幕間 奇人官吏、女装する
アース・スタールナ様から出書籍化が確約しておりました「後宮の死化粧妃」ですが、製作上の都合により発売日が6月3日から9月に延期となりました。
すでに続々とご予約をたまわっておりますので、大変申し訳ございません。
お詫びのきもちをこめ、特別SSを投稿させていただきます。
最高のかたちで書籍化に進めるよう、今後とも力をつくして参りますので、引き続き「後宮の死化粧妃」をよろしくお願いいたします。
「紫蓮、私に化粧をしていただけませんか」
夏の午後、後宮の妖妃である紫蓮のもとを訪れた絳は挨拶も程々にそんな依頼を持ちかけた。
紫蓮は標本をつくっていた手をとめて、振りかえる。
「まさか、死化粧かい?」
「いえ、さすがにまだ、死にはしませんよ。お願いしたいのは女装でして」
絳は苦笑したが、紫蓮はなぜか眼を輝かせる。
「いいね、素敵な趣味じゃないか。まかせておくれよ」
「待ってください。誤解です、趣味というわけではなくて」
「いいんだ、わかっているよ。公にはなかなか言いづらかったろうね。でも、変なことではないんだよ。ひとはみずからを好きによそおうことができるんだからね」
紫蓮は嬉しそうに箱から唇紅や烟脂を取りだして、いそいそと拡げる。これかなあれかなと唇紅の選んでいる姿は非常に可愛らしいのだが、どう考えても誤解されている。絳が慌てて弁明した。
「潜入捜査なんです。妓院に紛れこむのに、女装するのが最も都合がよさそうなので」
「ああ、なんだ、そういうことか。がっかりしたよ。きみだったら、とても似あうだろうに」
紫蓮は落胆しながら「こちらにおいで」と鏡のまえに手招きした。絳は誘われるままに椅子をおろす。鏡には見飽きた自身の顔が映っている。
「きみはとても化粧の映える顔のつくりをしているね」
否定はしなかった。後宮にいると何処からともなく妃妾たちの視線を感じる。女に好かれやすい顔をつかって、事を有利に運んだときもある。だが、絳が気になるのは別のことだ。
「あなたはどうですか?」
「ん?」
「こういう顔はお好きですか? 好きになっていただけるのであれば、嬉しいのですが」
「残念ながら、僕には特に好みというのはないからなあ」
そうだろうとおもっていた。
「ひとにはそれぞれ、きれいなところや愛らしいところがあるものだからね。老いていても幼くとも、男でも女でもね。だから一概にはいえないけど、きみは骨のかたちからして細くて、女の化粧が似あうだろうとおもうよ」
紫蓮の持つ化粧筆が、絳の頬骨をたどって掃う。
「肌もきれいだね。きみはもしかして、髭を剃らなくてもだいじょうぶだったりするのかな」
「ええ、恥ずかしながら、髭は処理したことがありません」
男としては恥だ。宦官も去勢したあとは髭も伸びなくなるため、わずかでも髭がはえてきたら大喜びで育てるものと聴いたことがある。
だが、紫蓮はそれをばかにするでもなく「いいんじゃないかな、きみは髭は似あわないとおもうよ」とだけいった。
「さて、始めようか」
紫蓮は絳の顔にむらにならないよう底膏を延ばしてから香粉をはたいていく。
「男と女ではそもそも頭蓋骨からして違うんだよ。女は額が、男は眉のところにある骨がでているからね。きみは髪で額が隠れるから、額はいいとして鼻かな。鼻筋は通っているけど、男は女と比べて彫りがふかいからね。女は額から鼻さきまで明るくして鼻筋を際だたせるところだけど、男だったら鼻の中程から先端に光を差して、影は薄めにくらいがちょうどいいね」
「いろいろと違いがあるのですね」
鼻の輪郭をなぞる筆の動きは愛おしむようで心地よかった。絳は化粧を施されながら、終始鏡に映る紫蓮ばかりを追いかけている。
「あとは眼許かなあ」
眼のしたにあるわずかな膨らみに光を乗せて、うす紅の眼影を瞼になじませる。鏡に映る絳の姿が様変わりしてきた。
「唇紅を施すまえに服を着がえてくれるかな。僕は席を外すからさ」
絳は持参してきた女物の襦裙に袖を通す。帯を結び終えたところで、後ろから声をかけられた。
「絳様はおられますか?」
廻廊からひょいと顔を覗かせた靑靑は絳をみて、眼をまるくする。
「あっ、失礼いたしました。まさかお客様がお越しになっているなんて思わなくて」
靑靑は慌てて頭をさげる。絳のことがわからないらしい。
「私ですよ、靑靑」
「え、ええっと、どこかでお逢いしたことがありましたでしょうか。ぼ、ぼく、こんなにきれいなひとに逢っていたらわすれないとおもうのですが」
靑靑は頬を紅潮させてもじもじとしている。絳はあきれかえった。
「わからないのですか?」
「えっ、そのお声は……ま、まさか、絳様、ですか? だ、だってすごく美人で、えっ? ほんとうに?」
いまだに疑っている靑靑に絳はやれやれとため息をついた。だが、さすがは紫蓮だ。知りあいでも妃妾だと勘違いするくらいならば、潜入など易いだろう。
「女装なんてむちゃだとおもっていたんですが、これだったらだいじょうぶそうですね。むしろ、ほんきで惚れこまれたりしないか心配になるくらいです」
「お待たせしたね」
紫蓮が蛤の殻を持ってもどってきた。
「それはなんですか」
靑靑が覗きこむ。
殻のなかは緑いろに輝いていた。
「笹紅だよ」
筆にわずかに水を含ませて、殻のなかに筆の先端を落とす。緑が紅に移ろった。
紫蓮はその紅を絳の唇に乗せた。唇が紅にそまる。だがそれで終わりではなかった。紫蓮は紅を繰りかえし、執拗なほどに重ねていった。接吻でもしているような、奇妙な熱がある。
次第に唇は緑とも黄金ともつかない艶を帯びはじめた。紅に緑が透け、火垂を唇に燈しているような揺らめきが産まれる。
鏡を覗いて、絳は細く息を洩らす。
「きれい、ですね」
自身の顔などきれいだとはおもわないが、紫蓮の施してくれた化粧は美しかった。後宮の妃妾たちがしている化粧なんか比べて語るのも愚かなほどだ。
美しくて。
空怖ろしい。
きれいなものは恐怖を連れてくる。自身ではない自身。乖離した映し身。絳は鏡映しに紫蓮を視る。ともすれば、直にむきあうより、ずっと底まで。
「紫蓮」
鏡に触れる。
みつめあっているだけでも彼岸に連れていかれそうな、連れていかれたいような奇妙な欲が湧きあがる。
絳がたまらず、言葉をこぼす。
「いつか」
縋るような声が、唇を濡らした。
「ああ、わかっているよ」
紫蓮は微笑む。絳は安堵して、言いかけたことばをのむ。
靑靑はふたりがなにを喋っているのかわからず、瞬きをしていた。
「理解るよ」
言葉がなくとも、絳の想いを理解してくれる紫蓮のことが。
「好きです」
いつか、絳が死んだら、最愛の妖妃に最後の化粧を施してもらう。そのときには彼女から絳に接吻をしてくれるはずだ。
揺らめき、燃える唇に呼吸を吹きこむようにひとつ。
(その時まで)
奈落の底を歩き続けていくときめた。
6月3日には2000pt突破の祝いSSを投稿させていただきます。ぜひともお楽しみにお待ちいただければ幸甚です。