひとつ、触れていないはずです。それなのに、そこまで露骨にいやがられると……まあ、それはそれで嬉しいですが」
「嬉しいんだ……」
「嬉しいですよ。私はあなたのことが好きなので、あなたにむけられる感情はどんなものであろうと――って、どうしたんですか、またずぶ濡れではありませんか」
絳がかけ寄ってきた。
触れようと腕を伸ばしかけ、彼はいったんやめる。
「綺麗な御髪に水藻がついています。……髪にならば、触れてもよろしいですか?」
絳は律儀だ。紫蓮がいやだといった境界線はなにがあろうと破らない。警戒するのが馬鹿らしくなってきて、紫蓮はため息をつき、緊張を解いた。
「ありがとう。ちょっといろいろとあってね」
「どなたかに突き落とされたわけではないのですね?」
「ああ、それはだいじょうぶだよ」
「安心しました。ほら、取れましたよ」
たいせつなものを扱うように髪を梳いて、絳は名残惜しそうに指を離す。
「時に、先程の女官はお知りあいなのですか? 親しげに喋っておられましたが」
「意外だったかな」
「まあ、そうですね。あなたは友人はおろか、知人もおられないものだとおもっていたので」
つまりは、ぼっちではないか。
「けっこう辛辣なことをいうよね、きみ」
「ですが、あなたは傷つかないでしょう」
「これっぽっちもね。それにおおかた、あたっているとも。でも、僕にだって友といえるひとはいたんだよ。後宮から嫁いでいってしまったけれどね」
「皇帝から下賜された、ということですか」
「便宜上はね」
ひらかれた後宮になってから、下賜の意が変わった。昔は功をたてた武官、文官に皇帝が後宮の妃をさげ渡すものだったが、いまはある程度の役職があれば、後宮から好きな妃妾を娶ることができる。
「やさしい妃妾だったよ。喘息があってね、よく呼吸ができなくなっては倒れていた。嫁ぎさきではたいせつにされて、幸せになっていればいいのだけれどね」
先程の珠珠ではないが、百姓に嫁ぐよりは豊かで穏やかな暮らしができているはずだ。
「なんという妃妾でしたか。こちらで調べることもできますよ」
「胡 琉璃妃だよ」
微笑を絶やさない絳の表情が掻き曇った。いやな予感をおぼえて、紫蓮が視線を彷徨わせる。
「じつは、あなたに依頼がきています」
絳が話の流れを堰きとめて、言い渡す。
「後宮から嫁いでいった妃妾が死にました。遺書に「後宮の綏紫蓮妃に死化粧を施してもらい、葬ってほしい」と書かれていたそうで」
紫蓮はこの段階で、依頼者に察しがついた。
「胡 琉璃という妃です」
「そう、か」
紫蓮が睫をふせた。
彼女は死を嘆かない。ゆえに紫の双眸を陰らせても、唇から微笑を絶やすことはなかった。それが死を飾り、葬る技師としての誇りだ。
「ひとは死ぬものだからね」
愛していようと、恨んでいようと、家族だろうと、他人だろうと、死は平等だ。命あるかぎり、死にいたる。
あとはいかにして、死んだのか、だ。
「約束を、したんだよ」
紫蓮は哀しいほどに晴れた空を振りあおいだ。
雲ひとつない碧羅の天だ。眼にしみる。微かに涙が滲んできたのは空があんまりにも青すぎるせいだ。
「彼女がいつか、死ぬことがあれば――素顔で葬るとね」
想いかえせば、紫蓮と琉璃が逢ったのもこんな酷暑の夏だった。
まだ幼かった紫蓮は青空を映す池に突き落とされ、溺れかけていた。死にかけていた紫蓮を微笑んで助けてくれた彼女の姿は、六年経った今でも昨日のことのように想いだせる。
お読みいただき、ありがとうございます。
毎日投稿ということもあり、今後とも気軽に読んでいただきたいので、次回からはちょっと各話の文字数を減らしぎみにしたいとおもっております。ご理解いただければ幸いです。





