25 死化粧は残された愛を葬るために
皇帝が、死んだ。
いまから五年前の晩夏のことだった。
宮廷は嘆きの渦につつまれ、民は皇帝にたいする哀惜で都を涙の海に沈めた。皇帝の訃報は後宮のはずれにある離宮にも舞い降りたが、帝姫である綏紫蓮は庭で死にかけている蜻蛉を取りとめもなく眺めていた。
父親が死んだというのに、紫蓮の心にはさざ波すら起こることはなかった。蜻蛉が死んで逝くのと一緒だ。
紫蓮は産まれてから一度も、先帝と逢ったことがなかった。
だが、母親は皇帝がいかに素晴らしいひとかと繰りかえし語っては娘に聴かせてきた。仁徳があり、奴婢も士族も分けへだてなく接する度量のあるひとだと。
母親は、皇帝を愛していた。先帝の馬車が通ると、一瞬だけでもすがたがみえないかと廻廊から身を乗りだすほどに。
それでも、先帝の馬車が離宮を訪れることは、ただの一度もなかった。
だから、紫蓮が実の父親に逢ったのは、彼が死んだときだった。
訃報が届き、幾ばくかの後に豪奢な柩に横たえられて、皇帝の屍が担ぎこまれてきた。後宮の死化粧妃であった母親のもとに。
母親は柩をあけるなり、悲鳴をあげて泣き崩れた。母親の取り乱した様に紫蓮は肝を潰して、思わず柩のなかを覗きこんだ。
そこには地獄の亡者よりも惨たらしい屍があった。
紫蓮は母に死化粧を教わりながら、様々な屍を検視してきた。腐乱しているものもあれば、ばらばらになったものもあった。だが、これほどまでに酷い屍はみたことがなかった。
顔が、崩れている。
しかしながら、紫蓮を竦ませたのは凄惨な死に顔ではなく――皇帝の眼だった。ひきつれた瞼から剥きだしになった眼だけが。
(紫だ)
紫蓮と一緒だった。
ぼうぜんとなる紫蓮の横で母親が弾けるようにたちあがり、泣き腫らした瞼を袖でこすった。
それきり、母親は涙をみせることもなく、皇帝の竜顔を復元した。愛しげに微笑みながら語りかけ、夫婦ふたりきりの最後のときを惜しむように死化粧を施す母親の姿は、とても美しかった。
愛だとおもった。
母親は、ほんとうに皇帝を愛していたのだと。
そのときに紫蓮は想った。
死化粧とは、死者のためのものではない。遺されたものが未練を絶ち、死んだ愛を葬るためのものなのだと。
だが、母親は復元の手順はおろか、復元した皇帝の屍も、紫蓮にみせることはなかった。なぜ、みせなかったのか。いまとなってはわからない。
紫蓮の母親が死んだのはそれから七日後のことだった。
…………
燈火の絶えた房室のなかでうずくまり、昔のことを想いだしていた紫蓮がか細い息をついた。
手が微かに震えている。
絳がなにを考えているのかはわからない。だが、彼は紫蓮の知らないなにかを知っている。
「は……姜絳。きみのいうとおりだよ、僕は」
紫蓮はこれまで五百を越える屍を葬ってきた。だが、たった一度だけ、死化粧に失敗したことがある。最愛の母親の屍を、彼女はきれいに復元することができなかった。
葬れなかった母親の死と、葬るところを見届けられなかった先帝の死。
そのふたつが、いまだに紫蓮を呪縛している。
窓から風が吹きこんできた。花に嵐の予感を漂わせた重い風だ。
死を愛ずる姑娘と死を索る男の命運を暗示するかのごとく、月を喪した天は昏い。
されども、中天では星がふたつ、陰を退け、瞬いていた。
これにて第一部完結となります。
ここまでお読みいただき、ほんとうにありがとうございました。
後宮におけるエンバーミングを巡るダークミステリはお楽しみいただけたでしょうか。
「第二部、楽しみにしてるよ」という読者様がおられれば、「お星さま」「いいね」「ご感想」「レビュー」などをいただければ、続きを執筆する大きな励みになります。第二部の連載再開も早まるかもしれません!
また休載を経て、続きを投稿いたしますので、ブクマは外さずそのままお待ちいただければ幸いです。
最後になりましたが、
30日に「後宮の女官占い師は心を読んで謎を解く」がファミ通文庫さまからB6判にて発売いたします!
こちらの「後宮の死化粧妃」とはまた違った、明るくてテンポのいい後宮ミステリです。食いしん坊な女官占い師と謎多き廃嫡皇子を描いてくださったのは有名絵師の「ボダックス」様です。
とっても素敵な表紙ですので、宜しければ公式サイト様にてご覧いただければ幸いです!