幕間 奇人官吏と幼なじみの回想録
このたび9月2日の発売を前にアース・スタールナさまの公式サイトにて「後宮の死化粧妃」の特設ページが公開されました!
これもまた、皆様に応援いただいたおかげです! お祝いとして特別SSを投稿させていただきます!
絳と琅邪の過去編です。まだ官吏ではなく科挙試験の勉強に勤しんでいた絳と、そんな彼を遠巻きに眺めていた琅邪の友情の話。ふたりにもこんな時期があったのかと楽しんでいただければ嬉しいです。
蟬が騒ぐ。
頭を掻きまわすような蝉噪のなか、宮廷の院子ではひとりの男が難しい顔をして経書を読んでいた。
姜絳である。
絳は首斬り役人の一族でありながら、皇帝からその才能と忠心を見いだされて官吏に就職する道を与えられた。
だが官吏となるには科挙試験に及第する必要がある。この科挙試験というのは三年に一度執りおこなわれるもので、四書五経からの出題の他に議題にたいする政策を実際に考案し文書にするという試験もある。つぎの科挙試験が一年後にあるため、絳は眠る暇もなく勉学に勤しんでいた。この科挙試験というのは非常に難関で、幼少から勉学をはじめ、不惑(四十歳)や知命(五十歳)で及第するものも多いというほどである。半端なきもちでは及第はおろか、本試験までいくこともできない。
なにぶん、絳は識字もできない身だ。まずは経書を読めるようになるところから始めなければ。
(陛下は忠心があれば科挙試験くらいは突破できると仰せだったが、あの御方は現実というものを知らない)
胸のうちにとどめてはいるが、皇帝にたいする悪態もこぼれる。
「よお、絳。なにしてンだ、腹でも壊したみてぇな顔をしやがって」
後ろから聴きなれた声を掛けられた。
「わかりませんか? 試験勉強ですよ」
疲れている時に面倒な、という気持ちを隠しもせずに絳が振りかえる。この暑いなか、重苦しい玄服を身につけた琅邪が近寄ってきた。背後から覗きこみ、彼はひょいと経書をつかんで「ふうん」とおもしろくなさそうに鼻を鳴らす。
「読めねぇな」
「そもそも書の上下が逆さまですよ」
まあ、ただしく持っていたとしても琅邪には字が読めないのだが――もっとも、このあいだまでは絳も彼と変わらなかった。同じように宮廷の底に産まれついて、泥を啜りながら生き延びてきた。
意を違うこともある。だが、紛れもなく知音の友だ。彼と一緒に勉強できれば、官吏になれたら、そんな果敢ない夢が胸のうちで膨らむ。
「あなたは字を読めるようになりたいとは思わないのですか?」
だが、かえってきたのはにべもない冷笑だった。
「考えたこともねェな。読めたところで、獄吏は獄吏だ。死ぬまでな。それでいいンだよ。池の泥鰌が海の鯨になろうとしたところで碌なことにはならねェさ」
絳は唇をかみ締め、やや乱暴な手振りで琅邪から書を奪いかえす。
「そうだとしても、私は端から諦めるようなことはしたくはありません。それは逃げだ」
「あァ、そうだよ。どうせ変わンねェんだったら、楽に生きンのがいちばんだろ?」
睨みあったのは一瞬で、あとは互いに眼を背ける。
試験に身骨を砕いている最中に底で安んずる琅邪を視界に入れるのは嫌だったし、琅邪も琅邪で、愚かに足掻こうとする絳のことが目障りに違いないとおもった。
琅邪が遠ざかっていくのを砂利を踏む靴音だけで感じながら、絳は隈のできた眼もとをこすってまた経書に意識を集中させた。
………………
ない。
絳は青ざめていた。
睡眠不足が祟って、経書を読みながらうつらうつらと眠ってしまっていたらしく、慌てて眼をさました時には経書がなくなっていた。経書がなくては勉強もできない。絳が捜しまわっていると男たちの笑い声が聴こえてきた。
「ざまあみろ」
「首斬り役人の分際で勉強なんておこがましいんだよ」
