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22 敵だらけの宮廷

 官人《かんと》の昼はとかく慌ただしい。


 とくに後宮丞《こうきゅうじょう》は朝から晩まで職務が山積みだった。紫蓮《シレン》のことが気に掛かって、つい時間を割いてしまったので、今晩は日を跨ぐまで働かないと間にあわなくなりそうだと絳《コウ》はため息をついた。


 だが、それはすぐに隠しきれない微笑にかわる。

 

(恋に落ちるというのはこうも幸せなきぶんになるものだったのか)


 綏紫蓮――彼女のことを考えるだけでも、頬が熱くなり、ぎゅうと胸を締めつけられる。

 絳はこれまで女人に言い寄られた経験も一度や二度ではなかったが、くだらないとおもうだけだった。きっと、死ぬときまで、恋愛というものは理解できないだろうと諦めていた。


 だが、紫蓮が屍の腹を割いたあのとき、これまでの彼が崩れた(・・・)。


 視線を奪われる、どころではない。たった一瞬で、呼吸も意識も、すべてを彼女に奪われた。酔って眩暈でも起こすようにぐらりと頭が揺れ、指の先端まで痺れた。それほどの衝撃があった。


(産まれてはじめて、ひとをきれいだとおもった)


 聴くだにおぞましい屍《したい》の解剖という禁を破りながら、紫蓮の眼差しは誇らかで、浄《きよ》らかで、死者にたいする敬意に充ちていた。

 みせかけを飾りつけるだけではなく、腹のなかの汚穢まで浄め、最期の最期まで腐蝕や崩壊から人の尊厳を護ろうとする彼女の慈愛。


 ほかの誰に理解できずとも、絳には――絳にだけは、理解《わか》ってしまった。


 転瞬、胸の底から燃えたぎるような激情があふれてきた。

 たまらなく愛しい――ああ、これが恋かと。紫蓮をずいぶんと戸惑わせてしまったが、あのときいったことに嘘はひとつもなかった。

 

 もっとも、浮かれてばかりはいられない。絳はひと呼吸を経て、きもちを切り替える。

 日が落ちて、人影が疎《まば》らになった屋外の裏廊《うらつうろ》を通り、尚書室《しょうしょしつ》にむかっていた絳は背後から声をかけられた。


「君が姜《キ》絳《コウ》だね」


 初老に差しかかった肥えた男――吏部尚書《りぶしょうしょ》だ。

 吏部《りぶ》とは文官を統轄する部署で、尚書《しょうしょ》はその第一官にあたる。部署は違うが、逮捕された大理少卿《だいりしょうけい》、刑部丞《けいぶじょう》たる絳《コウ》と比較しても、かなり階級が高かった。

 絳は袖を掲げ、低頭して挨拶をする。


「再捜査で裁定を覆し、女官の冤罪を解いたとか。いやはや、実に有能な若者で、頼もしいかぎりだよ」


「恐縮です。吏部尚書《りぶしょうしょ》ともあろう御方にお褒めいただけるとは」


「だが、君は考えてはみたかね。奴婢《ぬひ》あがりの女官が減るのと、科挙《かきょ》を通った名家の官吏《かんり》が減るのとでは、どちらの損害のほうが重いか」


 あからさまに釘を刺された。よけいなことをしてくれたなという意が強く感じられて、絳は嗤いだしそうになる。

 愛想笑いを張りつけて、はぐらかす。


「妙なたとえですね。審理《しんり》されるのは罪人か、無実かのいずれかであるはずですが……不勉強な身ゆえ、吏部尚書《りぶしょうしょ》のお考えを察することができず、失礼いたします」


 吏部尚書が呻り、侮るように眉根をゆがめた。


「ふむ、青いな」


 吏部尚書は廊《ろうか》を歩きだす。すれ違いざまに声を落として、彼は絳《コウ》にいった。


「貫けるものならば、貫いてみたまえよ。月のある晩ばかりだといいがね」


 絳《コウ》は微笑して、優雅に拝揖《はいゆう》する。


「御忠告、痛み入ります」


 吏部尚書が遠ざかっていってから、ようやくに頭をあげた絳は軒にさがった燈火《とうか》を睨みつけて、舌をうつ。


「あいにくと産まれた時から月どころか、星もあった試しがないんですよ。昏《くら》い路は歩きなれているものでね」


 月がなければ、進めないのはそちらでしょうと喉に絡《から》げるように嗤笑《ししょう》して、彼は官服の裾をさばく。

 風で燈火が揺らぎ、影の群がいっせいに渦をまいた。


 宮廷は敵だらけだ。腹のうちを詮索《さぐ》りあい、不都合な者を失脚させようと騙しあい、策略を張りめぐらせている。

 後宮もまた、しかりだ。

 華やかな暗がりのなか、彼は臆さず、進んでいく。


 その眼には、復讐の火がごうと燃えていた。

お読みいただきまして、御礼申しあげます。

続きは24日に投稿させていただきます。

後宮には陰謀が渦まいています……果たして、紫蓮と絳は権力にたちむかえるのか。

ちょっとでも「おもしろい」「ここからどうなるのか気になる」とおもってくださった御方がおられたら、「ブクマ」をぽちっとして本棚にお迎えいただければ、とっても励みになります。なにとぞよろしくお願いいたします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] なるほど、絳はただ死人の腹を裂いた彼女に惚れたわけではなかったのですね。そこにある死者への尊厳、慈愛までをも一瞬にして汲み取っていたのですね。 紫蓮さんへの彼の想いが詳しく伝わってきて、と…
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