「神聖なる科挙を穢すつもりかよ」
振りむけば壁にもたれて、良家の官吏たちが嗤っていた。絳はすぐにあの男たちが経書を盗んだのだと理解する。
「私の経書をかえしてください」
だが、官吏たちはしらばくれる。
「知らないな」
「どっかで落としたんじゃないのか」
そんなはずはない。眠るまえまではここで読んでいたのだから。
官吏は薄ら笑いを浮かべながら、こう続けた。
「どうしても要るんだったら、新しいのを取り寄せればいいだろう」
絳は頬が紅潮し、それとは裏腹に腹の底がすうと寒くなるのを感じた。この経書は皇帝陛下から賜ったものだ。
経書を購入するような銭は絳にはない。それをわかっていて、彼らは他愛のないことのように「取り寄せればいい」と挑発したのだ。
悔しかった。
絳は拳を握り締める。
だが、暴力沙汰等起こしては試験を受ける資格をはく奪される。だから官吏たちに背をむけ、黙ってその場を離れることしかできなかった。後ろからいつまでも笑い声が追いかけてくる。尾を巻いて逃げる犬になったような、ひたすらに惨めな思いがいつまでも胸を焼いた。
………………
「ほらよ」
その晩だった。
絳が藁にくるまって寝ていると窓からぱさりと何かが投げこまれた。眠っていなかった絳は身を起こして、放りこまれたものを確かめる。経書だ。ぼろぼろになっているが、読める程度だ。
息をのんで絳が窓をみれば、顔に酷い青あざのできた琅邪がいた。唇が切れて、血の塊がこびりついている。
「なぜ、こんな」
咄嗟に口をついたのはそれだけ。
「厩の裏に捨てられてた」
「……違います、その怪我ですよ」
それを聴き、琅邪は嗄れた喉を鳴らすように嗤った。
「盗んだ奴らをちょいと殴ってきただけだよ」
「官吏相手に喧嘩だなんて」
「やられたらやりかえすのが俺の信条だからな」
絳は言葉を絶し、頭を振ってから掠れる声でつぶやいた。
「……あなたは馬鹿だ」
「そうだよ、知らなかったのか?」
嗤う琅邪に絳は何故か、涙腺が熱くなる。
「無謀すぎます。処罰されるかもしれない。明日の朝、捕吏がきたらどうするんですか。こんな経書一冊のために……」
「日が落ちるまであっちこっち捜しまわってただろ? 俺にとってはなんかごちゃごちゃ書いてあるだけの厠紙だが、 おまえには違うんだろ。だったらそれだけで殴るには充分じゃねェか。んで、おまえは殴れない、ひとを殴ったら試験を受ける資格がなくなる。だったら俺が殴るしかねェだろ」
友だちだからなと。
敢えて言葉にはしなかった声が聴こえてきた。
「何処にいこうと、どんな偉い役職になろうと、おまえは変わらねェよ」
「わかっています」
産まれついた泥のにおいは抜けないものだ。それでも泥を落として、そうと感じさせないよう、振る舞うことはできる。根は変わらずとも。
「しんどい生きかただぜ」
「……泥鰌は海では呼吸もできない。それでも同じ魚だ。うまく、海水と淡水が混ざりあうところを渡れば泳げるでしょう。……全部、わかっていて進むんですよ、私は」
絳が経書を胸に抱く。まだ泥がついていたが構わなかった。
「そうかよ」
琅邪が背をむけた。ふと思いだしたとばかりに声をあげる。
「ああ、そういや、海にも海泥鰌ってやつがいるらしい。ま、のらりくらりいけよ」
提燈もさげずにきたので、琅邪の背はすぐに闇のなかに紛れてしまう。それでも絳は遠ざかっていく足音に最後まで耳を傾けていた。
夜の風はまだ暑い。
それでも何処か、心地よかった。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
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